Maria.
序.
『…学院最年少博士、謎の失踪』
俯せのまま、悟浄は目を覚ました。
『かれは数年前、東方最高学府である同学院に招聘編入し…』
腕にかけたままのタグホイヤーもどきの時計は、11時を指している。目覚まし代わりにセットしておいたテレビが、勝手に喋り出していた。床に脱ぎ散らかした服を蹴りながら、悟浄は洗面台へと向かった。
母親がいた。
あの頃のように、自慢の黒髪をなびかせて、自分へと笑いかけていた。小さな子供になっていた自分は、真直ぐに彼女の下へ走り、その腰に抱きつく。
『母さん』
ひんやりとした掌が、小さな悟浄の両頬を包む。
長い爪が、彼の頬に食い込んだ。
『母さん?』
『ゴジョウ』
そして、切り揃った前髪の間から見えた顔は。
冷水で軽く口を漱ぎ、顔を洗った。
『久々に嫌なモノ、見ちまったな』
覚め際に見た夢を思い返しながら、悟浄は洗濯機を回し、昼食代わりにレトルト雑炊の支度をしてテーブルに落ち着いた。飲み過ぎた翌日はこれが一番だと思う。ただの怠けには違いないのだが。
食べ終えて、テレビの番組が切り替わって、煙草を一本灰にしても、悟浄は記憶を巡らせ続けていた。
それは母親の顔ではなかった。醜い、鬼の顔が、いつの間にか自分の首を捕らえて笑っていた。
『なんて汚い生き物なの』
指が、食い込む。汗が幾筋も流れていくのを感じる。
『髪も目も、お前自身も…こんなに、こんなに』
女は悟浄を見据えて、ぐいぐいと両手に力を込める。立ち尽くし、女のするがままになるしかない。身体が、ぴくりとも動かないのだ。
『呪われればいい、穢れてしまえばいいんだ』
「やめて…」
『誰も愛せるはずないわ、こんなに汚いおまえに幸せになれる権利はないのよ』
「やめて」
そう、首の圧迫に耐えかねて目を閉じた時。
「なんていったっけなぁ…」
いつも黒いワンピースを着ていたっけ。考えながら二本目の煙草に火をつけた。
それは本当に目覚める瞬間だったのだろう。彼の髪や目をきれいだと褒めてくれた人はたくさんいたが、誰の言葉も聞かなかった。ただ、実母と、一人の女の子の言ったその言葉だけは、悟浄は信じることができた。その時の女の子が、今日の夢でも助けてくれたのに、悟浄はどうしても顔を思い出すことができないでいた。
「キレイ、か」
そう呟いた唇には、自嘲の雫。閉じた瞼の裏で、鬼が、泣きながら笑っている。
『あんたの勝ちかな?俺は誰も愛していないし、幸せなつもりもない』
煙草をもみ消して立ち上がった。
「でも不幸ではない」
洗濯機のブザーが鳴って、悟浄は慌ててリビングを離れた。