I want you to want me
聚義庁での会議に出向くと、珍しく林冲が出席していた。
そして、公孫勝の姿を認めると、面白くなさそうに顔を背けた。
公孫勝は、しばしば作戦会議に出る。それは致死軍の性格上、呉用と綿密な話し合いが必要であることが一番の理由だが、面倒なことに、聚義庁と将校たちとの間の立場に立たされることも多い。現場の戦術と、未来を見据えた広い意味での戦略の、両方を理解できる人間が梁山泊には少ないため、軋轢が起きるのだ。公孫勝自身はそんな面倒に巻き込まれるのはごめんだが、前線の将校たちの愚痴と呉用の苦悩、どちらも耳に入ってくる。実際には、公孫勝に愚痴ろうものなら何倍もの皮肉が返ってくるだけだが。
林冲は、戦略を理解しようとしない将校の最たるものだ。本人も分かっていて、騎馬隊が加わる作戦の会議にしか出席しない。それも、騎馬隊の任務だけを聞いたら、途中で帰ることも多い。
今日は騎馬隊の再編成と、牧についての話し合いだった。以前から段景住らが、かかりきりになっていた件だ。だから林冲も最後まで残っているのだろう。
林冲は、命にかかわる大怪我を負ったが、ほとんど癒えていた。調練も行っているらしい。ただ、実戦の復帰はしていない。
公孫勝にとっての林冲は、自分の心の何かに引っかかる男だった。説明はつかないが、林冲のどこかに苛立ちのようなものを感じるのだ。暗い過去を引きずり、それを隠そうともしないところが、気に入らないのかもしれない。もしくは、たやすく死に場所を求めているところか。いずれにしても、自分とは正反対だ。
林冲は間違いなく梁山泊軍最強の男だ。そのことは認めている。個人的に虫が好かないことと、実力を認めることは関係ない。戦では、これ以上頼れる男もいないだろう。実際、まだ梁山泊軍の規模が小さかった頃は、林冲の騎馬隊と致死軍が何度も連携して作戦を遂行した。戦場での相性は、悪くない。
ただその度に、林冲は公孫勝を罵倒し、公孫勝は林冲を皮肉で煽りたてる。
気に入らないなら、近寄らなければいいのに、お互いわざわざ近づいてまで言い合う。今でもそうだ。史進はうんざりした顔をするし、晁蓋には「仲がいいのか悪いのか、お前たちのことは理解できんな」と呆れたように言われたことがあった。
その晁蓋の隣で、宋江は微笑んでいた。その時は何も言わなかったが、後から人づてに、宋江が「林冲には公孫勝のような相手がいたほうがいい」と話していたと聞いた。
宋江の、言葉の真意は分からない。公孫勝にしても、林冲のためになると思っているわけではない。ただ、なんとなく宋江の言っていることは分かる気がする。林冲の危うさを、自分の言葉が抑え込んでいると思ったことも、何度かあったからだ。
呉用が散会を告げ、残る全員が会議室を出て行った。宋江、晁蓋は聚義庁内の自室へ、呉用は文治省へ戻って行った。聚義庁の長い廊下を、林冲と公孫勝の二人で並んで歩くことになった。
しばらく無言であったが、林冲が重そうに口を開いた。
「最近、梁山泊にはいないようだな」
すぐ横の林冲の顔を見た。林冲のほうが上背があるため、少し見上げる格好になる。林冲の顔は、やはり不機嫌そうだった。公孫勝のほうは見ず、視線は前を向いている。
「任務に出ている」
公孫勝も愛想なく答えた。
林冲と言葉を交わすのは、久しぶりだった。
あの時以来だ。
昨年、林冲が軍規違反の咎で馬糞掃除を命じられていた時、夜の牧で、林冲は公孫勝を抱いた。もとは林冲が誘ったのだが、公孫勝も自ら深夜の牧へ、彼のもとへ忍んで行ったのだ。なぜそんなことになったのか、公孫勝自身にも分からない。ただ、互いに互いの何かを求めた。
あの時は、二人ともどうかしていた。
そう思って、忘れたほうがいい。
それ以降、牧に林冲をからかいに行くのはやめた。あの後に下った任務で梁山泊を離れがちだったのも、林冲から遠ざかるいい口実になった。
あれから幾月か経った。少しずつ、あの夜のことが遠くなっていった。そう思っていたが、林冲に近づくと、思い出してしまう。
林冲の、熱い息づかいを。
肌のぬくもりを。
「牧に、来なくなった」
あの記憶が脳裏に浮かんできた時、林冲の低い声が聞こえてきて、現実に引き戻された。自分の心の動揺を絶対に悟られないように、
「馬鹿をからかっている暇がなくなった。戦に出ないでのんびり過ごしているお前と違って、致死軍は忙しい」
わざと林冲を怒らせるようなことを選び、冷たく言い捨てた。
その瞬間、腕を取られ、強い力で引きこまれた。廊下の柱の陰の壁に、背中を強く打ちつけられる。一瞬、息ができなくなるかと思った。視界がすうっと暗くなった。林冲の顔が眼の前にあり、光を遮っていた。林冲の眼の光が強くなる。顎を掴まれた。林冲の唇が、すぐ近くにある。
「よせ」
顔を背け、林冲の力から抗った。「人が来る」
できるだけ、冷静な声で言った。
何もなかったように、やり過ごしたかった。個人的な感情に振り回されたくない。誰も、自分の懐に入れたくない。今までそうしてきた。周囲から人嫌いと思われても構わなかった。深く傷を負った心に、触れてほしくないからだ。
誰にも言えない、過酷と言うだけでは足りない過去を背負ってしまった。自分が、人であると思うことが難しいほどに。それを覆い隠すために、心に分厚い壁を作り、ただただ役人を、政治を、国を憎んで生きてきたのだ。
しかし、林冲はその鈍感さで、壁をたやすく踏み越えてくる。
自分が、招き入れたのかもしれない。そんな、苦い後悔のような思いもある。
「誰もいない」
林冲は、公孫勝を抑え込んだ力を緩めず、公孫勝の顔を正面に向けた。
自分の顔を捕えた林冲の手を引き剥がそうと、手首を掴んだ。浅黒い林冲の肌と比べ、自分の青白い肌が余計に際立った。
この女のような白い肌も嫌いだ。
白いというだけで、男性らしい筋肉がついた林冲の腕に敵わないような錯覚をしてしまう。
「嫌なら、ちゃんと抵抗しろ」
林冲が耳元で囁いた。
「お前が、本気で俺の腕を振りほどこうとしていないだけだ」
公孫勝は林冲を睨みつけた。
だが、林冲の言ったことは事実だ。林冲の手首を掴んだこの手に、渾身の力を入れているとは言えない。何より、林冲が息が触れるほど近くにいることを、本当に嫌だと思っていない。
嫌なのではなく、怖いのだ。自分の領域に、林冲が入ってくることが。奥底に沈めた自分の弱さをさらけ出すようで、怖い。そして、怖いと思っていることを、林冲に悟られたくない。
「公孫勝」
林冲が囁いた。いつもより、優しげに聞こえた。
「俺は・・・」
林冲は、そこで言葉を切った。思わず覗き込んだ林冲の目に、かすかに迷いのようなものが見える。
次の言葉は、待っても出てこなかった。
何を言いかけたのか、尋ねるかどうかを逡巡している間に唇が降りてきて、公孫勝の唇を塞いだ。柔らかく温かい感触が、公孫勝の唇を押し包んでは離れ、啄む。
あの牧の夜では乱暴で力ずくだった林冲の接吻が、今日はどこか甘く、優しい。
そして、公孫勝の姿を認めると、面白くなさそうに顔を背けた。
公孫勝は、しばしば作戦会議に出る。それは致死軍の性格上、呉用と綿密な話し合いが必要であることが一番の理由だが、面倒なことに、聚義庁と将校たちとの間の立場に立たされることも多い。現場の戦術と、未来を見据えた広い意味での戦略の、両方を理解できる人間が梁山泊には少ないため、軋轢が起きるのだ。公孫勝自身はそんな面倒に巻き込まれるのはごめんだが、前線の将校たちの愚痴と呉用の苦悩、どちらも耳に入ってくる。実際には、公孫勝に愚痴ろうものなら何倍もの皮肉が返ってくるだけだが。
林冲は、戦略を理解しようとしない将校の最たるものだ。本人も分かっていて、騎馬隊が加わる作戦の会議にしか出席しない。それも、騎馬隊の任務だけを聞いたら、途中で帰ることも多い。
今日は騎馬隊の再編成と、牧についての話し合いだった。以前から段景住らが、かかりきりになっていた件だ。だから林冲も最後まで残っているのだろう。
林冲は、命にかかわる大怪我を負ったが、ほとんど癒えていた。調練も行っているらしい。ただ、実戦の復帰はしていない。
公孫勝にとっての林冲は、自分の心の何かに引っかかる男だった。説明はつかないが、林冲のどこかに苛立ちのようなものを感じるのだ。暗い過去を引きずり、それを隠そうともしないところが、気に入らないのかもしれない。もしくは、たやすく死に場所を求めているところか。いずれにしても、自分とは正反対だ。
林冲は間違いなく梁山泊軍最強の男だ。そのことは認めている。個人的に虫が好かないことと、実力を認めることは関係ない。戦では、これ以上頼れる男もいないだろう。実際、まだ梁山泊軍の規模が小さかった頃は、林冲の騎馬隊と致死軍が何度も連携して作戦を遂行した。戦場での相性は、悪くない。
ただその度に、林冲は公孫勝を罵倒し、公孫勝は林冲を皮肉で煽りたてる。
気に入らないなら、近寄らなければいいのに、お互いわざわざ近づいてまで言い合う。今でもそうだ。史進はうんざりした顔をするし、晁蓋には「仲がいいのか悪いのか、お前たちのことは理解できんな」と呆れたように言われたことがあった。
その晁蓋の隣で、宋江は微笑んでいた。その時は何も言わなかったが、後から人づてに、宋江が「林冲には公孫勝のような相手がいたほうがいい」と話していたと聞いた。
宋江の、言葉の真意は分からない。公孫勝にしても、林冲のためになると思っているわけではない。ただ、なんとなく宋江の言っていることは分かる気がする。林冲の危うさを、自分の言葉が抑え込んでいると思ったことも、何度かあったからだ。
呉用が散会を告げ、残る全員が会議室を出て行った。宋江、晁蓋は聚義庁内の自室へ、呉用は文治省へ戻って行った。聚義庁の長い廊下を、林冲と公孫勝の二人で並んで歩くことになった。
しばらく無言であったが、林冲が重そうに口を開いた。
「最近、梁山泊にはいないようだな」
すぐ横の林冲の顔を見た。林冲のほうが上背があるため、少し見上げる格好になる。林冲の顔は、やはり不機嫌そうだった。公孫勝のほうは見ず、視線は前を向いている。
「任務に出ている」
公孫勝も愛想なく答えた。
林冲と言葉を交わすのは、久しぶりだった。
あの時以来だ。
昨年、林冲が軍規違反の咎で馬糞掃除を命じられていた時、夜の牧で、林冲は公孫勝を抱いた。もとは林冲が誘ったのだが、公孫勝も自ら深夜の牧へ、彼のもとへ忍んで行ったのだ。なぜそんなことになったのか、公孫勝自身にも分からない。ただ、互いに互いの何かを求めた。
あの時は、二人ともどうかしていた。
そう思って、忘れたほうがいい。
それ以降、牧に林冲をからかいに行くのはやめた。あの後に下った任務で梁山泊を離れがちだったのも、林冲から遠ざかるいい口実になった。
あれから幾月か経った。少しずつ、あの夜のことが遠くなっていった。そう思っていたが、林冲に近づくと、思い出してしまう。
林冲の、熱い息づかいを。
肌のぬくもりを。
「牧に、来なくなった」
あの記憶が脳裏に浮かんできた時、林冲の低い声が聞こえてきて、現実に引き戻された。自分の心の動揺を絶対に悟られないように、
「馬鹿をからかっている暇がなくなった。戦に出ないでのんびり過ごしているお前と違って、致死軍は忙しい」
わざと林冲を怒らせるようなことを選び、冷たく言い捨てた。
その瞬間、腕を取られ、強い力で引きこまれた。廊下の柱の陰の壁に、背中を強く打ちつけられる。一瞬、息ができなくなるかと思った。視界がすうっと暗くなった。林冲の顔が眼の前にあり、光を遮っていた。林冲の眼の光が強くなる。顎を掴まれた。林冲の唇が、すぐ近くにある。
「よせ」
顔を背け、林冲の力から抗った。「人が来る」
できるだけ、冷静な声で言った。
何もなかったように、やり過ごしたかった。個人的な感情に振り回されたくない。誰も、自分の懐に入れたくない。今までそうしてきた。周囲から人嫌いと思われても構わなかった。深く傷を負った心に、触れてほしくないからだ。
誰にも言えない、過酷と言うだけでは足りない過去を背負ってしまった。自分が、人であると思うことが難しいほどに。それを覆い隠すために、心に分厚い壁を作り、ただただ役人を、政治を、国を憎んで生きてきたのだ。
しかし、林冲はその鈍感さで、壁をたやすく踏み越えてくる。
自分が、招き入れたのかもしれない。そんな、苦い後悔のような思いもある。
「誰もいない」
林冲は、公孫勝を抑え込んだ力を緩めず、公孫勝の顔を正面に向けた。
自分の顔を捕えた林冲の手を引き剥がそうと、手首を掴んだ。浅黒い林冲の肌と比べ、自分の青白い肌が余計に際立った。
この女のような白い肌も嫌いだ。
白いというだけで、男性らしい筋肉がついた林冲の腕に敵わないような錯覚をしてしまう。
「嫌なら、ちゃんと抵抗しろ」
林冲が耳元で囁いた。
「お前が、本気で俺の腕を振りほどこうとしていないだけだ」
公孫勝は林冲を睨みつけた。
だが、林冲の言ったことは事実だ。林冲の手首を掴んだこの手に、渾身の力を入れているとは言えない。何より、林冲が息が触れるほど近くにいることを、本当に嫌だと思っていない。
嫌なのではなく、怖いのだ。自分の領域に、林冲が入ってくることが。奥底に沈めた自分の弱さをさらけ出すようで、怖い。そして、怖いと思っていることを、林冲に悟られたくない。
「公孫勝」
林冲が囁いた。いつもより、優しげに聞こえた。
「俺は・・・」
林冲は、そこで言葉を切った。思わず覗き込んだ林冲の目に、かすかに迷いのようなものが見える。
次の言葉は、待っても出てこなかった。
何を言いかけたのか、尋ねるかどうかを逡巡している間に唇が降りてきて、公孫勝の唇を塞いだ。柔らかく温かい感触が、公孫勝の唇を押し包んでは離れ、啄む。
あの牧の夜では乱暴で力ずくだった林冲の接吻が、今日はどこか甘く、優しい。
作品名:I want you to want me 作家名:いせ