敗北の夜に
緊張を孕む臨也に、帝人はほほえみを絶やさない。
静かなその瞳は、この部屋で対峙した最初から乱れることは無かった。
「同情が欲しいですか?」
「いらない」
「真実が欲しいですか?」
「いらない……っ」
「言葉がほしいですか?」
「いらないって、言ってる……っ!」
「嘘つき」
かたん、と音を立てて帝人が椅子から立ち上がる。それは見慣れた自分の事務所の、見慣れた景色のはずなのに、まるで夢のなかの風景のようだ。
そして帝人はまるで、この小さな城の主であるかのように、堂々と臨也と距離を詰める。臨也はこの距離になったら、本当ならばその小さな少年をねじ伏せてやろうと思っていた。そうして容赦なくその腕をひねりあげて、痛みに歪む少年の顔を見たかった。他ならぬ帝人が、臨也の力で表情を変える、その様子を見たかったのに。
「あなたは僕が欲しいんでしょう?」
僕の言葉が、心が、温度が。
どんなものでも僕から与えられるものが欲しいんでしょう、と帝人が言う。臨也の作業デスクに腰掛けて足を組む、その小さな少年に跪いて許しを乞いたい。
やめてくれと、優しくしないでくれと。
可能性を示されたら、優しくされたら、終わりなのだ。希望などいらない、いらないと思い込もうと懸命に唇を噛んだ臨也に向けて、帝人は容赦なく口を開く。
「あなたのものにはなりませんよ」
冷たいその言語が、暗闇に落ちて静寂。
それは想像していた言葉とは違ったけれど、より一層聞きたくない言葉だった。斬りつけられたような痛みに、臨也は息を飲んで視線を落とす。その胸ぐらを、帝人は容赦なく掴んだ。
引き寄せる力は、抵抗すれば難なく振り払える程度なのに。踏みにじられた心は自分で思っていたより脆かったようだ。ただ唇を噛み締めて見下ろした帝人の表情は、あくまでも、どこまでも、冷たく。
「……今どんな気持ちですか?」
軽くまゆを上げ、そんなことを問う。
どんな気持ち、だって?ああそうだね、それは俺が散々他人に聞いてきた言葉だ。同じようなタイミングで、同じような顔で。
「……っ、悪、趣味」
痛いほど握りしめた掌は、この姿は、散々目にした敗者達の姿ときっときれいに重なっているのだろう。ああ、冗談じゃない。こんなことになるくらいなら、君を池袋へ引っ張り出すんじゃなかった。一番最初からその目に興味なんかもつんじゃなかった。その存在に、惹かれなきゃよかった。戯言と分かっていて、それでも思う。
「あなたほど悪趣味ではないと思うんですけれど」
「君のが最悪」
「心外です」
「……離れて」
「嫌です」
数センチの距離で、帝人はその無表情だった顔に色を乗せた。それは自信にあふれた人間がする表情。追い詰めたほうが浮かべる微笑み。
そう、少し前までは、臨也が自信満々で浮かべていた類の。
「ッ離せ!」
思い切って掴んだ帝人の腕は、とても細くて頼りなくて。
それなのにそんな細腕で、臨也の胸ぐらを掴んだまま離さない。
「……どうしました、臨也さん。おかしいですね、あなたなら僕を振り払うなんて簡単なのに」
くすりと笑う唇。
勝者の笑顔。
「それとも、離せませんか。僕から貰える温度が惜しいですか?」
「……っ」
ぎり、と噛んだ唇の端から、微かに鉄の味がしみる。
惜しいか惜しくないか、その二択ならば、そりゃあ惜しいさ!と叫びたい思いをかろうじてこらえた。ああそうだ、認めようとも。切り捨てられてなお、希望を捨てられない愚かな人間を憐れだと笑ったこの俺が、今まさに笑い飛ばしたその状況にあるということを。
認めようとも。
この僅かな体温でさえ、それが帝人から与えられる物だというのならば、どうしてもそれを拒絶できない自分を。
認める他、無い。
ともすれば、臨也は帝人にすがって愛してくれと泣いてしまいそうな自分を自覚している。だからこそ今口を開くわけには行かない。今、この目を逸らすわけにはいかない。今、逃げるわけにはいかない。
帝人は、自分のものにならない。
ならばやはり臨也に出来ることは、その手が誰も掴まないように壊すことなのではないか。葛藤が渦巻く心をなだめるように息を吐く。ぐらぐらと揺れる意識が、帝人の唇の描く緩やかな微笑に、惹かれてたまらない。
ああ、いっそその喉元を、食いちぎって。
「だめですよ」
そっと、帝人の指先が臨也の唇に触れた。
人差し指がゆっくりと、その下唇を撫でてゆく。
臨也は突然の接触に硬直したまま、息を詰めて帝人の読めない笑顔をただ見返した。やめろ、触るな、これ以上期待させて突き落とすような真似をするな、何度も心は叫ぶのに、体が拒否できない。期待させて突き放すなんて、臨也自信が繰り返してきたことなのに。その結末をよく知るからこそ、その体温が怖い。そして、それにもまして。
……好きだ。
ああ認めようとも。
俺は、折原臨也は、この少年が。
今自分を追い詰めているこの少年が、心のそこから、魂の奥から、好きで好きでたまらないのだ。だから少しでも多くその心を奪いたくて、だから少しでも多く彼の記憶に残りたくて、だから、少しでも。
傷をつけたかった。
臨也が彼の人生を変えたという証を。
「……だめです、せっかくきれいな唇なのに、傷なんか付けたらもったいないですよ、臨也さん」
帝人は笑う、ただ、妖艶なまでに緩やかに。
「僕はあなたのものにはなりません。でも、あなたを僕のものにしてあげることに関しては、興味があるんです」
ねえ、どれくらい、楽しませてくれますか。
笑う帝人の唇が、小さく吐息を吐き出して臨也のそれに軽く触れる。
接触。
刹那の、体温。
愛される可能性を示されたら、終わりなのに。触れないでくれ、気を持たせないでくれ、何度も思って、何度も懇願して、それでもなお。
抉られた心はもう治らない。
その傷にただ帝人という存在を注ぎこんで広がるだけ。
侮っていた、自分を過信していた、好きにならなければよかった。出会わなければ、調べなければ、興味を持たなければよかったのに。
「さあ、跪いて無様に愛を乞いなさい」
囁かれた毒素は、臨也の奥底を絞めつけて熱く燃える。
だめだ、負けた。傷をつけられた。人生をこの少年の手で曲げられた証。唇に、その感触が、温度が、確かに刻まれて痛む。永久に忘れられないその温度を、抱えて生きることしかできないなら。
少年は緩やかに微笑んでいる。
勝負など、最初に名前を呼ばれたその時からついていたのかも知れないと、臨也は思うのだった。
嘘つき。
それなのに、どうしようもなく好きだ。