蜘蛛と蝶々
要はタイプだったのだ。
人間なら一人を除いて皆を愛しているけれど、やはり好みというものがある。
初めて出逢った時、入手していた画像以上の外見に、正直目を見張った。動き、話す姿。その表情、声。
ああ、やはり「生きている」人間は良い。そう思った。
「上がったよー」
「じゃあ、悪いけど私も使わせて貰うわよ」
「行ってらっしゃーい」
時刻は深夜二時を少し回ったところだった。シャワーを浴びた俺と入れ替わり、波江が浴室へと消える。
彼女の尽力もあり、重要案件を片付けた今日は、木曜日から既に金曜日へと。今週は仕事が立て込み、流石の俺も疲労を感じていた。
紅茶でも淹れようかとキッチンへ向かえば、そこにはカップに入ったダージリン。思わず笑みが零れた。
「出してから行けば良いのに」
淹れたばかりとわかる、湯気と香り、色合い。一口啜れば、染み渡るような風味が少し冷え始めていた身体を包む。
優秀な秘書は、すっかり俺の行動や思考、味覚を把握したようだった。
冷蔵庫を背に、俺は広い部屋を眺める。そこには、ちらほらと波江の持ち物や彼女の趣味とわかる品が置かれていた。そして、それは今や、俺の中にも馴染んでいる。
例えば、先程俺が使用したシャンプーがそうだ。これは彼女が「好き」という理由で購入して来たもので、初めは噎せるようなココナッツの匂いが嫌だったのだ。しかし、慣れた今となっては、これでないと落ち着かなくなってしまった。
カップを空にした俺は、僅かな眠気に襲われつつ、ふと初めて波江を抱いた夜のことを思い返した。
気紛れだった、多分今のように疲れていたのだ。気づいたら重ねた唇に舌を割り込ませていた。戯れで触れるだけのキスをしたことは幾度かあったが、彼女は無反応に近く、俺は俺でそれ以上する気もなかった。
だから、彼女の発した声に、驚いた。
「…ふぁっ……ん…」
「あ…、ごめん」
「っ、………」
口づけから解放された波江は、膝を折って床に座り込んでしまった。どうやら立てなくなったらしく、俺は屈んで手を貸してやろうとしたのだ。
すると、彼女はギリッと俺を睨んだのだが。
「何それ…誘ってんの…?」
「…違う」
「違わないよ、真っ赤じゃない」
指摘すれば、上目遣いで潤ませた瞳を揺らして、彼女は更に頬に熱を集める。そして、口元の唾液を拭いつつ悔しげに息を吐いたのだ。
俺には、それで十分だった。だから、しゃがみ込んで熱い頬に指を滑らせた。
「…波江」
「や、」
「抱きたい」
「な………、あっ」
俺は彼女の耳朶に舌を這わせた。耳殻をなぞるようにすると、ビクビクと跳ねる身体は俺に凭れるように傾いだ。色を含んだ吐息は断続的に俺の鼓膜を叩く。
濃い睫毛を震わせ、俺の肩口に爪を立てた波江の眼差しは、俺を誘うには十分過ぎたのだ。
「臨也…」
「お願いだ」
「は……っ…」
「抱かせてくれ」
返答は待たなかった。俺は彼女を抱きかかえて寝室に向かうと、ベッドに降ろした彼女をそのままシーツに押し倒した。
そして、今度は彼女が苦しげに声を漏らしても、それすら奪い去るように深く激しいキスをしたのだ。
そんな記憶を反芻したら、何だか波江に触れたくなった。疲れているのだと思う。
彼女は相変わらず冷たくて、事務的だが、時折見せる柔らかな表情や、温かみのある声に、俺は惹かれていた。それは料理を褒めた時や、徹夜明けにコーヒーを出してくれる時、あるいは共に大仕事を終わらせた時、つまりつい一時間程前にも現れたのだ。特に今回の仕事は、彼女がいたから何とか今夜中に片付けられたのであり、その反応は格別だった。
「末期だなぁ…」
どうにも彼女の体温を感じたかった。セックスがしたいのかというと、そこまで高まっているわけではないが、そうなったなら、俺は彼女を気持ち良くさせる為にきっと努力するのだろうという、むず痒いような確信もある。
普段とは異なる彼女の生態は、俺にとって興味の対象…以上の何かだ。
取り敢えず、波江に触れるという目的を果たすべく、俺はドライヤーを取りに行くことにした。彼女の長く艶やかな黒髪もまた、俺は大好きなのだ。
『鱗粉は糸を飾る、糸は鱗粉を纏う』
(俺も君のせいで大分イカレちゃったよね)
(元からでしょう)
作品名:蜘蛛と蝶々 作家名:璃琉@堕ちている途中