思考の錯誤
人生に意味を附加したがるのは、我らが人間であるが故。故に我らは己について悩む。007は密かに、そのような信条を胸に抱いていたりするのだが、それも時と場合による。特に、疲れている時は思考も無駄にネガティブになりがちだし、悪くすれば袋小路に行き当たる。どうやら今は、何も考えさせない方が良いようだ。
できれば、もっと本音を吐かせて楽にさせてやりたかったのだが。
『彼は私たちの中でも最強の力を与えられているけど、本当は人一倍優しくて繊細な人なの。
何より彼は、まだ十八よ。私たちと違って、正真正銘の十八歳。なのに、愚痴の一つも言わないで……』
出掛けに目にした003の美しい曇り顔が、007の脳裏に鮮やかに蘇る。
敢えて彼に009の回収を頼んだ彼女が、本当は何を思っていたのか、無論ちゃんと確かめてはいない。が、これでも英国紳士の端くれ、その表情や口にした言葉の端々から、ある程度推し量ることはできる。
そう、迎えに来たのが彼女だったら、彼もあんなことは言わなかったはず。本音を心の奥底に閉じ込めて、身体の不調さえ気力でねじ伏せて、「大丈夫」と笑っていたに違いない。
歳も国籍も生まれた時代すらも違うけど、同じ『男』である故に、彼がそうしたがる理由も判る。
そして、彼女もそれを見越していたから、自分を迎えにやったのだろう。
気丈さが目立つ彼女だが、本当は心優しくて聡い女性だから。ほのかに、それ以上のものも見え隠れしていたのだが、それを指摘するのは無粋の極み。自分としては、黙ってその依頼を引き受けつつ、同時に真の望みも叶えてやりたかった。
けれど、実際にはこのとおり。現実はかくも無情で厳しい。
――しかし、今回はゆっくり休ませるのが先だな。マドモアゼルのご期待に応えられないのは無念だが。
こっそりとそんな結論を出しながら、007は、全く別の言葉を口にする。
「着いたぞ、009。あともう少しの辛抱だ」
「うん」
ようやくたどり着いた合流予定ポイントは、廃工場群から少し離れた更地だった。
元は公園だったのだろうか、視線を彼方へとやれば、ペンキが色褪せてところどころ剥げたジャングルジムやシーソーが、好き勝手に茂った雑草の向こうに見える。その手前、だだっ広いグラウンドの片隅には、風雨にさらされて錆びたサッカーゴールが、ぽつんと取り残されていた。当たり前だが、かつてここにあふれていたはずの子供らの声は、どんなに耳を澄ませても聞こえない。
こんな場所は、空虚さばかりが目についてしまう。ある意味、戦場跡よりも物悲しい。
「………………」
沈黙が息苦しくなったので、007はもう一度ドルフィン号に連絡を取ってみた。
すると、島を脱出した人質たちが海上で右往左往しているので、目を覚ました001が、匿名で連絡した海上保安船が来るまで、彼らの操船のサポートをするという答えが返ってきた。そのせいで、予定より到着が少し遅れてしまう、とも。通信の応答をした003が、会話終了まで何度も何度も「ごめんなさい」を繰り返していた。
その旨を傍らの仲間に知らせるべく、007は背後を振り返る。009は、地面にべったりと座り込んで、ぼんやりと遠くを見つめていた。
「予定より少し遅れるが、もうすぐ来るそうだ」
「分かった」
話しかけても、009は顔も上げない。こりゃよっぽど参ってるな、と007はわずかに顔をしかめた。
彼の発する雰囲気のせいか、何となく空気が硬くて沈黙も重い。この日本人はもともと物静かな方ではあるが、ここまでだんまりが続くとさすがに心配になる。
が、しかし。こういう時に限って、場を和ませる上手いジョークが思いつかない。
得意のシェイクスピアを朗読することも考えたが――以前に語って聞かせた際、「あまりよく分からない」と些か恥ずかしそうにしながらやんわり止められたのを思い出したので、この案も没にした。
かつてはアカデミーの舞台にも立ったくせに、肝心な時に何もできぬとは情けない。役者でもある英国人は、心の中で自らの不甲斐なさを嘆きつつ、暇を持て余している手で頭をしきりに撫で上げた。
「………………」
一方、ずっと黙り込んでいる009も、未だ思考の渦の中を漂っていた。
脳に流れ込むシステムのエラー情報は、既に強制終了させてある。取り敢えず命にかかわる程のものはないのだから、もう止めてしまっても構わない、そう判断してのことだった。
「009」の稼動状況は随時補助脳から読み取ることが可能だが、そのシステムの中には、都合よくエラー情報だけを飛ばせる補助プログラムも組み込まれている。それの存在理由は当然、サイボーグが戦意喪失したり、戦闘行為を中断したりしないようにするため。兵器としての効率を最優先するBGらしい、とんでもない代物だ。
そんな非人道的な機能が人間らしい物思いを手助けするなんて、皮肉以外の何物でもないけれど。
――僕が彼女を、いや誰かを守りたいと願うのは、間違っているだろうか。
敵が総力を挙げて反撃に出ると判った時点で、彼女に安全圏まで退くよう指示したのは自分だが――彼女には、施設の奥深くに潜入して破壊活動を行う007のナビゲーションという大任があった――、離れてから敵と遭遇するまでの数分の間に、何度引き返したいと考えたことか。勿論、後の守りを託した006を信じてなかった訳ではないし、敵の陽動を担った自分の責任も承知していたけれど、まさに後ろ髪を引かれる思いだった。
戦場に私情は持ち込み厳禁。そのくらい、平和慣れした日本で生まれ育った自分にも、ちゃんと判っているのだが。
かけがえのない仲間たち。
平穏な日常と、笑い合いながら囲む暖かな食卓。
ふとした時に味わえる小さな幸せの中心には、いつでも彼女の存在があって。
図らずも手に入れたそれらは、かつて憧れたものばかり。自分には縁のないものとうそぶきながら、それでも心の奥底で焦がれ続けていた。
改造されてより幸せになれただなんて、少なくとも仲間の前では、声に出して言えないけれど。
でも。
戦いと戦いの間には少し立ち止まって、そのぬくもりをかみ締めてもいいだろうか……?
「お待ちかねのドルフィン号が、ようやくご到着のようだぞ、009」
目の前に光が見えた気がした、まさにその時。007の喜色にあふれた声が、009の意識を現実に引き戻した。
赤いボディと白い尾翼が、太陽の光を反射してきらりと煌く。そのまぶしさに一瞬目がくらんだ。
007が、横で心底嬉しげな笑みを浮かべる。
「さ、帰ろうぜ、ジョー」
「うん。フランソワーズも張大人も、きっと待ってる」
徐々に高度を下げるドルフィン号を見つめながら、彼はゆっくりと立ち上がる。
無意識に緩んだ表情に、自分でもちょっぴり照れながら。
機体が着地してハッチが開いた、まさにその時。背後で、壊れたロボット兵の銃口がこちらを狙ったのが判った。
が、彼は振り向きもせずに、スーパーガンの一撃でそれを破壊した。