狐と兎
「えぇ、好きではないです」
菊の言葉にだろう、踏みつけられたアーサーの耳がぴくりと反応した。
「じゃあ、いいじゃない。僕が食べちゃっても」
僕はそんなに、ご飯の好き嫌いないもん。と、イヴァンは大きな体躯に似合わない穏やかな笑みを浮かべた。それを裏切る、冷たい瞳と共に。
「だって、さっき菊くんの家に行ったらこの兎がいてさ。僕は菊くんに会いに来たただけなのに、この兎菊くんは渡さないなんていうんだもん。まるで、菊くんが自分のものみたいにさ。だから・・・むかついたから食べちゃおうと思って」
その目は本気だった、アーサーを踏む足に力が入ったのだろう。苦痛のうめき声が、さらに大きくなる。
「それでも」
今までずっと、認めないでいたことだった。ずっと、否定して、アーサーの問いかけにだって絶対に答えないようにしていて。なのに、自分の中で本能が叫ぶ。
返して、返して返して返して・・・・っ!
だって、それは・・
「それは、私のものですから」
絶対に渡さない、手放さない、自分のもの。
「・・・・菊くんのなの?」
こてんとイヴァンが首をかしげて、意外そうな顔で問う。
「えぇ。ですから返してください」
ふーんと何か考えるように宙を見上げたあと、そっか。とイヴァンはあっさりとアーサーから足を離した。
「じゃあ、しょうがないね。僕が勝手に食べるわけにはいかないもの」
土と自らの血にまみれたアーサーのもとへと思わず駆け寄る。
「菊くんがこれのものなんてそんなの認められないけど、これが菊くんのならしょうがないね」
イヴァンの理屈は相変わらず分からないが、しかしどうやら納得してくれたようだ。
「じゃあね、菊くん。今度はちゃんと、僕と遊んでね」
遊んでくれなかったらどうなるか、それはもうきっと聞く必要もないことだろう。
「ええ・・・」
ひらりと手を振って去っていくイヴァンの後姿を見送った後、菊は目を閉じたままのアーサーの頬に手を当てた。息をしているし、出血も思っていたほど酷くはないが無事というわけではない。
「大丈夫ですか?アーサーさん」
問いかければ、こくりと首が動く。「大丈夫だ」と発した声は意外としっかりしていて、なんだかんだ言ってイヴァンは手加減をしていたのだと知った。ほっと息をつき安心した途端、今度は無謀なことをしたアーサーに対して腹がたってくる。
「なんで、あんなこと言ったんですか」
イヴァンが菊のことを気に入っているのを、アーサーも知っていたはずだった。そして、イヴァンの機嫌を損ねればどうなるかだって。
絶対に勝てるはずのない相手だ。いくらアーサーが兎にしては身体が大きくとも、熊であるイヴァンに敵うはずがない。そんなことは考えなくたって分かるはずなのに、何故。
「あいつが、菊を自分のもののように言ったからだ」
問う菊に、アーサーからの答えは迷いがなかった。まるで当たり前のことのように、アーサーは菊の視線を捕らえる。
「菊は俺のものでもないけど、あいつのものになるのは許せなかった。ただ、それだけだ」
その強さに、菊は思わず息を呑んだ。
菊が自分のものではないといいながらも、その言葉はまさしく独占欲の塊でしかない。そしてそれは、アーサーの中で揺るがない事実なのだろう。
「それよりも、菊」
そしてアーサーは言う。
「俺は、菊のものだな?」
自分の命が危うかったはずの兎は、そんなこと些細なことだとばかりに菊へと向かって喜びに満ちた目を向けた。
「・・・・・」
「そう言ったな?」
それは問いかけではない。自分の中で単なる確認であるかのように。
「俺は、菊のものだっ!」
嬉しそうに言うアーサーに、なんだか否定することも出来ず菊は思わずためいきをついた。アーサーは菊のもの。菊のご飯。それは出会ったときから変っていないのだけれども。
そうなのだけれども・・・
土に汚れた顔をはたき、アーサーのきれいな顔を汚す血を、菊はぺろりと舐めとった。
(あぁ、相変わらずおいしくない血)
全然おいしくないし、舐めたいとなんて思わないけれどもそれでも、菊はアーサーの顔からそれがなくなるまで何度も舌を這わせる。
(しょうがない)と、菊は思った。
(もうしょうがない)
諦めるしかない。認めるしかない。どれだけ本能からかけ離れた行為だとしても、きっとそれこそ私たちにとっては決められた運命なのだろう。
アーサーが今後おいしくなったらどうなるのだろうかとか、決して自分を食べない菊にアーサーがどうするのかとか。きっと、この先簡単にはいかないだろうけれども。
「えぇ」
だから、大人しく舐められていたアーサーから口を離し、菊はアーサーに宣言する。
「あなたは私のものなんですから、勝手に誰かに食べられないでくださいね」
「おうっ!」
嬉々として頷いた自分よりも大きな兎に、菊は大きなため息をついた後・・・こっそりと、本当にこっそりと少しだけ微笑んだのだった。
兎と狐の生活は、まだ続く。