蜘蛛と蝶々
「あら…?」
シャワールームを出ると、備え付けの鏡台の前にあるはずのものがなくなっていた。
自分が洗濯してやったバスタオル。クローゼットの奧にあったカットソーとパンツ。
下着も取り替えたいのだが、泊まる予定でなかったのだから致し方あるまい。
否、それは良い。そこではない。
―ドライヤーがない。
この、密かに自慢の長く美しい黒髪を乾かす為の、道具が。
「…臨也…?」
取り敢えず、タオルに水分を吸わせつつ、鈍い明かりの漏れる彼の寝室へと向かう。
顔を覗かせると、ベッドの上の黒い塊が、白いそれを弄んでいた。
「おかえり、波江」
「ただい…ま…」
ニコリ、と微笑んだ顔に邪気は無い。ただただ、穏やかに笑っていた。
―折原臨也が、笑っていた。
「ほら、早くおいで」
「…何?」
「風邪引くよ」
ゆっくりと、手招きをされる。
私は、彼が取り巻きの女子にその動作をするのを見たことがある。まるで、毒蜘蛛が糸で可憐な蝶々を絡め捕ろうとしているように感じられたものだった。
けれど、今、そこにあるのは、善も悪も他の理解の超えた世界で生きる私にさえ伝わる、単純な好意で。
「わかったわよ」
「ふふ、良い子だね」
「子供扱いは止めて頂戴」
「じゃあ、素直だね?」
「……………」
流石に向かい合わせは躊躇われて、私は背中を見せて腰掛けた。
クスッと笑みを零し、臨也は肩からタオルを取り上げる。
彼は、私の髪を拭き始めた。
「ごめんね、遅くまで」
「別に…構わないわよ」
「残業手当て、弾むからさ」
「通常の時給換算で良いわ」
「そうかい?」
臨也の手の動きが、タオル越しに感じられる。思いの外、優しい手つきだった。
そういえば、何も当たる感触がない。目線を動かすと、サイドテーブルには二つの指輪が転がっていた。
「これだけ長いのに、本当にキレイだよね」
「一応、気を遣っているから」
「…だろうね」
耳元に唇が寄せられる、気配がする。
吐息が耳朶を擽って、私はゾクリと身体を震わせた。
「とても美しい」
「っ…」
頬が熱くなるのを止められず、私は少しだけ俯いた。
それに気づいているのかいないのか、臨也は愉しげに笑いつつ、ドライヤーのスイッチを入れる。
「波江、良い香りがする」
「さっきまで貴方が使っていたのと同じシャンプーでしょう」
「でも、ずっとずっと良い香りだよ。…何でかな」
「…知らないわよ」
今度は直接、臨也の手が、指が、私に触れた。
首筋を、うなじを、頬を、耳を。どれも掠める程度だった。けれど、十分だった。
「いつも、ありがとう」
「…!」
―私を誘うのには、十分過ぎたのだ。
「あ…何、どうしたの」
「…臨也」
「?うん」
身体ごと振り向くと、きょとんとした顔に見つめられた。
この男は本当に、私のよく知る、あの折原臨也だろうか。
朝起きたら全て夢でした。そんな結末が、この先に待っているのではなかろうか。
「波江…?」
それでも、きっと私は、満たされたままだろう。
「 」
「え?ごめん、聴こえない」
―当たり前だ。聴こえぬように言ったのだから。
ゴオォッ、オオォッ。
騒がしいだけで用をなさなくなったドライヤーを掴んでいる彼の手に、私は己のそれを重ねた。降ろしていた脚をベッドの上に。それから、もう一度囁いてやる。
けれど、聴かせてやるつもりはない。そんな恥ずかしいこと、真っ平御免だ。
だから、
「臨也、 」
「!」
言葉は、薄く開いていた唇の上に乗せてやる。
「ん、ふっ、」
「は…」
「っあ」
臨也の空いていた腕が、私の腰に回る。
触れて離れた唇は、角度を変えながら、何度も何度も、引き寄せ合った。繰り返す度に、深く激しくなるキスに、眩暈がする。
―ああ、もう。なんて、優しい。
舌が痺れる。息が苦しい。鼓膜が侵される。
シャンプーの香りに、酔いそうだった。―否、多分酔っていた。
いつの間にか、ドライヤーのスイッチは落とされ、組み合っていた手は、シーツの上に転がる二人分の体重を支えていた。
「可愛いよ、凄く」
「貴方のせいよ」
「そりゃ、どうも?」
微笑みには邪気が無い。触れる皮膚には温もりしか無い。
ただただ、穏やかな甘さに包まれて、このまま堕ちていくのも悪くない、などと思った。
―決して、あのあわれな蝶々達と、同じではないと信じたい。
「どっちが蜘蛛なんだか…」
「な…に…」
「ううん、」
「あッ」
あいしてるだけ。
絡め捕られる快感に、私は理性を失った。
『蝶々はゆめの夢を見る、蜘蛛はうつつの幻を見る』
(波江が蝶々なら、俺は蛾ってところかな)
作品名:蜘蛛と蝶々 作家名:璃琉@堕ちている途中