26時
しんとした薄暗い空間がそこにあった。窓からカーテン越しに差し込む光は、夜道を照らす街灯のものだろう。
どこからかサイレンの音が聞こえてくる。半音上がりながら遠ざかっていくそれは、救急車だろうか。こんな時間に、誰か倒れでもしたのだろうか。
炬燵の布団から、鼻から上だけを出して俺は部屋の隅を眺める。ボロボロになって削れた畳と、何かで引っかいたような傷を見せる壁。
いつもベッドで寝ているから視点の低さが目新しい。鼻先ではほこりっぽい、少しかび臭いにおいがする。
寝付けない。やけに冴えた目は、青白く浮かび上がる千歳の部屋を見ていた。
安物件のここは隙間でもあるのだろうか、千歳が持っていたしょぼいヒーターでは完全に温まることはなく、いつでも薄ら寒い。仕方ないからこうして炬燵で寝るなどという不健康な選択をしているのだ。
寝苦しくて、身体を揺すって更に深く潜り込む。耳元で布団が擦れる音がする。狭い炬燵の中で俺の足が何かに触れた。
確認しなくてもわかる。千歳のやつは迷惑なことに、この小さな炬燵の中にその長い足を器用にも折りたたんでいるのだ。そのせいで俺の身体は端へ追いやられ、自由に寝返りすら打てない。
恐らくは彼も起きているのだろうが、触れた足に吐息ひとつ聞こえてこなかった。この狭い空間に人がふたりもいるのに、まるで家具のひとつのようにふたりとも気配を押し殺していた。
静かだった。外からの喧騒がなければ、静寂で耳が痛くなるくらい。
寝ようかと言い出したのはどちらからだったか。ぱちぱちぱちんと電球の紐が引かれ、この暗闇を作り出してからどれほどの時間が経ったのだろう。
寝付けない。いや、眠れないのだ。
馬鹿なことだと俺も思う。まさかたったこれだけのことで、自分がこんなふうになるなんて思っていなかった。
起きていたって、今日が永遠に続くわけじゃない。眠ったからって、明日いなくなるわけじゃない。
なのに何故、俺は怖くて目すら瞑ることが出来ないのか。
千歳は、熊本に帰ると言った。
それは唐突な言葉だった。もう向こうの高校に願書を出したと言った。
ご飯を食べていた俺は茶碗を手にしたまま呆気に取られて、そうなんや、としか言えなかった。千歳らしいと言えば千歳らしい。むしろ何処何処へ行くのだと口にしたのが意外なくらいだった。
別に同じ高校へ行く約束をしていたわけじゃない。大阪に残ると言ったわけでもない。千歳が俺に干渉しないように、俺もまた千歳に深く踏み込まずにいた。
千歳は本当に不思議なやつで、その痕跡を何処にも残さないのだ。何も持たずにふらっと立ち寄っては、またいつの間にかいなくなっている。人一倍やかましいのが俺たちだから、それはまるで夢のような存在で、彼のロッカーがなければ本当に幽霊か何かなんじゃないかと思うくらい、いつも不安に駆られていた。帰り際、誰もいない部室を眺めては、そっと彼のロッカーに触れて存在を確かめていたのを、彼は知っているのだろうか。
その千歳が、熊本に帰るという。
彼はきっと何も残さず行くのだろう。来たときと同じように。
今ここにある物もすべて忽然と姿を消すのだ。そしてここには、痛んだ畳と、薄汚れた壁と、霞んだ窓しかなくなるのだ。
あぁなんだか、その様子が簡単に思い浮かぶ。俺はきっと、その差し込んだ日差しに埃がきらきらと舞う一畳の畳の上で立ち尽くしている。そう遠くない未来の姿が、目を瞑ると過ぎるのだ。
(ひとりになる)
そう認識した途端に、心臓がばくばくと早鐘を打ち始めた。それは腕を伝い、畳を伝い、部屋中に響いているのではないかと思うほど大きくなった。まるで耳の直ぐ下に心臓があるみたいだ。
これでいいのか。今俺は何かしなくてはならないんじゃないか。例えば跳ね起きて、行かんといてと縋るべきじゃないのか。それとも灯りをつけて、どうにかお互い納得できるように話をつけるべきじゃないのか。
なのに俺の身体は金縛りにあったかのように動けなかった。指一本でも、いや呼吸ひとつでもすれば途端にこの世界が崩れるような恐怖が心の中で渦巻いていた。
寒いわけではないのに歯がガチガチと音を立てて震える。身体中の筋肉が不自然に硬直する。
怖い。怖いのだ。
だからだろうか。不意に訪れた人の気配に大げさなまでに身体が跳ねた。炬燵の中から長い足が引き抜かれていく。人が立ち上がる音がする。畳を踏みしめる音がする。
俺は振り返ることもできず、ただ何処へ行くのかと、祈るような気持ちで呼吸を止めた。
閉じられなかった瞳を見開いたままで、ただじっとする。そんな俺の頭上に影が落ちた。そのまま頬に、5本の指が触れた。さっきまで炬燵の中にあった千歳の手のひらは、冷えた頬にとって十分に温かかった。
まるで形を確かめるようになぞって、離れる。やけに余韻を含んだそれにつられるように、顔を向けた。
逆光になった千歳は、俺の直ぐ上にしゃがみこみこちらを見ていた。膝の上に腕を乗せ、そこに顎をあずけてじっと見ている。
その顔は、無表情だった。ただ何も言わない。さっき俺に触れた左手だけが、行き場がなかったかのように畳の上に転がっている。
俺は恐る恐る手を伸ばした。包帯が巻かれたそれで千歳の手を掴む。伸び上がって半身を起こした。肩から布団が滑り落ちる。空気の冷たさに、小さな吐息が零れた。
「千歳、」
俺の視線は重ねられた手のひらで止まる。照らされたそれは青白く光り、およそ血の通った人のものだとは思えなかった。
寒い、と。俺の口からそんな言葉が飛び出た。
聞き届けたはずの千歳は口を閉ざしたまま、まるで項垂れるように俺の肩に額をあずける。
「怒らんとや」
静かな言葉だった。問いかけというよりは、独り言のような。叱って欲しいと、言っているような。
視線を逸らしたまま、俺は答える。
「怒られへん。それは、千歳が決めたことや」
「裏切り者ち、思っとうとやろ」
「何も裏切っとらん。なんも」
「白石」
千歳は顔を上げなかった。未だ繋がれた手のひらと、首筋に触れる彼の髪の毛だけが彼の存在を呼び覚ます。
「好いとうよ」
グッと、重ねた手のひらに力が入ってしまった。気を抜くと握り締めてしまいそうになるそれを必死で抑える。
今まで俺たちはその関係を明確にしなかった。言葉にしたら後戻り出来なくなりそうで、お互いに避けていたのだ。いつの間にかそれが、暗黙の了解となっていた。曖昧なまま誤魔化していたのだ。
千歳は、それを踏み越えてきた。彼の右手が、俺の肩に食い込む。
「俺は、どぎゃんしたらよかとかね。いっちょんわからん。わからんとよ、白石」
初めて聞く彼の本心だった。俺は千歳を、何だと思っていたのだろう。彼は幽霊でも何でもない。悩み苦しむ、ただの人間だ。
同じなのだ。千歳が離れてしまう、ただそれだけのことで眠れなくなる俺と。
「なぁ千歳」
俺は小さく息を挟んだ。うまく言葉が喉を上がってこないのだ。
「もし自分が、俺んこと忘れるんやったら何も残さんと出てってや」
それで、と、俺は震える唇を一度大きく引き結んだ。
「いつになるかわからへん。絶対約束なんてでけへんけど、会う気があるなら」
なんでもええ。なんでもええから。
どこからかサイレンの音が聞こえてくる。半音上がりながら遠ざかっていくそれは、救急車だろうか。こんな時間に、誰か倒れでもしたのだろうか。
炬燵の布団から、鼻から上だけを出して俺は部屋の隅を眺める。ボロボロになって削れた畳と、何かで引っかいたような傷を見せる壁。
いつもベッドで寝ているから視点の低さが目新しい。鼻先ではほこりっぽい、少しかび臭いにおいがする。
寝付けない。やけに冴えた目は、青白く浮かび上がる千歳の部屋を見ていた。
安物件のここは隙間でもあるのだろうか、千歳が持っていたしょぼいヒーターでは完全に温まることはなく、いつでも薄ら寒い。仕方ないからこうして炬燵で寝るなどという不健康な選択をしているのだ。
寝苦しくて、身体を揺すって更に深く潜り込む。耳元で布団が擦れる音がする。狭い炬燵の中で俺の足が何かに触れた。
確認しなくてもわかる。千歳のやつは迷惑なことに、この小さな炬燵の中にその長い足を器用にも折りたたんでいるのだ。そのせいで俺の身体は端へ追いやられ、自由に寝返りすら打てない。
恐らくは彼も起きているのだろうが、触れた足に吐息ひとつ聞こえてこなかった。この狭い空間に人がふたりもいるのに、まるで家具のひとつのようにふたりとも気配を押し殺していた。
静かだった。外からの喧騒がなければ、静寂で耳が痛くなるくらい。
寝ようかと言い出したのはどちらからだったか。ぱちぱちぱちんと電球の紐が引かれ、この暗闇を作り出してからどれほどの時間が経ったのだろう。
寝付けない。いや、眠れないのだ。
馬鹿なことだと俺も思う。まさかたったこれだけのことで、自分がこんなふうになるなんて思っていなかった。
起きていたって、今日が永遠に続くわけじゃない。眠ったからって、明日いなくなるわけじゃない。
なのに何故、俺は怖くて目すら瞑ることが出来ないのか。
千歳は、熊本に帰ると言った。
それは唐突な言葉だった。もう向こうの高校に願書を出したと言った。
ご飯を食べていた俺は茶碗を手にしたまま呆気に取られて、そうなんや、としか言えなかった。千歳らしいと言えば千歳らしい。むしろ何処何処へ行くのだと口にしたのが意外なくらいだった。
別に同じ高校へ行く約束をしていたわけじゃない。大阪に残ると言ったわけでもない。千歳が俺に干渉しないように、俺もまた千歳に深く踏み込まずにいた。
千歳は本当に不思議なやつで、その痕跡を何処にも残さないのだ。何も持たずにふらっと立ち寄っては、またいつの間にかいなくなっている。人一倍やかましいのが俺たちだから、それはまるで夢のような存在で、彼のロッカーがなければ本当に幽霊か何かなんじゃないかと思うくらい、いつも不安に駆られていた。帰り際、誰もいない部室を眺めては、そっと彼のロッカーに触れて存在を確かめていたのを、彼は知っているのだろうか。
その千歳が、熊本に帰るという。
彼はきっと何も残さず行くのだろう。来たときと同じように。
今ここにある物もすべて忽然と姿を消すのだ。そしてここには、痛んだ畳と、薄汚れた壁と、霞んだ窓しかなくなるのだ。
あぁなんだか、その様子が簡単に思い浮かぶ。俺はきっと、その差し込んだ日差しに埃がきらきらと舞う一畳の畳の上で立ち尽くしている。そう遠くない未来の姿が、目を瞑ると過ぎるのだ。
(ひとりになる)
そう認識した途端に、心臓がばくばくと早鐘を打ち始めた。それは腕を伝い、畳を伝い、部屋中に響いているのではないかと思うほど大きくなった。まるで耳の直ぐ下に心臓があるみたいだ。
これでいいのか。今俺は何かしなくてはならないんじゃないか。例えば跳ね起きて、行かんといてと縋るべきじゃないのか。それとも灯りをつけて、どうにかお互い納得できるように話をつけるべきじゃないのか。
なのに俺の身体は金縛りにあったかのように動けなかった。指一本でも、いや呼吸ひとつでもすれば途端にこの世界が崩れるような恐怖が心の中で渦巻いていた。
寒いわけではないのに歯がガチガチと音を立てて震える。身体中の筋肉が不自然に硬直する。
怖い。怖いのだ。
だからだろうか。不意に訪れた人の気配に大げさなまでに身体が跳ねた。炬燵の中から長い足が引き抜かれていく。人が立ち上がる音がする。畳を踏みしめる音がする。
俺は振り返ることもできず、ただ何処へ行くのかと、祈るような気持ちで呼吸を止めた。
閉じられなかった瞳を見開いたままで、ただじっとする。そんな俺の頭上に影が落ちた。そのまま頬に、5本の指が触れた。さっきまで炬燵の中にあった千歳の手のひらは、冷えた頬にとって十分に温かかった。
まるで形を確かめるようになぞって、離れる。やけに余韻を含んだそれにつられるように、顔を向けた。
逆光になった千歳は、俺の直ぐ上にしゃがみこみこちらを見ていた。膝の上に腕を乗せ、そこに顎をあずけてじっと見ている。
その顔は、無表情だった。ただ何も言わない。さっき俺に触れた左手だけが、行き場がなかったかのように畳の上に転がっている。
俺は恐る恐る手を伸ばした。包帯が巻かれたそれで千歳の手を掴む。伸び上がって半身を起こした。肩から布団が滑り落ちる。空気の冷たさに、小さな吐息が零れた。
「千歳、」
俺の視線は重ねられた手のひらで止まる。照らされたそれは青白く光り、およそ血の通った人のものだとは思えなかった。
寒い、と。俺の口からそんな言葉が飛び出た。
聞き届けたはずの千歳は口を閉ざしたまま、まるで項垂れるように俺の肩に額をあずける。
「怒らんとや」
静かな言葉だった。問いかけというよりは、独り言のような。叱って欲しいと、言っているような。
視線を逸らしたまま、俺は答える。
「怒られへん。それは、千歳が決めたことや」
「裏切り者ち、思っとうとやろ」
「何も裏切っとらん。なんも」
「白石」
千歳は顔を上げなかった。未だ繋がれた手のひらと、首筋に触れる彼の髪の毛だけが彼の存在を呼び覚ます。
「好いとうよ」
グッと、重ねた手のひらに力が入ってしまった。気を抜くと握り締めてしまいそうになるそれを必死で抑える。
今まで俺たちはその関係を明確にしなかった。言葉にしたら後戻り出来なくなりそうで、お互いに避けていたのだ。いつの間にかそれが、暗黙の了解となっていた。曖昧なまま誤魔化していたのだ。
千歳は、それを踏み越えてきた。彼の右手が、俺の肩に食い込む。
「俺は、どぎゃんしたらよかとかね。いっちょんわからん。わからんとよ、白石」
初めて聞く彼の本心だった。俺は千歳を、何だと思っていたのだろう。彼は幽霊でも何でもない。悩み苦しむ、ただの人間だ。
同じなのだ。千歳が離れてしまう、ただそれだけのことで眠れなくなる俺と。
「なぁ千歳」
俺は小さく息を挟んだ。うまく言葉が喉を上がってこないのだ。
「もし自分が、俺んこと忘れるんやったら何も残さんと出てってや」
それで、と、俺は震える唇を一度大きく引き結んだ。
「いつになるかわからへん。絶対約束なんてでけへんけど、会う気があるなら」
なんでもええ。なんでもええから。