ラストダンス
確信も何もなかったけど、その日が最後なんだと気づいた。
魔王の凱旋を祝う舞踏会は、国中の貴族、各国の来賓、さらには平民や子供の姿まで交えて、盛大にとり行われた。どの顔も輝き、王の無事の帰還と、彼の取り戻した平穏を、心から喜んでいる。
ユーリは黒衣に深紅のローブを羽織り、魔王にふさわしい気品と美貌をもって、大勢に取り囲まれ祝福を受けていた。この機会に初めて王の姿を見る者も多いらしく、噂に違わぬ双黒の美しさに、圧倒されているようだ。けれど気さくな笑顔を向けられ、親しみと敬愛を込めた眼差しを返す。ユーリは多くの民に慕われる、良き王だった。
ヴォルフラムは大広間の壁際に立ち、遠くからその様子を眺めていた。今日ばかりは、我らが王が主役だ。自分が出しゃばることはない。ギュンターやコンラートも、ユーリの側に控えつつ、一歩下がって王と民の間を分け隔てるようなことはしなかった。
そんな時いつも例外なのが、お調子者の大賢者だ。大扉の方がざわついたかと思えば、一際聴衆の視線を集めながら猊下が現れる。少しは控えめにすればいいものを、これまた漆黒の法衣などというものを身にまとい、悠然と人波の割れた間を闊歩してくる。見目だけはやたら麗しいから、手に負えない。普段はユーリよりもだらしのない格好をしているくせに。
先ほどまでは魔王が中心だった大広間も、その注目が全て大賢者に注がれてしまう。猊下は何食わぬ顔をしてユーリの前に行くと、大袈裟な身振りと声色で王の偉業を称え、感謝の意を示した。再び眞魔国に戻ってきた伝説の大賢者が、当代魔王を賞賛し、親しみを込めてその手を握る様子を見て、国民たちは感動し涙を滲ませる。
ユーリは半ば苦笑いで、その三文芝居に付き合ってやっていた。まったく、どこまでも調子のいい賢者だ。呆れながらそれを見つめるヴォルフラムは、しかしそれを邪魔するようなことはしなかった。せっかくの祝いの席だ、こうした臭い演出さえ、さらに喜びを高めてくれることだろう。
そうしてやっと、今夜の本番である舞踏会が始まる。しかし、恐れ多くも王と一曲を共にしたいという淑女が列をなすのに関わらず、ユーリは照れくささを全面に出して遠慮し、娘のグレタとしか踊らなかった。主役がこれでは舞踏会も盛り上がりに欠けるのだが、グレタが始終ユーリを独占し、煌びやかに飾った令嬢たちを威嚇するので、絶えず微笑ましげな苦笑がもれる。王の愛娘という壁を突破できる強者は、どうやら今夜はいないようだ。
猊下も少しは大人しくなって、遠慮がちにも熱い視線を送る美しい娘らに目もくれず、なぜか女装しているヨザックと、熱心にあり合わせの料理をつついている。大賢者の趣味を疑われたら、どうするつもりだろうか。
そんな穏やかな時間が流れ、舞踏会も終わりに近づいた。今夜素晴らしい演奏を披露した音楽隊も、最後の曲を手に待ちかまえている。ラストダンスだ。再び聴衆の視線が王に集まった。王は、最後の一曲さえ、誰とも踊らないつもりだろうか。
コンラートに何か耳打ちされ、ユーリはきゅっと唇を結ぶと、歩を踏み出した。痛いほどの視線がユーリに注がれる。皆が皆浮き足立ち、もしや選ばれるのは自分なのではと、期待に胸を膨らませた。ヴォルフラムもその中の一人だったが、やがてその瞳が、大きく見張られる。
ユーリが、自分の方へ向かって、歩いてくる。ような気がする。
ヴォルフラムは壁際から動かなかったので、ユーリのいる王座までの距離は随分あった。間には大勢の紳士淑女が立ち並び、自分達へ近づいてくる王を信じられないような目で見つめている。中には興奮のあまり、立ちくらみをする者もいる。
けれどユーリは、その人波をとても申し訳なさそうにかき分け、壁際に向かっていた。やがて人々は自然と王の前に道を空ける。その先には、温かな眼差しでずっと王を見守っていた、王の婚約者がいたからだ。
かつてないほどの鼓動が、ヴォルフラムを支配していた。足が震えそうだ。かすみそうな視界の中でユーリが、間違いなく自分の元へ来た。
ユーリは慣れない仕草で手のひらを差し出す。そして、緊張して少し強張った笑顔で言った。
「ヴォルフラム。俺と踊ってくれないか?」
何か言葉にすれば、堪えていたものが溢れ出しそうだった。泣きたかったのかもしれない。
震える手を、彼の手のひらに重ねる。ユーリはほっとしたように微笑み、その手をそっと掴むと、ゆっくりとヴォルフラムを広間の中央に連れ出した。
ユーリに手を引かれるその途中、おそらく自分は、魔王の婚約者にはふさわしくない顔をしていただろう。もっと堂々として、自分が選ばれるのは当然、自分こそが王の相手にふさわしいと、そんな風にいるべきだったかもしれない。けれど実際は、驚きと喜びでぐちゃぐちゃの随分と情けないものだった。
不安に駆られて周囲を見回すと、王座にコンラートやグレタの笑顔が見えた。特にグレタははしゃぎ回って、嬉しそうに手を振ってくる。戸惑いは晴れてユーリの方を向くと、ユーリも同じような顔をしていた。
踊り慣れない王のための、穏やかなバラード。ユーリは少し腰が引けていたが、それほど下手ではなかった。しっかりしろ、へなちょこめと声をかけると、へなちょこって言うなといつもの答え。
幸せだった。この上なく、幸福だった。
「ありがとな、ヴォルフラム。いつも俺に付き合ってくれて」
「何だ、今さら」
「本当に感謝してるんだ。今回のことだって、ヴォルフがいたから、俺は乗り越えられたんだよ」
「感謝ならウェラー卿にするんだな。涙を流して喜んで迎え入れた、仲間だろう?」
「もちろん、コンラッドにもだけど。ヴォルフにもだよ」
ユーリは真剣な眼差しをして、それから花が咲きほころぶように微笑んだ。漆黒の瞳が燭台の光に煌めき、とても美しかった。
「ありがとう」
それに見惚れたヴォルフラムは、ユーリの足がもつれたのにもフォローできず、2人のダンスはしばし中断してしまう。慌てて謝る王に、嫌な意味ではない苦笑がもれた。
「ご、ごめん、こんな時に」
「かまわない」
「もっと練習してればよかった。ヴォルフラムはこういうの、慣れてるんだろ?」
「そうでもない。特に最近は、誰とも踊っていないからな」
「え、どうして?そうえいば、俺、ヴォルフが踊ってるの見たことないような」
「お前と婚約してからは、お前としか踊っていない」
「って、俺たち踊るの初めてじゃん」
「初めてだな」
ちょっと非難めいて聞こえたかもしれない。ユーリは虚をつかれたような顔をして、それから視線をあちらこちらに戸惑わせた。ヴォルフラムは目を伏せて、頼りなげなユーリを力強くリードする。
待っていた。ずっと待っていた、あの場所で。彼が自分を選ぶのを。いつも待って、待ち続けて、いつのまにか待つのが当たり前になっていたのかもしれない。自分はそこから動くこともしなくなった。
願いだけが密やかに、静かに深くなってゆく。それを彼がすくい上げてくれたのだ。これを奇跡と呼ばずにはいられない。だから。
「あの……あのさ、ヴォルフ。俺さ……」
「何だ、ユーリ。何でも言ってみろ。僕に対して遠慮するなんて、お前らしくないぞ」