世は総て事もなし
一度だって、淋しいと思ったことはねえのか。
潮騒を背にした男の低い声が響く。
もしももう一度問われたならば、すぐさまこう返してくれよう。
ああ、淋しい。淋しくて堪らぬわ。だからその首此処へ落とせ。貴様の首を肴にすれば、我の無聊も少しは慰められよう。さあ、その首此処へ置いてゆけ。
できぬと言うならせめてその舌、噛み千切ってみせよ。
――戯言ばかりを紡ぐ舌なら要るまいぞ。
西海の鬼、などという仰々しい異名で呼ばれる男が、実のところ底抜けに低能で暴れるしか能がない愚かな男だということを、毛利元就は戦場で初めて会ったその日に悟った。よりにもよってこれが近接する四国の主かと、苦々しく思わずにはいられなかった元就に対し、男は元就の最も嫌う類の思考を曝け出して元就の戦略をなじった。部下を囮にするなど考えられない、お前のやり方は理解できない、――俺は誰も見捨てはしない。
馬鹿な男だ。人は人を利用し、利用され、生きていく。意識しているかしていないかの差があるだけで、誰もがそうして息をしているのだ。その事実に眼を瞑り、大義名分を与えて自分は違うのだと言い張ったとて本質は何も変わらない。余計な装飾をして仲間だの絆だのと、見映えが良い外観を取り繕うことをこそ、元就は呆れ果てて蔑んでいる。
今も昔もそう思うのは変わらぬのに、その日の元就は妙に激昂した。
一人ぼっちじゃ、ねえか。あんた。
そう言って男は、粗野な態度には不釣り合いな色を帯びた隻眼を元就に注いだ。
すべて見切ったと言いたげな、男の顔に浮かんだものは確かに憐憫だった。そうと気付いた瞬間に、元就がすべきは冷笑を向けることであったはずだ。なのに元就は、砂に足元を掬われるような焦燥を覚えて、咄嗟に怒りを見せてしまった。
貴様などに何がわかる、馴れ合いしか知らぬ貴様に!
叫んだ途端に男のにやけた面が眼に入った。男は一転して愉しげにこちらを見遣ると、こう言った。
「何だ、意外にあんた脆そうだぜ」
不覚としか言い様がなかった。その屈辱の記憶と共に、元就と男の、一つの海を挟んだ因縁が始まったのだ。
だが、今の元就はその当時の自分について、こう断じて切り捨てる。
路傍の石に反論するなど、我も大概愚かであったわ。
豊臣の時代、そう呼ぶに相応しい長い期間を耐えながら息を潜め続けた元就は、己の手腕にさらなる確信を抱いていた。ひとつでも打つ手を間違えば、蹂躙という名の侵略をくらうことは必至であった時代を、己の知略で乗り切ったという自負がある。
君は、どうにも手の出しようがないねえ。
幾度かやり合った際にそう呟いた豊臣の軍師が、結局はその言葉を残したまま他界した際には、元就は珍しく身の内から噴き出すような歓びを感じた。
長き冬がその瞬間に終わりを告げたのだ。
元就にとって恐ろしかったのは豊臣の武力ではない。そんなものはその気になれば向ける先を変えることも、内部から自壊させることも容易い。それを押しとどめ、逆にこちらへ切り返す鋭い刃を携えるあの軍師がいたからこそ、元就は豊臣の時代を脅威としていた。
それが、消えた。病などというあっけない理由で!
元就はその報せを受けた日に、普段にもまして長い時間日輪を見上げ、このうえもなく望ましい場所に病魔が巣食ったことを感謝した。
そしてようやく遮るもののなくなった、元就の冷然とした眼が見据えた先には、海を挟んで対峙するあの男の国がある。
――貴様が何をしているのか、知っているぞ。
元就は半月に眼元を歪め、引き攣った笑みをわずかに口元へ浮かべた。白磁の肌に人形のように整った顔を持つ男が浮かべたその表情は、このうえもなく酷薄だった。
鬼を名乗りながら人の情を我に説いた、中途半端なならず者よ。無頼を気取るはそれほどまでに愉しいか。国主の端くれとも思えぬ愚か者めが。知っているぞ、貴様は自由とやらを謳いあげ、頻繁に国を空けては旅に出る。
その姿勢は今に始まったものではない。元就はそれを、ずっと横目で見ていたのだ。元就が息を殺し、時には蓄えた力を自ら削ぐような真似すらしながら慎重に歩んでいた傍らで、あの男は常に不遜な態度を隠そうとせず過ごしていた。そうして豊臣に対しても真正面から向かい合い、それがどれほどの無謀であるかを知ろうともしなかった。豊臣の軍師が今少し永らえたならば、海に浮かぶかの地は瞬く間に併合あるいは壊滅の憂き目を見ただろう。
その僥倖すら認識しようとせずに、他がどれほど変化しようと自分ばかりは不変を貫こうという、その男の傲慢な自意識が鬱陶しい。時代を読んだという自負が、時代に流されるなど馬鹿らしい、もっと楽しいことがあるじゃねえかと快活な笑い声をあげる男の姿をとらえて、こう呟かせる。
「……潰せるな。あれは」
そう、赤子の手を捻り、いっそ首を刎ね飛ばすよりもよほど簡単なことだ。
もはや元就を「読める」者など、一人とていないのだから。
潮騒を背にした男の低い声が響く。
もしももう一度問われたならば、すぐさまこう返してくれよう。
ああ、淋しい。淋しくて堪らぬわ。だからその首此処へ落とせ。貴様の首を肴にすれば、我の無聊も少しは慰められよう。さあ、その首此処へ置いてゆけ。
できぬと言うならせめてその舌、噛み千切ってみせよ。
――戯言ばかりを紡ぐ舌なら要るまいぞ。
西海の鬼、などという仰々しい異名で呼ばれる男が、実のところ底抜けに低能で暴れるしか能がない愚かな男だということを、毛利元就は戦場で初めて会ったその日に悟った。よりにもよってこれが近接する四国の主かと、苦々しく思わずにはいられなかった元就に対し、男は元就の最も嫌う類の思考を曝け出して元就の戦略をなじった。部下を囮にするなど考えられない、お前のやり方は理解できない、――俺は誰も見捨てはしない。
馬鹿な男だ。人は人を利用し、利用され、生きていく。意識しているかしていないかの差があるだけで、誰もがそうして息をしているのだ。その事実に眼を瞑り、大義名分を与えて自分は違うのだと言い張ったとて本質は何も変わらない。余計な装飾をして仲間だの絆だのと、見映えが良い外観を取り繕うことをこそ、元就は呆れ果てて蔑んでいる。
今も昔もそう思うのは変わらぬのに、その日の元就は妙に激昂した。
一人ぼっちじゃ、ねえか。あんた。
そう言って男は、粗野な態度には不釣り合いな色を帯びた隻眼を元就に注いだ。
すべて見切ったと言いたげな、男の顔に浮かんだものは確かに憐憫だった。そうと気付いた瞬間に、元就がすべきは冷笑を向けることであったはずだ。なのに元就は、砂に足元を掬われるような焦燥を覚えて、咄嗟に怒りを見せてしまった。
貴様などに何がわかる、馴れ合いしか知らぬ貴様に!
叫んだ途端に男のにやけた面が眼に入った。男は一転して愉しげにこちらを見遣ると、こう言った。
「何だ、意外にあんた脆そうだぜ」
不覚としか言い様がなかった。その屈辱の記憶と共に、元就と男の、一つの海を挟んだ因縁が始まったのだ。
だが、今の元就はその当時の自分について、こう断じて切り捨てる。
路傍の石に反論するなど、我も大概愚かであったわ。
豊臣の時代、そう呼ぶに相応しい長い期間を耐えながら息を潜め続けた元就は、己の手腕にさらなる確信を抱いていた。ひとつでも打つ手を間違えば、蹂躙という名の侵略をくらうことは必至であった時代を、己の知略で乗り切ったという自負がある。
君は、どうにも手の出しようがないねえ。
幾度かやり合った際にそう呟いた豊臣の軍師が、結局はその言葉を残したまま他界した際には、元就は珍しく身の内から噴き出すような歓びを感じた。
長き冬がその瞬間に終わりを告げたのだ。
元就にとって恐ろしかったのは豊臣の武力ではない。そんなものはその気になれば向ける先を変えることも、内部から自壊させることも容易い。それを押しとどめ、逆にこちらへ切り返す鋭い刃を携えるあの軍師がいたからこそ、元就は豊臣の時代を脅威としていた。
それが、消えた。病などというあっけない理由で!
元就はその報せを受けた日に、普段にもまして長い時間日輪を見上げ、このうえもなく望ましい場所に病魔が巣食ったことを感謝した。
そしてようやく遮るもののなくなった、元就の冷然とした眼が見据えた先には、海を挟んで対峙するあの男の国がある。
――貴様が何をしているのか、知っているぞ。
元就は半月に眼元を歪め、引き攣った笑みをわずかに口元へ浮かべた。白磁の肌に人形のように整った顔を持つ男が浮かべたその表情は、このうえもなく酷薄だった。
鬼を名乗りながら人の情を我に説いた、中途半端なならず者よ。無頼を気取るはそれほどまでに愉しいか。国主の端くれとも思えぬ愚か者めが。知っているぞ、貴様は自由とやらを謳いあげ、頻繁に国を空けては旅に出る。
その姿勢は今に始まったものではない。元就はそれを、ずっと横目で見ていたのだ。元就が息を殺し、時には蓄えた力を自ら削ぐような真似すらしながら慎重に歩んでいた傍らで、あの男は常に不遜な態度を隠そうとせず過ごしていた。そうして豊臣に対しても真正面から向かい合い、それがどれほどの無謀であるかを知ろうともしなかった。豊臣の軍師が今少し永らえたならば、海に浮かぶかの地は瞬く間に併合あるいは壊滅の憂き目を見ただろう。
その僥倖すら認識しようとせずに、他がどれほど変化しようと自分ばかりは不変を貫こうという、その男の傲慢な自意識が鬱陶しい。時代を読んだという自負が、時代に流されるなど馬鹿らしい、もっと楽しいことがあるじゃねえかと快活な笑い声をあげる男の姿をとらえて、こう呟かせる。
「……潰せるな。あれは」
そう、赤子の手を捻り、いっそ首を刎ね飛ばすよりもよほど簡単なことだ。
もはや元就を「読める」者など、一人とていないのだから。