エデンの壁
* * *
この寒い国に連れて来られた当初。
瀕死の重傷のまま、手当てを受けず食事も拒否する俺に、役人どもは戸惑った。
俺を『東ドイツ』という名で呼ぶ人間たち。その目が呆れと共に気味悪そうに、横たわるこの身体に注がれる。
国の象徴という、ある意味不死に近い身でありながら、傷口を腐らせ弱りゆく俺の姿に、なにか不吉なものを感じているようだった。
俺は、かろうじて目だけ動かすと、壊死しかけたまま一向に治癒しない自分の片腕を眺めた。
こんなことは数百年生きてきて初めてで、俺は自分のたてた仮説の正しさを知る。
先の大戦の終盤から徐々に変化していく俺の身体。
傷の治りは遅く、こうして食事と水をとらないでいると、以前とは比べ物にならないほどの酷い苦痛に襲われる。
まるで、ただの人間のように。
* * *
「死にはしないよ。たとえ首を落としたって『僕たち』は死なない」
下士官に報告を受けてやってきたその男は、床に転がる俺を無感動に見下ろして、つまらなそうにつぶやいた。
俺は目を閉じたまま、男――この北の国の支配者の言葉を、せせら笑う。
「試してみたらどうだ?」
あははと笑う声がして、直後、重い鉄の棒が思いきり腹の上に降ってきた。
水道管。ブラックジョークそのままの、ふざけた凶器が繰り返し降りおろされる。
胃液を吐いて咳き込み転がる俺の頭を、重いブーツの底が踏みにじる。
絶対に壊れない玩具だと思って、なんともめちゃくちゃしてくれるものだ。
ちょうどいい。血と反吐に頭をつっこんだまま、内心で笑った。
この調子でこいつの箍の外れた暴行を受けていれば、飢え死になど待つ手間がはぶけそうだ。
『国』は死なない。
現に俺は今まで散々名を変えながらしぶとく生き抜いてきた。
それは俺が在り続けようとした意思の力に他ならない。
俺の国『プロイセン』はすでに無く、全てを譲り育てたドイツは遠い西に在る。俺がいなくても、この先どうにか復興し、栄えていくだろう。
ありていに言えばもう俺は飽き飽きしていたのだ。
愛したものにすら、平気で牙を剥かねばならない『国』というこの不自由な生き方に。
何度目とも知れぬ殴打。
骨が砕ける音がする。
明日の朝あたりには『俺』は消え、脱け殻のように残された軍服の傍らには、おそらく『東ドイツ』という名の全く新しい幼子が誕生している。
それを目にした時、この大きな子供のような男はどれだけ慌てふためくだろうか。
そう思うと少しだけ愉快だった。
せいぜい子育てに苦労するがいいのだ。
痛みはもう感じなかった。歌がきこえる。『ポーリュシカ・ポーレ』。どうやら殴るリズムにあわせてイヴァンが歌っている。いい趣味だ。イカれたサディストめ。
俺は、この長きに渡る生からようやく解放される。思えばろくでもないことばかりしてきた。心がけ次第ではもうちょっとマシに生きられたかもしれないが、後悔はしていない。
ああけれど、
薄れゆく意識の中で思う。
どうせ最後なんだったら、あの女の歌が聴きたい。
戦場の空の下、味方の兵士たちのために、よく彼女は歌った。
陽に透ける金の髪。
遠巻きに眺めながら、天使がこんなのだったらいい、とくだらないことをいつも考えた。
未練などはない。
ただあの光景が見れなくなるのが少しだけ寂しい。それだけだ。