エデンの壁
* * *
ギルベルト、と耳に心地よく染みる声で名を呼ばれ、柔らかい腕に抱き起こされる。
天使が来た。
そう思った。
ぽたぽたと熱い雨が降ってきて、乾いた肌を潤してくれる。
どうやら神はずいぶんと慈悲深い。告死天使の呼び声は、遠い昔俺が最も愛し焦がれた音に、よく似ていた。
目を開けなさいギルベルト、
否応なく心の柔らかい部分に進入してくる声に命ぜられ、俺は苦労しながら重い瞼をひらく。
灰色の煤けた壁に、うら寒い裸電球の明かり。
天使どころか。満身創痍の女がそこにいた。ところどころ焦げて短くなった金の髪。顔にはいくつもの青黒い痣が残っている。
天国に行けるだなんて期待してはいなかった。
けれど、俺は地獄にも行きそびれたようだった。
女の碧の目から涙が落ちてくる。あの温かい雨はこれか。
ギルベルト、女が囁く。
えりざ、と、かろうじてひび割れた唇を動かす。
――かえれ、放っておいてくれ、とつぶやいた瞬間、
俺は骨が振動するほどの凄い力でぶん殴られた。
なんという女だと、本気で思った。正直イヴァンにやられた一発より効いた。
ぐらぐら揺れる視界でてめえ、と睨み上げるとエリザベータは顔を歪ませ、ぼたぼたと涙を流していた。
勝手にくたばってんじゃないわ、ぶっ殺すわよと、わけのわからない矛盾した罵声を吐き散らしながら、エリザベータは再び俺を殴った。
ぶん殴りはっ倒して蹴りをいれ、それから胸ぐらを掴んで口づけをくれた。
俺は呆然として、あまりに呆然とし過ぎて、自分の喉を通る水を――今まで頑なに拒否していたはずのそれを、吐き出しもせずぼんやりと飲みこんだ。
エリザベータは手にした水筒を幾度もあおり、くり返し、口移しで水を流しこむ。
ぼたぼたと涙をながす女の腕の中、気づけば俺は、その涙の混じった水を貪るように飲み干し続けていた。
エリザが泣いている。
子供の頃のような、ぐしゃぐしゃの顔。
何度も押し付けられる唇は、しょっぱい涙と血交じりの鉄の味がする。だが甘かった。たとえようもなく甘かった。
無意識に伸ばした両手がエリザの身体にすがりつく。
壊死して動かなかったはずの腕が、たった数分の間で現金にも治癒をはじめている。
貪欲に生気を取り戻し始める自分の体に愕然としながら、俺は、自分の計画が、たったひとりの女によって、あっさりと覆されたことを知った。
そして苦労してようやく凍らせ殺したはずの、あの報われぬ地獄のような恋情――けして満たされない呪いの様な渇望が、頭をもたげ蘇り、再び俺の四肢を支配しはじめるのを、ただ呆然と感じていた。