The False Family
「あいつら、もう寝たぞ」
「ん。ありがと」
出入り口からぬっと顔を出して言ったシグに、イズミが、笑ってそう答えた。
一日の営業を終え、掃除も大体終わらせた厨房の真ん中で、彼女はずっと包丁を研いでいた。大きなもの、小さなもの、種類も用途もバラバラな何本もの刃物が、行儀よくずらりと並べられている。砥石の左側においてあるのは、もう手入れの済んだもの。右にあるのは、これから研いで磨くものである。白いエプロンをかけ、慣れた手付きで包丁を研ぐイズミの姿は、完全に肉屋の女房のそれである。錬金術師には全然見えない。
そんな妻の傍らに、シグが無言で歩み寄った。いかんせん大きな体躯の持ち主である故に、のそり、という擬態語がよく似合う。筋骨隆々なその外見に似合わぬ、意外に細やかな気配りをもって――曲がりなりにも一店舗を構える主なのだから、商売道具の扱いに神経を使うのも当然であるが――、妻の手入れした包丁を、一本一本、きちんと片付けてゆく。
店は既に明かりを消した。エドワードとアルフォンス、二人の弟子の眠る部屋も。今、この家で明かりをつけているのは、この厨房だけである。夫婦は暫し無言のまま、己の為すべき仕事に集中していた。
その時である。イズミが、急に激しく咳き込み出した。シグが慌てて傍に寄り添う。前屈みになり、げほげほと苦しそうに咳を続けている妻の背中を、大きな手が何度もさする。
「大丈夫か、イズミ」呼びかける声は、いつもそうであるように、労わりと気遣いに満ちている。大丈夫、と返事しようとして、イズミはまた、大きな咳をした。
その口元からは、大量の血があふれている。店の商品として扱う肉類の赤みとは全く異なる、痛々しいまでに鮮やかな紅。かけているエプロンの所々にも、血飛沫が付いている。
ひとしきり咳き込んでいる妻から、シグが一旦、傍を離れた。戻った時には、その手に薬の小瓶が握られていた。
ぜぇぜぇと息を荒くするイズミの目の前に、蓋の開けられた薬瓶が差し出される。
「無理すんじゃないぞ。ほら、薬」
「……すまないねぇ、あんた」
イズミが無理に笑って答えると、シグは「それは言わない約束だろう」と言い返した。これも毎度お馴染みのやり取りである。彼女は夫の手から薬瓶を受け取ると、中身を一気に飲み干した。口の中いっぱいに、独特の青臭い苦みが拡がる。
この味にも匂いにも、すっかり馴れてしまったな――彼女がそんな事を思いながら、二、三度深呼吸すると、後ろから、ちょんちょん、と肩をつつかれた。振り向くと、夫が椅子を用意している。彼女は、促されるままそこに腰を下ろした。
もう一度大きく息を吸って吐くと、少し、楽になってきた。差し出された布切れで、血に汚れた口元を拭う。その傍らでは終始、シグが心配そうな表情をして妻を見つめていた。
「後のことは、俺がやってもいいんだぞ?」大きな体をくの字にまげて、夫がそう言い出した。が、イズミは、私がやるから、と首を横に振る。彼も重ねては訊かない。小声で、無理するなよ、とだけ言った。
こほこほと軽く咳を続けながら、イズミが、夫の顔を見上げる。シグも、無言で妻を見る。暫くの間、夫婦の間から会話が消えた。
流し台の蛇口から、ぽたり、ぽたりと水滴の落ちる音がする。出入り口の向こうは真っ暗闇。
二人の居るこの場所だけが明るい。
「ねぇ、あんた……」
夫から少しだけ視線を外して、イズミがぽつりと呟いた。
未だ呼吸が整っていないせいで、胸元が大きく上下に揺れている。まだ喋るな、とシグがたしなめるが、彼女は構わずに、
「私なんかが弟子を取って、本当に良かったのかね」
「……後悔してるのか?」
「いや。……そういう訳じゃないんだけど、何か、ね」
抱く感情はたゆたう靄のようで、うまく言葉という形にならない。
だが夫には、多少は伝わっていたようで、
「少なくとも俺は良かったと思ってるぞ。どっちも手がかかるが、元気でいい子だ。
なぁに、男の子ならあんくらいやんちゃでないと、却ってこっちが心配だ」
「……あんたにそう言ってもらえると、ちょっと、安心するねぇ」
イズミが僅かに笑う。シグが、「ちょっとだけか?」と悪戯っぽく訊き返す。
夫婦で共有する笑みが、心地良い。
「……こんな手のかかる女房でごめんね。あんた」
「それも言わない約束だろ」
「ああ。でもね……」
深く吐き出されたため息が、掃き清められた床の上に落ちる。
子供をなくしてしまった親たち。
親をなくしてしまった子供たち。
両者が出会ったのは旅行先。そこであんな災害が起きなければ、イズミも錬金術を使うことは無かっただろうし、あの子たちが、弟子にしてくれ、と言い出すこともなかっただろう。
偶然に偶然が積み重なって生まれた出会いは、多分、そのどれか一つが欠けても成り立たなかったはずだ。なのに、こうしてめぐり逢ってしまった。弟子を取らない主義であるはずの自分が、伸ばされた手を握り返してしまった。
あの兄弟に、生まれないまま死んでいった我が子とを重ねなかったと断言は出来ない。どうしても。
それに。
「ねぇあんた。私に、本当に『師匠』の資格はあるのかな」
「………………」
ただ元気なだけではない、真に聡い子供たち。それまで誰にも教わらず、家にあった資料や文献だけで錬金術を学び、自分が最初に与えた課題『一は全、全は一』の意味するところも、決められた一ヶ月のうちにちゃんと見出した。あの時は、イズミも心底感嘆したものだった。
だからこそ、時々無性に不安になる。これから先、錬金術師として、人間としてどんどん育ってゆくあの子たちが、『イズミ自身』を識ったその時に――それでも今のように、「先生」と呼び慕ってくれるだろうかと。
最初から何も得ていないなら、何が無くとも困らない。何とも思わない。だが、一度手にしてしまった、愛情という名のこのぬくもりは。
無くす前から、無くすのが怖い。たまらなく。
「……それでもお前は、あの子たちを弟子に取ったんだろう?
後は、あの子たち自身の決めることだ」
「それはそうなんだけどね……」
不安はそれだけではない。
あの子たちがこれから身に付けてゆくのは、錬金術の知識だけではない。世界を、ヒトを、様々な事象や事由を知りゆくうちに、傷付き、くじける事も多々あるだろう。もしかしたら、物事を覚えていくのと同時進行で、大切なことを、一つずつ無くしていくかも知れない。
「等価交換」が世の理とするならば――自らの希望や可能性を引き換えにして、数多の知識や経験を得るのだとも言える。人が子供から大人になっていくうちに、なくしてしまうものの何と多いことか。
後ろを振り返ることは出来ても、引き返すことは叶わない。それが、「大人」であるが故の悲しさ。
「それでもあの子たちには、ずっとあのままでいてもらいたいねぇ……」
早く大きくなって欲しい。
いつまでも子供のままでいて欲しい。
相反する願いを抱くのは、恐らく世の親たちの大半が感じる自己矛盾。
「ん。ありがと」
出入り口からぬっと顔を出して言ったシグに、イズミが、笑ってそう答えた。
一日の営業を終え、掃除も大体終わらせた厨房の真ん中で、彼女はずっと包丁を研いでいた。大きなもの、小さなもの、種類も用途もバラバラな何本もの刃物が、行儀よくずらりと並べられている。砥石の左側においてあるのは、もう手入れの済んだもの。右にあるのは、これから研いで磨くものである。白いエプロンをかけ、慣れた手付きで包丁を研ぐイズミの姿は、完全に肉屋の女房のそれである。錬金術師には全然見えない。
そんな妻の傍らに、シグが無言で歩み寄った。いかんせん大きな体躯の持ち主である故に、のそり、という擬態語がよく似合う。筋骨隆々なその外見に似合わぬ、意外に細やかな気配りをもって――曲がりなりにも一店舗を構える主なのだから、商売道具の扱いに神経を使うのも当然であるが――、妻の手入れした包丁を、一本一本、きちんと片付けてゆく。
店は既に明かりを消した。エドワードとアルフォンス、二人の弟子の眠る部屋も。今、この家で明かりをつけているのは、この厨房だけである。夫婦は暫し無言のまま、己の為すべき仕事に集中していた。
その時である。イズミが、急に激しく咳き込み出した。シグが慌てて傍に寄り添う。前屈みになり、げほげほと苦しそうに咳を続けている妻の背中を、大きな手が何度もさする。
「大丈夫か、イズミ」呼びかける声は、いつもそうであるように、労わりと気遣いに満ちている。大丈夫、と返事しようとして、イズミはまた、大きな咳をした。
その口元からは、大量の血があふれている。店の商品として扱う肉類の赤みとは全く異なる、痛々しいまでに鮮やかな紅。かけているエプロンの所々にも、血飛沫が付いている。
ひとしきり咳き込んでいる妻から、シグが一旦、傍を離れた。戻った時には、その手に薬の小瓶が握られていた。
ぜぇぜぇと息を荒くするイズミの目の前に、蓋の開けられた薬瓶が差し出される。
「無理すんじゃないぞ。ほら、薬」
「……すまないねぇ、あんた」
イズミが無理に笑って答えると、シグは「それは言わない約束だろう」と言い返した。これも毎度お馴染みのやり取りである。彼女は夫の手から薬瓶を受け取ると、中身を一気に飲み干した。口の中いっぱいに、独特の青臭い苦みが拡がる。
この味にも匂いにも、すっかり馴れてしまったな――彼女がそんな事を思いながら、二、三度深呼吸すると、後ろから、ちょんちょん、と肩をつつかれた。振り向くと、夫が椅子を用意している。彼女は、促されるままそこに腰を下ろした。
もう一度大きく息を吸って吐くと、少し、楽になってきた。差し出された布切れで、血に汚れた口元を拭う。その傍らでは終始、シグが心配そうな表情をして妻を見つめていた。
「後のことは、俺がやってもいいんだぞ?」大きな体をくの字にまげて、夫がそう言い出した。が、イズミは、私がやるから、と首を横に振る。彼も重ねては訊かない。小声で、無理するなよ、とだけ言った。
こほこほと軽く咳を続けながら、イズミが、夫の顔を見上げる。シグも、無言で妻を見る。暫くの間、夫婦の間から会話が消えた。
流し台の蛇口から、ぽたり、ぽたりと水滴の落ちる音がする。出入り口の向こうは真っ暗闇。
二人の居るこの場所だけが明るい。
「ねぇ、あんた……」
夫から少しだけ視線を外して、イズミがぽつりと呟いた。
未だ呼吸が整っていないせいで、胸元が大きく上下に揺れている。まだ喋るな、とシグがたしなめるが、彼女は構わずに、
「私なんかが弟子を取って、本当に良かったのかね」
「……後悔してるのか?」
「いや。……そういう訳じゃないんだけど、何か、ね」
抱く感情はたゆたう靄のようで、うまく言葉という形にならない。
だが夫には、多少は伝わっていたようで、
「少なくとも俺は良かったと思ってるぞ。どっちも手がかかるが、元気でいい子だ。
なぁに、男の子ならあんくらいやんちゃでないと、却ってこっちが心配だ」
「……あんたにそう言ってもらえると、ちょっと、安心するねぇ」
イズミが僅かに笑う。シグが、「ちょっとだけか?」と悪戯っぽく訊き返す。
夫婦で共有する笑みが、心地良い。
「……こんな手のかかる女房でごめんね。あんた」
「それも言わない約束だろ」
「ああ。でもね……」
深く吐き出されたため息が、掃き清められた床の上に落ちる。
子供をなくしてしまった親たち。
親をなくしてしまった子供たち。
両者が出会ったのは旅行先。そこであんな災害が起きなければ、イズミも錬金術を使うことは無かっただろうし、あの子たちが、弟子にしてくれ、と言い出すこともなかっただろう。
偶然に偶然が積み重なって生まれた出会いは、多分、そのどれか一つが欠けても成り立たなかったはずだ。なのに、こうしてめぐり逢ってしまった。弟子を取らない主義であるはずの自分が、伸ばされた手を握り返してしまった。
あの兄弟に、生まれないまま死んでいった我が子とを重ねなかったと断言は出来ない。どうしても。
それに。
「ねぇあんた。私に、本当に『師匠』の資格はあるのかな」
「………………」
ただ元気なだけではない、真に聡い子供たち。それまで誰にも教わらず、家にあった資料や文献だけで錬金術を学び、自分が最初に与えた課題『一は全、全は一』の意味するところも、決められた一ヶ月のうちにちゃんと見出した。あの時は、イズミも心底感嘆したものだった。
だからこそ、時々無性に不安になる。これから先、錬金術師として、人間としてどんどん育ってゆくあの子たちが、『イズミ自身』を識ったその時に――それでも今のように、「先生」と呼び慕ってくれるだろうかと。
最初から何も得ていないなら、何が無くとも困らない。何とも思わない。だが、一度手にしてしまった、愛情という名のこのぬくもりは。
無くす前から、無くすのが怖い。たまらなく。
「……それでもお前は、あの子たちを弟子に取ったんだろう?
後は、あの子たち自身の決めることだ」
「それはそうなんだけどね……」
不安はそれだけではない。
あの子たちがこれから身に付けてゆくのは、錬金術の知識だけではない。世界を、ヒトを、様々な事象や事由を知りゆくうちに、傷付き、くじける事も多々あるだろう。もしかしたら、物事を覚えていくのと同時進行で、大切なことを、一つずつ無くしていくかも知れない。
「等価交換」が世の理とするならば――自らの希望や可能性を引き換えにして、数多の知識や経験を得るのだとも言える。人が子供から大人になっていくうちに、なくしてしまうものの何と多いことか。
後ろを振り返ることは出来ても、引き返すことは叶わない。それが、「大人」であるが故の悲しさ。
「それでもあの子たちには、ずっとあのままでいてもらいたいねぇ……」
早く大きくなって欲しい。
いつまでも子供のままでいて欲しい。
相反する願いを抱くのは、恐らく世の親たちの大半が感じる自己矛盾。
作品名:The False Family 作家名:藤村珂南