夢を見た
初めて会った時から、よく笑う女だと思っていた。
ヘイゼルの瞳に明るい光をたたえ、ころころと笑う彼女の様は、まるで乾いた土に水が染み入るように、心を潤してくれる。無愛想な自分とは対極的な、その表情の豊かさは、いつまで見ていても飽きない。
こうして晩秋の冷たい風の中、あまり中身のない買い物袋を二人それぞれに抱え、粗末なコート一枚羽織っただけで歩いていても、寒さなど全く気にならなかった。
昔の自分が今のこの様を目にしたら、一体どう思ったやら。
「でね、ユーリエったら、また猫の方ばかり構うようになっちゃったんですって。
それでフリッツもすっかり拗ねちゃって。あの二人、見ててじれったいわ。もっとお尻叩いちゃおうかしら」
「………………」
「あ、そうそう。貴方の家の近くに、新しいパン屋さんが出来たのよ。もう行った?
カンパーニュとブレッツェルが、とてもおいしかったわ。ブリーゲルも、そのままでもおいしそうだったけど、きっとソーセージと酢漬けのキャベツを挟んでも合うと思うの。今度、作ってあげる」
「………………」
「今度の土曜日、だったわね。どう? お休み取れそう?」
「ああ、予定どおり休みを取った。心配は要らん」
「よかった。
実はね、ずっと楽しみにしてたのよ。コンツェルトなんて久し振りだもの」
葉を落として枝だけになった街路樹の並ぶ夕暮れの街に、ぽつぽつと明かりが灯ってゆく。
ぴゅうっと吹いた北風に、彼女が小さく身震いした。
そっと細い肩を抱き寄せると、嬉しげな微笑がこちらに向けられる。こんな時だけ、笑い慣れていない己の仏頂面が、ほんの少し恨めしくなる。だからといって、そう簡単に治せそうにもないのだが。
どこからか、仄かにシチューを作る匂いが流れてきた。彼女もそれに気付いたようで、「家庭の匂いね」と目を細めている。
それに答える代わりに、肩にかけた手に少しだけ力を込め、さりげなく、速く歩こうと促した。
早く帰って暖かいコーヒーを飲もう。そう口にするのが照れくさくて、台詞が、喉に引っかかったまま出てこない。「帰ろう」の一言が精一杯だった。
そうして家路を急ぐ間中、買い物袋が、かさかさと軽くて乾いた音を立てていた。
西へ渡ればきっと、彼女にももっとあれこれ買わせてやれる。服もこんな薄着ばかりではなく、もっと暖かい格好をさせてやれる――常に頭の片隅を占める考えが、自分の中で、密かにその存在感を増す。
そう、今のままでは、どれだけ働いても彼女を楽にしてやれない。
「貴方の淹れてくれるコーヒー、どうして私のより美味しいのかしら。
同じ豆を使っているはずなのに、悔しいわ」
こちらの胸中など知らず、隣で彼女が、可愛らしいふくれっ面を作っていた。
目を開けると、天井があった。
五秒遅れて、ギルモア邸の自室のそれだと判る。あれが夢だったと理解するのに、更に七秒要した。
悲しみなど欠片もなかった頃の、幸福な記憶。彼女のあんな笑顔を思い出したのは、いつ以来だろうか。
意識は明瞭で、稼動システムや各機関も正常に動作している。なのに、起き上がる際には、体が少々重く感じられた。
「あら、早いのね。もっとゆっくり寝ててくれてもよかったのに」
身支度を整えてリビングに下りると、キッチンからフランソワーズが顔を出した。
この妹分が台所で立ち働く姿を目にすると、改めて、日本のギルモア邸にいるのだと実感する。が、今朝は何故か、その光景がいつもより遠い。
まるで薄汚れたスクリーンに投影した映画を観てる気分だ。彼は胸の中で一人そうごちた。
「ここではいいのよ、少しくらいお寝坊さんでも。昨日着いたばかりで、まだ時差も――」
「だらだら朝寝するのは、俺の性に合わん。気にするな」
「貴方らしいわね。ジェットとは大違い」
フランソワーズが、グリーンサラダを作っていた手を止めて、熱いコーヒーを持って来た。
Danke、と答え、それに口を付ける。前回の来日時に気に入った豆だと、すぐに判った。こういう細やかな気配りは、いつものことながらありがたい。
で、フランソワーズは、またキッチンに戻るのかと思いきや、白いカフェオレボウルを手にして、向かいの席に陣取っていた。
朝食の準備はいいのかと訝しんでいると、「もうちょっと待って」という答えが返ってくる。
「博士は地下のラボにいらっしゃるけど、そろそろ戻って来られると思うの。そうしたら朝食にしましょ。
あんまり遅いようなら私が呼びに行くから、貴方はゆっくりコーヒーでも飲んで待ってて頂戴」
「あいつはどうした。まだ寝てんのか」
「ジョーったら、今じゃ起こさないと起きないのよ。
前は、時間になったらちゃんと自分で起きてくれてたのに。どうしてかしら」
ほうっと困ったようなため息をつくが、目はそうでもなさげに見受けられた。
お前が甘えグセを付けたんじゃないのか。そう言いかけて、喉元でぐっと言葉を止める。要らぬことを口にして家事を司る主婦の機嫌を損ねては、滞在中の生活に悪影響を及ぼす。ここは、黙っている方が賢明だ。
美味しそうにカフェオレを飲むフランソワーズから、テラスの方へと視線を移す。
青い空には雲一つ浮かんでおらず、まるで今日一日の晴天を約束するかのよう。遠くまで続く砂浜に波が打ち寄せ、白いしぶきが生まれて消える。凪いだ海は澄んだ日差しをいっぱいに浴びて、きらきら、きらきらと煌いていた。
ガラス戸を半分だけ覆うレースのカーテンが、少し開けた戸の間から吹く潮風を受け、ゆらりゆらりと揺れている。そのそばに置かれたクーファンでは、一足先にミルクをもらったらしい赤ん坊が、気持ちよさげにまどろんでいた。
どこまでも広く澄み渡った空と海。勿論、彼女には一度も見せたことがない。
思い返せば、何者にも気兼ねせず自由に吸える空気さえ、ろくに与えてやれなかった気がする。煙草の煙は、嫌という程吸わせてしまっていたけれど。
キッチンに戻っていくフランソワーズの後ろ姿に、つい彼女を重ねて夢想する。が、すぐに止めた。それはあまりにも失礼だ。彼女にも、フランソワーズにも。
ふうっと吐き出した息が、重い。重過ぎて、キッチンから流れてきたスープの匂いにも食欲をそそられぬ程に。
無意識に、カップを握る鋼鉄の手に力がこもった。それでは壊しかねないと、慌てて力を加減するが、表面上は何でもない風を装って、再びコーヒーに口を付ける。
自分は必ずブラックだが、あいつはミルク入りが好みだったか、それとも砂糖とミルクの両方だったか? 唐突に、そんな疑問が頭をかすめて消えた。
テーブルの隅に、取り込んだ新聞が置かれているのが目に入ったが、今朝に限っては、それを広げる気にならない。そこのマガジンラックに逆さまに突っ込まれている雑誌すら、そのまま放置することにした。
目を閉じて、軽く二三度頭を振る。それでも、彼女の笑う声が耳に届き、活き活きと立ち振る舞う姿が見える。
幻だ。そう判っていても、意識が彼女を求め続ける。普段は、全くこういうことはないのに。
ヘイゼルの瞳に明るい光をたたえ、ころころと笑う彼女の様は、まるで乾いた土に水が染み入るように、心を潤してくれる。無愛想な自分とは対極的な、その表情の豊かさは、いつまで見ていても飽きない。
こうして晩秋の冷たい風の中、あまり中身のない買い物袋を二人それぞれに抱え、粗末なコート一枚羽織っただけで歩いていても、寒さなど全く気にならなかった。
昔の自分が今のこの様を目にしたら、一体どう思ったやら。
「でね、ユーリエったら、また猫の方ばかり構うようになっちゃったんですって。
それでフリッツもすっかり拗ねちゃって。あの二人、見ててじれったいわ。もっとお尻叩いちゃおうかしら」
「………………」
「あ、そうそう。貴方の家の近くに、新しいパン屋さんが出来たのよ。もう行った?
カンパーニュとブレッツェルが、とてもおいしかったわ。ブリーゲルも、そのままでもおいしそうだったけど、きっとソーセージと酢漬けのキャベツを挟んでも合うと思うの。今度、作ってあげる」
「………………」
「今度の土曜日、だったわね。どう? お休み取れそう?」
「ああ、予定どおり休みを取った。心配は要らん」
「よかった。
実はね、ずっと楽しみにしてたのよ。コンツェルトなんて久し振りだもの」
葉を落として枝だけになった街路樹の並ぶ夕暮れの街に、ぽつぽつと明かりが灯ってゆく。
ぴゅうっと吹いた北風に、彼女が小さく身震いした。
そっと細い肩を抱き寄せると、嬉しげな微笑がこちらに向けられる。こんな時だけ、笑い慣れていない己の仏頂面が、ほんの少し恨めしくなる。だからといって、そう簡単に治せそうにもないのだが。
どこからか、仄かにシチューを作る匂いが流れてきた。彼女もそれに気付いたようで、「家庭の匂いね」と目を細めている。
それに答える代わりに、肩にかけた手に少しだけ力を込め、さりげなく、速く歩こうと促した。
早く帰って暖かいコーヒーを飲もう。そう口にするのが照れくさくて、台詞が、喉に引っかかったまま出てこない。「帰ろう」の一言が精一杯だった。
そうして家路を急ぐ間中、買い物袋が、かさかさと軽くて乾いた音を立てていた。
西へ渡ればきっと、彼女にももっとあれこれ買わせてやれる。服もこんな薄着ばかりではなく、もっと暖かい格好をさせてやれる――常に頭の片隅を占める考えが、自分の中で、密かにその存在感を増す。
そう、今のままでは、どれだけ働いても彼女を楽にしてやれない。
「貴方の淹れてくれるコーヒー、どうして私のより美味しいのかしら。
同じ豆を使っているはずなのに、悔しいわ」
こちらの胸中など知らず、隣で彼女が、可愛らしいふくれっ面を作っていた。
目を開けると、天井があった。
五秒遅れて、ギルモア邸の自室のそれだと判る。あれが夢だったと理解するのに、更に七秒要した。
悲しみなど欠片もなかった頃の、幸福な記憶。彼女のあんな笑顔を思い出したのは、いつ以来だろうか。
意識は明瞭で、稼動システムや各機関も正常に動作している。なのに、起き上がる際には、体が少々重く感じられた。
「あら、早いのね。もっとゆっくり寝ててくれてもよかったのに」
身支度を整えてリビングに下りると、キッチンからフランソワーズが顔を出した。
この妹分が台所で立ち働く姿を目にすると、改めて、日本のギルモア邸にいるのだと実感する。が、今朝は何故か、その光景がいつもより遠い。
まるで薄汚れたスクリーンに投影した映画を観てる気分だ。彼は胸の中で一人そうごちた。
「ここではいいのよ、少しくらいお寝坊さんでも。昨日着いたばかりで、まだ時差も――」
「だらだら朝寝するのは、俺の性に合わん。気にするな」
「貴方らしいわね。ジェットとは大違い」
フランソワーズが、グリーンサラダを作っていた手を止めて、熱いコーヒーを持って来た。
Danke、と答え、それに口を付ける。前回の来日時に気に入った豆だと、すぐに判った。こういう細やかな気配りは、いつものことながらありがたい。
で、フランソワーズは、またキッチンに戻るのかと思いきや、白いカフェオレボウルを手にして、向かいの席に陣取っていた。
朝食の準備はいいのかと訝しんでいると、「もうちょっと待って」という答えが返ってくる。
「博士は地下のラボにいらっしゃるけど、そろそろ戻って来られると思うの。そうしたら朝食にしましょ。
あんまり遅いようなら私が呼びに行くから、貴方はゆっくりコーヒーでも飲んで待ってて頂戴」
「あいつはどうした。まだ寝てんのか」
「ジョーったら、今じゃ起こさないと起きないのよ。
前は、時間になったらちゃんと自分で起きてくれてたのに。どうしてかしら」
ほうっと困ったようなため息をつくが、目はそうでもなさげに見受けられた。
お前が甘えグセを付けたんじゃないのか。そう言いかけて、喉元でぐっと言葉を止める。要らぬことを口にして家事を司る主婦の機嫌を損ねては、滞在中の生活に悪影響を及ぼす。ここは、黙っている方が賢明だ。
美味しそうにカフェオレを飲むフランソワーズから、テラスの方へと視線を移す。
青い空には雲一つ浮かんでおらず、まるで今日一日の晴天を約束するかのよう。遠くまで続く砂浜に波が打ち寄せ、白いしぶきが生まれて消える。凪いだ海は澄んだ日差しをいっぱいに浴びて、きらきら、きらきらと煌いていた。
ガラス戸を半分だけ覆うレースのカーテンが、少し開けた戸の間から吹く潮風を受け、ゆらりゆらりと揺れている。そのそばに置かれたクーファンでは、一足先にミルクをもらったらしい赤ん坊が、気持ちよさげにまどろんでいた。
どこまでも広く澄み渡った空と海。勿論、彼女には一度も見せたことがない。
思い返せば、何者にも気兼ねせず自由に吸える空気さえ、ろくに与えてやれなかった気がする。煙草の煙は、嫌という程吸わせてしまっていたけれど。
キッチンに戻っていくフランソワーズの後ろ姿に、つい彼女を重ねて夢想する。が、すぐに止めた。それはあまりにも失礼だ。彼女にも、フランソワーズにも。
ふうっと吐き出した息が、重い。重過ぎて、キッチンから流れてきたスープの匂いにも食欲をそそられぬ程に。
無意識に、カップを握る鋼鉄の手に力がこもった。それでは壊しかねないと、慌てて力を加減するが、表面上は何でもない風を装って、再びコーヒーに口を付ける。
自分は必ずブラックだが、あいつはミルク入りが好みだったか、それとも砂糖とミルクの両方だったか? 唐突に、そんな疑問が頭をかすめて消えた。
テーブルの隅に、取り込んだ新聞が置かれているのが目に入ったが、今朝に限っては、それを広げる気にならない。そこのマガジンラックに逆さまに突っ込まれている雑誌すら、そのまま放置することにした。
目を閉じて、軽く二三度頭を振る。それでも、彼女の笑う声が耳に届き、活き活きと立ち振る舞う姿が見える。
幻だ。そう判っていても、意識が彼女を求め続ける。普段は、全くこういうことはないのに。