裏切りの誘惑
手を伸ばす子供
少し前に渡された合い鍵で自分のアパートのドアとは天と地の差もある、重厚で丈夫でしっかりとしたドアを開け玄関に入る。靴を脱ごうとふと下を見たら、彼の靴ともう一足、ヒールの高い――いつも思うけど、よくこんな細い踵で転ばずに歩けるものだ――女性の靴。ああ、またかと帝人は嘆息した。顔を上げて部屋の奥を見通すように目を細めれば、微かに聞こえる音と声。きっとこれ見よがしに扉でも開けて愉しんでいるに違いない。何を、とか考えるのすら馬鹿らしい。いきなり呼び出されたかと思えば、これか。もう一度息を吐いた横顔には悲壮感は無くて、あるのは諦めだった。そのまま帝人は踵を返し、開けた時と同じようにあっさりと扉を閉めた。彼の思惑通りになっていると分かっていても、帝人はこの場を立ち去るしか選択肢が無いのだ。他人の、―――否、一応恋人と呼ばれる人間の浮気の現場など、余程の嗜好の人間でも無ければ誰が見たいものか。例えそれが許す結果になったとしても、だ。
新宿も池袋も人の多さは変わらない。けれど何となく池袋の方が気楽なのは慣れからだろうか。人にぶつかることも無く、するりと雑踏を抜けながらはあっと息を吐く。白い二酸化炭素が一瞬視界を染めた。早く温かくなればいいな、と思う。あのボロアパートのおかげで寒さには随分鍛えられたけれど、やっぱり寒いものは寒い。人の体温にほっとする季節なんてさっさと過ぎればいい。一人で居ても寒くも何とも無い――花粉症の人には辛いが――春が待ち遠しいなと帝人は瞼を伏せた。
丈長のジャケットのポケットに入っていた携帯を取り出し、液晶を覗く。着信もメールも無い、沈黙を保つ画面に帝人はふるりと瞼を震わせた。
臨也の浮気は今回が初めてじゃなかった。何度も、そう何度も繰り返された裏切り。(もしかしたら彼にとっては裏切りにもならない行為かもしれないけれど)最初は憤って苦しくて哀しくて涙を流すくらいには傷付いていたけれど、人間とは不思議なもので、数を重ねられる毎に心が麻痺するかのように慣れていった。「これも仕事の一種だからさ」「本当に愛してるのは君だけだよ」「俺を信じて」横一列に並べられる言い訳の数々。けれど麻痺と共に彼を信じる心もすでに疲れ果て、帝人は言葉の外枠だけを受け留めるしかない。その中に潜む真意すらどうでもいいとすら、感じてしまう自分はおかしくなっているのだろうかと自問することも無い。そして最後は彼を許すのだ。彼が仕掛けるループに抜け出すこともできずに。
「おや、竜ヶ峰君じゃありませんか」
雑踏の中、鼓膜に触れた声に振り向けば、あまり服には詳しく無い帝人ですら分かる仕立ての良いスーツに同じくらい値段が気になるコートを羽織った、不相応と思いつつも親しくしてもらっている大人が煙草を片手に帝人を見ていた。
「四木、さん」
「お一人ですか」
立ち止まる帝人に持っていた煙草を携帯灰皿に捨てながら近寄る大人。かっこいいなぁと思いながら、はい、と頷けば、こんな夜中に?とまた問いかけられる。さすがに、呼び出されたけど浮気現場に足を踏み入れそうだったので回れ右したとは言えるわけもないので曖昧に言葉を濁せば――嘘を吐ける相手でもないので――、じっと見られた後「成程」と頷かれた。
「折原臨也ですね」
当たり前のように吐かれて、帝人は苦笑した。そう言えばこの人には前にも似たような状況の中会ったのだ。あの時はまだ彼の遊戯に慣れてなくて、情けなくもこの人の前で泣いてしまってとんだ醜態を見せてしまった。今思い出しても顔から火が出るほど恥ずかしい。
「あれの悪癖にも困ったものですね」
「・・・臨也さんですから」
反射的に応えた言葉に他意は無かった。真実そう思う故の言葉だから。それに感づいたのか、大人の目が僅かに細められた気がした。
「四木さん?」
「・・・・いえ、」
四木はスーツの胸ポケットに手を差し入れる仕草を見せ、けれど何かに気が付いたように止める。それを見て、ああ煙草を吸うのを遠慮してくれてるんだ、と何となく面映ゆい気持ちになった。ただ子供扱いされているだけかもしれないけれど。
「えっと、煙草でしたら大丈夫ですよ?」
「ん、ああ、すみませんね気を遣わせて」
「いいえ、僕の方こそありがとうございます」
そう応えれば、「君は頭が良い子ですねぇ」と返ってきた。どういう意味だろうか。首を傾げた帝人に彼は口元を緩めた。それだけで強面の空気が和らぐ。その一瞬が帝人は密かに好きだった。
「ということは、今日はもう予定が無いということですね」
「あ、はい。夜にうろうろしてても補導されるだけですし、正直遊ぶお金も無いので」
あはは、と笑う帝人に四木は何を思ったのか、携帯を取り出し何処かへと電話をし始めた。そろそろお暇するべきかもしれないが、電話の最中に立ち去るのも失礼だからと帝人は彼の電話が終わるのを大人しく待つ。
ふと、横を楽しそうに並んで歩く恋人達が通り過ぎる。絡め合う指と指、合わさった掌。微笑みあう顔と顔。そういえば臨也さんとは一度も一緒に出かけたこと無いな、とぼんやりと思った。
共に居る時間は帝人の部屋か、もしくは幾つもある臨也の隠れ家か。そのどちらかで何時も過ごしていた。そもそも男同士だからこんな人が溢れる中で手を繋いで歩くなんて、鳥肌が立つほど似合わないと思うから特別羨ましいとは思わないけれど、でも、やっぱり違うんだなとそう感じた。他の恋人達と違うのを理解しているからこそ、帝人は臨也の浮気を黙認しているのかもしれない。彼だからこそと想うのと同じ位、きっと。
「竜ヶ峰君」
「っはい」
「どうしました?」
帝人がぼーっとしてる間に電話が終わったのだろう四木が、先ほどよりも近い距離で帝人の顔を覗き込んでいた。今までに無い距離の近さに一歩だけ後退しつつ、慌てて首を振る。
「いえ、ちょっと考え事してただけです。それであの、僕そろそろ、」
「もし疲れていなかったら、私に付き合ってくれますか?」
「・・・え?」
大人はにっこりと笑った。
「今まで仕事していたもので、まだ夕飯を食べてないんですよ。良ければ、一緒に食べませんか?」
「へ、・・・・えぇっ?」
「とは言っても実はもう二人分で予約したんですよね、レストラン。ああドレスコードとか気にしない店なので安心してください」
「え、あの、四木さん待っ、」
開いた唇に冷たい指が触れた。切れ長の眸に見つめられ、思わずどきりと心臓が鳴る。ただ頭の片隅で見たことのある色だと思った。
帝人の戸惑いに、大人は触れた時と同様に静かに指を離し、戯れにその指を振ってみせた。その様が存外子供っぽくて、帝人はぽかんと見上げる。四木は悪戯に微笑んだ。
「食事をする相手がいなくて寂しいんです。そんな私に付き合って下さいませんかね」
ぱちりと瞬いた蒼が、やがて柔らかく緩んだ。
「寂しいって・・・四木さんでもそう感じるんですね」
「おや、子供でも大人でも一人は嫌なものですよ」
「ふふ、そうですね。すみません」
くすくすと笑う帝人の心に過ったのは臨也から貰ったメール。
――― 暇だったら一緒にご飯食べよう ―――
携帯は、まだ鳴らない。
帝人は瞼を伏せ、そうしてゆっくりと四木を見上げた。