2×2
それから仕事中も食事中も考えても考えても全く昨日の晩の記憶は蘇らなかった。というか敢えて思い出す必要もないんじゃないかと疑問になりだした。シズちゃんの様子を思い返しても、信じられないと塩っぱい顔をしていたし、俺だってあの『平和島静雄』と何かあろうものなら沽券に関わる。最終的にもう一連のことは史上最悪の不幸な事故だということで頭の隅に片付けることにし、まだ痛みの残る頭を抱えて早めに自宅に戻ることにした。
その夜。
「えーと、何で俺ここにいんの?」
俺はシズちゃんのアパートのインターフォンを押していた。
「知るかよ。死ね」
扉を開けたシズちゃんはそう言いながらも俺を部屋に入れた。
「昨日みたいなのは勘弁してくれよ」
「え、ああ、はいはい」
記憶のない俺は曖昧に頷きながら、何か今日のシズちゃん優しいなあ、と不審を抱きつつ出されたお茶を啜る。シズちゃんも同じように湯呑みに口をつけた。全く不本意に二日連続でお邪魔することになった部屋を見渡し、さて、これからどうしよう、と視線を減った粗茶に戻したところで、先にシズちゃんが口を開いた。
「なあ、折原」
俺のことはいつも名前を呼び捨ててるはずなのになあ、と首を捻りながら湯呑みを置く。
「えーと、何?」
構わずシズちゃんは続ける。
「返事、ちゃんと聞いてもいいか?」
「は?」
サングラス越しじゃない眼差しが俺をじっと見ている。
真剣な顔したシズちゃんには悪いが思い当たる節がない。いや、死ねとか消えろとか池袋に来るなとかは散々言われてるけど、それは全部NOと返している。だったら何だろうと頭を絞っても出てくるのは聞き慣れた罵詈ばかりで、しかしシズちゃんの剣幕を前に知らないと言ったらどうなるかわからない。
「ああ、あれね!」
とりあえず忘れていたフリで時間稼ぎをしてみるが、姑息な手段は通用しなかった。シズちゃんは俺に躙り寄ってくる。
「どうなんだ」
「いや、あの」
「はっきりしろよ」
迫ってきたシズちゃんの手が肩を掴む。もう白は切れないと思い、両手を顔の前で合わせた。
「ごめーん☆ …何だっけ?」
折原臨也全身全霊の笑って許してスマイル小首傾げ風味。
「手前…」
さあ、このまま肩を握り潰されるか、それとも顔面整形されるか、景気よく窓から放り投げられるか。
覚悟はした。でも、出来れば生きたい。
予想は良い意味で裏切られた。
俺は変型することなくそのままの体勢で、シズちゃんはただ舌打ちをした。
「手前、臨也か」
「はい?」
「クソッ、紛らわしい恰好しやがって」
紛らわしいも何もいつもと変わりない服装だろ、と改めて全身を見渡して………白? 俺は上から下まで白い服で包まれていた。今朝シズちゃんの家から一度自宅に戻り今日も黒一色になったはずで、それから着替えた覚えもない。白いコートを渡された時の既視感と重なって俺が首を捻っていると、いきなり胸倉を掴み上げられた。
「臨也ぁッ! 手前、また人ン家に上がり込みやがって何様のつもりだ? あ?」
それは自分から部屋の中に招いたシズちゃんの手だった。
「待った! 待った、シズちゃん!」
怒りでこのまま締め上げられるんじゃないかと冷汗をかきながら俺はその手元を指差す。
「あ? …何だこりゃ」
流石のシズちゃんも気が逸れたようだ。その視線は袖口から胸元へ、シズちゃんも認めたのは鮮やかなショッキングピンクに黒のストライプ。バーテン服がトレードマークのシズちゃんが着そうもないシャツ。
「どうやらお互い困った状態みたい」
→
「サイケデリック」
新羅が天井を眺めてぽそりと呟いた。
「サイケデリック?」
『サイケデリック?』
「サイケデリック?」
臨也、セルティ、静雄の三人が同時に聞き返す。
事態を重く見た臨也と静雄は旧友であり闇医者でもある新羅の元を訪れていた。人外的な力に因るかもしれないとセルティも同席している。
「幻覚剤によってもたらされる心理的な幻覚…ってところかな」
『麻薬ってことか?』
二人掛けのソファで隣に座るセルティがPDAで尋ねる。テーブルを挟んで斜向かいに座る臨也がそれを見て声を出した。
「いやいや、俺は麻薬に手は出さないよ。取引の仲介はしたけど」
「おい」
『おい』
「おい」
静雄、セルティ、新羅の三人が揃って突っ込みを入れる。隣に座る静雄はついでに横から頭にデコピンを喰らわせ、油断した臨也は直撃を喰らって悶絶した。そんな臨也を誰もフォローはせず、新羅は話を繋げる。
「麻薬は何も外的なものに限らないさ」
『脳内麻薬か…エンケファリンやβ-エンドルフィンみたいなものか?』
「よくわかんねぇな。つまり何なんだ」
「簡単な話、脳内麻薬の突然変異みたいな? 話を聞くと二人とも幻覚中のことは覚えてないみたいだから解離性同一性障害…二重人格って言う方が近いかも」
「医者が憶測で適当なこと言うなよ」
「だって本当によくわからないんだ」
「何が原因だ?」
静雄の質問に、新羅はしばらく考える素振りをして、お手上げだと首を振った。
「仲が悪すぎることに身体が反発でもしたんじゃない? 少なくとも臨也の方は自分で静雄に会いに行くくらいだし、静雄のことが好きなのかもよ」
「何だよ、それ」
「闇医者じゃなくてヤブ医者に肩書き変えれば」
臨也の罵りは軽く流して新羅はコーヒーを啜る。
『もし新羅の仮説が正しいとしたら、二人の仲が悪ければ悪いほど、幻覚中…サイケデリック状態の時は仲が良くなるのか?』
「結婚しようとでも言い出したりしてねえ」
カラカラと他人事をいいことに、朗らかに笑う新羅に二人の鋭い視線が突き刺さる。
「ま、まあ、死ぬわけじゃないだろうし、仲良くやっていきなよ」
取り繕った新羅の真面目な表情はぎこちない。仲睦まじく会話する二人を想像しているのか、また顔が緩み始めている。
「仲良く…?」
「コイツとか?」
臨也と静雄が互いに眉根を寄せて、相手を睨みつける。火花を散らし、今にも喧嘩を始めそうな二人をセルティが何とか影で押し止める。セルティという心強い味方がいる新羅は、悠長に構えて告げた。
「それでもいいし、もう一人の自分…サイケデリック君とでもしておこうか。そっちでもいいし」
結局、闇医者の処方は『自分達でどうにかしろ』。
「どーすんだ」
「どうもこうもないよ。シズちゃんと仲良しこよし何て御免だ」
「珍しく意見が合ったな。俺もだ」
家具を壊わされる前にマンションからお引き取り願われた二人はそれだけの会話を交わすとお互いに踵を返し、逆方向に歩き出した。
「臨也とは絶対ぇ無理だ。なら自分とってことになるが、自分と仲良くってどうすりゃいいんだ。手紙でも書きゃいいのか? 拝啓俺?」
苛立ちを少しでも抑えようと煙草を銜えぶつぶつと、しかし建設的な考えを口にしながら歩く静雄の背後に近付く影があった。
「シズちゃん」
先ほど別れたばかりの臨也だった。
「あぁ? まだ何か用…か?」
顔を見ただけで殺気立つ静雄をものともせず接近した臨也は、上目遣いでそっとバーテン服の袖を引く。
「シズちゃんラブって本当だからね」