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狐と兎

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 「そうだろう!?」と詰め寄るアーサーに、菊は今まで頷けたことはない。アーサーの問いかけに困ったような顔をし、そんな菊の様子にアーサーはなんだか泣きそうな顔をする。
 そしておいしくなったかどうかを確認するために、菊は差し出されるアーサーの肉をかじる。
それが、最近の日課だった。
 「早く食べちゃった方がいいと思うんだけどなぁーっ」
 顔なじみの狼であるフェリシアーノは言う。
 「食べないのならば、放せばいい。あれをお前の傍においておいたところで、益はないぞ」
 フェリシアーノと兄弟のように育ったルートヴィヒも、そう忠告してくれるのだけれども。
 「そうなんですけど・・・離れてくれないんですよね」
 どんなに手段を講じようが無駄だった。むしろ、アーサーのそれは年々酷くなっていっているような気さえする。菊が頷かないから意地になっているところもあると菊は思うのだが、それでも今のところ暴走するアーサーを止める方法は見当たらない。
 「まぁ・・・そうだろうがな」
 アーサーの、菊に対する執着を知っているルートヴィヒはその様を思ってため息をついた。
 菊だってルートヴィヒに言われなくたっておかしいとは思っている。食べるものと食べられるものが、その役割を果たさずに一緒に暮らしているだなんて。
 目の前にあるおいしそうな食事。
 食べたらおいしくないから食べないけれども、でも最近菊は少しだけ自分の変化に気がついてきている。
 そしてその変化こそが、一番やっかいな現象だった。
 今はまだ、アーサーは全然おいしくないから食べることはできない。でも、アーサーが本当においしくなったら?
 今の生活は、それまでずっと一人で暮らしてきた菊にとって不思議なものだった。この辺りに、菊と同じ狐はいない。だから、誰かと暮らすなんて思ってもいなかったのに。
 家に帰っても一人ではない。寝るときも、朝起きたときも。そこには、自分を一番に必要としてくれている存在がいて。
 (おかしな話、なんですけどね)
 食べてくれといわれるたびに、なんだか胸の奥がきゅっと締め付けられるような気分になるなんて。
 それでも、いつかは言わなければいけないだろうなと菊は思っている。
 一緒にいればいるだけ、自分にとってもアーサーにとってもいいことなんか一つもないのだ。
 だから、その時はいつか来る。あの兎を、自分のもとから手放す時が。
 (いつかは・・・)
 そんなことを考えていたからだろう。帰ってきた我が家の異変に、その扉を開けるまで気がつかなかったのは。
 「ただいま戻りました」
 簡素なつくりの扉を開ける。兎と暮らすようになってから習慣付いたその言葉は、改めて思えば少し気恥ずかしい。相手が、自分を待っていると分かっているからこその言葉だからだ。
 しかし、正しく家にいる相手は菊のことを待ちわびているのだから間違いでもない。
 ただ、菊の中で消化し切れない葛藤があるだけのことだ。
 だから今日も、扉を開けた先にはいつもの光景が広がっているはずだった。
 落ち着いた室内には菊の帰宅を知った兎が満面の笑顔でいて、飛びつかんばかりに菊を向かえて「おかえり」と返す。
 そのはずだったのに。
 そこには、誰もいなかった。
 「・・・アーサーさん?」
 アーサーとて、外出をしないわけではない。菊がいない時には近くではあるが外を歩き回ることがある。はじめはそれかと思った。
 けれど、次第に部屋の中のおかしさに菊は気付く。
 (なん・・・ですか、これ)
 部屋の中が、荒らされていた。まるで、争った跡のような。
 そして菊は、部屋の中央にそれを見つけてしまった。
 血の、跡だった。
 木の床に、まだ乾ききっていない赤い跡が点々と残っている。乱されたテーブルの上はクロスも引き摺り下ろされ、乗っていたのだろうカップは床に落ち割れていた。
 細かく砕けた破片の上を、菊はふらっと歩く。足の下で、ぱきりとまた破片が音を立てたがそんなこと今の菊の耳には届いていない。
 近づくたびに、血の臭いが鼻につく。
 覚えている。彼と出会ってから何度も何度も、その血を舌にのせた。何度味わったところで決しておいしいことなんかなかったけれども、それでもしっかりと記憶している香りが。
 その場に座りこみ、菊は赤い跡に手を伸ばした。ぬるっとした液体が白い菊の手につき、汚す。
 指先についた血を、菊は唇に運んだ。
 舌先に乗る、血の味。
 あぁ、間違いない。
 (アーサーさんの・・・血の・・・)
 血の気が引くというのは、こういうことなのだろう。
 ざわりと、尻尾の毛が一気に逆立つのが分かった。そして湧き上がる、凶暴な感情。
 あぁ、これが本能というものなのだろうかとどこか冷静に考える自分はいたが、しかしだからといって全身を駆け巡るその嵐は収まることを知らない。
 押さえ切れない血の滾りが菊の中で激しくうずまき、瞬間的に頭の中まで支配した時、菊は家を飛び出していた。
 (アーサーさんっ!アーサーさんっ!アーサーさん・・・っ!)
 繰り返す名前と共に、菊は森の中を走る。
 血の量はそう大して多いものではなかった。だから、そう簡単に死んでいるとは思えないけれども、心臓は早鐘を打ち続けるばかりで落ち着いてはくれない。
 もし、もし、もし・・・っ!
 もしかして、アーサーが死んでいたら。
 菊の地を蹴る足がスピードを上げた。早く行かなければ。アーサーのもとへたどり着かなければ。
 菊は駆ける。時折、張り出した木の枝が菊の顔や腕を傷つけたけれどもそんなものを構う余裕など一切ないくらいに。
 血に混じって落ちていた、白い短い毛の持ち主のところまで。
 たどり着いた彼の気に入りの場所には、やはりその姿があった。自分よりも、アーサーよりも大きな体躯が大木の影にある。
 「・・・・イヴァンさん」
 菊は、そこにいた旧知の白熊にそう声をかけた。押さえられた声の中に、隠しきれないものを残して。
 イヴァンと呼ばれたものが振り向く。何故か異様に自分のことを気に入っているこの白熊は、アーサーとは違った意味でどこかおかしな存在だった。
 穏やかそうな顔の中に、決してそれとは相容れない雰囲気を漂わせながらにこにこと菊の姿を見つけると嬉しそうに菊の呼びかけに応える。
 「やぁ、菊くん。久しぶり」
 「お久しぶりです」
 「どうしたの?なんか、おもしろい顔してるね」
 見たことない、楽しいことになりそうな顔。とイヴァンは嬉しそうに笑う。
 その足の下には、血だらけになったアーサーの姿があった。
 イヴァンに飛び掛りそうになりながら、菊は目の前の大きな存在をにらみつける。
 「返してください」
 「これ?」
 イヴァンは楽しくもなさそうに、足もとにあったアーサーへと目を向ける。
 アーサーの意識はあるようだが、どれだけの力で踏みつけられているのかくぐもった声しか出すことができない。
 「これさぁ、もういらなくない?」
 イヴァンはアーサーを見下ろし、弾んだ声でそう言った。楽しそうなくせに聞くものが聞けば分かる、どこか苛立ちの含んだ声で。
 「食べてもおいしくないでしょ?僕は平気だけど、菊くんおいしくないもの嫌いでしょ」
作品名:狐と兎 作家名:霜月十一