2×2
窓を開け放った。
真冬の夜の冷えた空気が容赦なく部屋に入り込めば、入れ替わりに篭っていた酒臭さが抜けていく。
煙草に火を点すと、一気に吸い込んだ。
オレンジに燃える先端とは真逆に、体内を巡った煙は全身の熱を奪い、指先は冷えていく。
室内に視線を戻すと、世辞にも奇麗とは言えない見慣れた自室に違和感。
テーブルには先刻空にしてしまったスピリッツの瓶とグラスが二つ。
脇に転がるラベルのないペットボトル。
無造作に脱ぎ捨てられた俺には小さいロングコート。問題はそいつらじゃない。
目を横に移動させると安さだけで決めたシングルベッド。その上が占領されているのが悩みの種。
独り占めする張本人は蛍光灯の明かりが眩しいのか頭まで毛布を被り、乱れた黒髪だけを隙間から覗かせている。寝苦しくないのかと思うが、人の形をした塊はその呼吸に合わせて緩やかに上下する。
───折原臨也。
それが闖入者の名だ。
夜も更けた頃に奴は俺のアパートにやって来て、ちょっとまずいことになってね、家に帰れないんだ。此処が一番安全だと思ってさあ。ちょっと匿ってよ。
おいおい、俺に殺される未来は想定しないのか、と言い返す前に部屋への侵入を許してしまった。
平生そこら辺の物を手当たり次第壊すだけ壊しては、またやっちまった、と反省する俺だが、こんな夜中に自分の居住空間で喧嘩をおっぱじめるほど馬鹿じゃない。この真冬にとばっちりを喰らって万が一窓ガラスが割れた日には目も当てられない。
何とか力が暴れ出すのを押さえ付けた俺を余所に奴はキョロキョロと落ち着きなく部屋の中を見回していたかと思うと、エロ本は何処かなー? と物色し始める。半ば不法侵入に加えて不愉快極まりない奴の行動にまた沸々と怒りが込み上げ、拳を握る俺の耳に呑気な声が届く。
あ、お酒発見ー! …ってこんなアルコールみたいなの飲んでるの? 煙草も吸い過ぎだし、偏食だし、早死にしたいの? あ、わざわざ自分で寿命縮めてくれてるのか! 嬉しいなあ、シズちゃんが早く死ぬ努力をしてくれてたなんて!
女子高生並の喧しさに俺は殴る気も失せ、煙草をすぱすぱしながら、それは貰いもんだ、とだけ返した。
そうすると、折角だしこれをお茶がわりに頂くよ、と勝手にキャップを回し始める。本気かよ、と疑う俺の目の前で開けた途端にドぎつい臭いで鼻をやられたのか、うえー、と眉を顰めるのに、シズちゃんグラスー、と要求してくる。俺もだんだんと自棄になり、飲んで誤魔化すことに決めた。
気付いたらべろんべろんに酔いの回った奴はベッドに倒れ込んでいた。
思考や行動は蟲並に厭な奴だが、身体は普通の日本人と大差ない人間がストレートで呑めるワケもなく、これで割れ、と清涼飲料水のペットボトルを出してやったのがマズかった。これならいけるかもー、と奴が何杯か呷った後で中身がスポーツ飲料だったことを思い出した。
おい、手前は床で寝ろ、と引きずり落とすが、のそのそとまたベッドに攀じ登る。
首根っこを掴んで摘み出してやろうとすると、ベッドの足にしがみつく。
了いには毛布とシーツで身を包んでしまった。
無理矢理引き剥がそうかと思ったが、下手をすると自分の寝具がお釈迦になってしまう。
到頭俺はひとつしかない寝床を奪われてしまった。
夜は更けに更け。
こんな時間に自宅から誰かに泊めてくれなどと電話も出来やしない。
そんなワケで俺は酔い覚ましも兼ねて換気をしつつ、何本目かわからない煙草を吹かすことになった。
臨也が起きる様子はこれっぽっちもない。
「仕方ねぇなぁ」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、テーブルや床に散らばっていた雑誌や衣類を隅に寄せる。クローゼットの奥にしまい込んでいた夏用の薄い掛け布団を引っ張り出すと身体に巻き付けた。
風邪引いたら取り立てに行ってやるから覚えてろよ、と愚痴りながら明かりを落として硬い床に渋々転がると、背後でもぞりと動く気配がした。どうやら寝返りを打ったらしい。俺の気も知らないで、シズちゃんラブー、と気味の悪い寝言まで吐きやがる。
憎らしいことこの上ないのに、その中が暖かそうだな、と思ってしまったのは恐らく一生の不覚だ。
→
狭い。
寝苦しい。
熱い。
何か…嗅ぎ慣れない匂いがする。
「シズちゃん?」
俺は目を開いて最初に目についたものの名前を口にした。
そう一番に。目の前にあったものの。
これは夢かなあ…、
これは夢だなあ、
これは夢だろ、
これは夢に違いない!
と全力で頭の中で結論を出して俺は目を閉じて、数秒後祈るように再び開けた瞳はどうしようもない事実を目の当たりにした。
「うわー…シズちゃんだよ…」
狭いのはシズちゃんと俺の二人で安い作りのシングルベッドに寝ている所為で、寝苦しいのはシズちゃんが俺を抱き寄せている所為で、熱いのはシズちゃんの体温が俺より高い所為で、匂いは。
「酒臭ッ!」
俺の声でシズちゃんが身動ぎした。
ゆっくり開かれていく鳶色の瞳。
俺と見詰め合うその距離わずかに10cm。
「うぁあおぉおおおッ!?」
「ぎゃああぁああーッ!!」
俺達は絶叫した。
「何で? どうして? どういうこと? え、何? 俺死んじゃったの? ここ地獄?」
「うるせぇ! 俺の方が聞きてぇよ! それとここは俺の部屋だ。地獄じゃねえ!」
改めて確認するのも恐ろしい現実を拒絶するように、俺達はベッドから飛び降りた。とりあえず二人とも服は着たままでベルトが外された様子もないし、身体に…あそこに痛みがないのが何もなかった証拠だと自分を落ち着かせる。
「と…とにかく帰るよ」
「ああ、とっとと消えろ。目障りだ」
頭が酷く痛むのは浮かんでくる嫌な想像を否定したいからで、覚束ない足元は寝起きだからと思い込ませ、ついシズちゃんの首筋を一瞥してしまった俺は何の跡もなかったことにまた一安心。
「おい、忘れモンだ」
一刻も早く立ち去ろうと玄関のノブに手をかけた俺に差し出されたのはコートだった。動揺して気が付かなかったが、今上に着ているのは薄手のロングTシャツ一枚。確かに日は昇っているとはいえ冬空の下、このまま外に出るのは無謀と言える。
が。
「何? その優しさ。俺を精神的に虐め殺そうとでも思ってる?」
「誰が手前みたいなネチネチとしたことするかよ。殺すなら俺の手で殴り殺す」
がしがしと髪を掻きながら嫌悪感丸出しのシズちゃんは、本当に覚えてないのかよ、と深い溜め息を吐いて続けた。
「お前が着てきたんだろうが」
「俺が?」
やはり心当たりがなかった。訝りながら受け取って見れば、確かに形といい、サイズといい、ぴったりなのだけれど明らかに俺が着るには特異な点がある。
「真っ白だよ」