The future that is happiness
「っ………!」
振り上げられた手が、私の頬へと振り下ろされる瞬間、私は目を閉じた。
「………くっ」
苦々しい呟きが聞こえ、なんの衝撃もなかったことに、私は恐る恐る目を開けた。
私を睨みつけているであろう強い目は、そこにはなかった。
悔しさと、悲しさに歪んだ顔。
行き場を失った手を、もう片方の手で諌めるように握っている。
「……………」
「別れよう…?」
「なっ………」
「これ以上一緒にいても…お互い傷つくだけだよ」
「………!」
それだけ言うのが精一杯だった。
必死で震える声をしぼりだして。
溢れそうになる涙を飲み込んで。
「お前っ………」
私は俯いたまま、もう彼の顔を見ようとはしなかった。
続く沈黙。でも彼の顔は見ていないから、何を考えているのか、何をしているのかもわからなかった。
やがて、静かに。
「………そうか。終わり…なんだな」
てっきり、また罵声を浴びせられるのかと思っていた。
いつも、ケンカになると一方的に怒鳴る彼がいやだった。
手こそ出さなかったけど、私を睨みつける彼が怖かった。
だけどその後、彼はいつもそんな自分に後悔して、責めているようだった。
こんな風に言うつもりはなかったのだと。
けれど、違った。
彼は、土浦くんは、疲れ切ったように発した。
「今まで悪かった。………さよなら」
反射的に顔を上げる。
でも、もう、既に――――
彼は、私に背を向け、私から去っていくところだった―――
いつからか、共に過ごす時間を重ねるたび、私たちはケンカばかりするようになった。
きっと、付き合い始めた頃より、一緒にいる時間が少なくなったからだと思う。
でも、ケンカの原因はいつも同じ。
「どうしてもっと一緒にいる時間を作ってくれないの?」
「どうして約束を破ってばっかりなの?」
「やっぱり、あの人と何か関係があるんじゃないの?」
………私だった。
最初は苦笑いでやり過ごしていた土浦くんだったけど、だんだん堪えられなくなったみたいで。
…ストレートに、怒りをあらわにするようになった。
一緒にいる時間が少ないからこそ、一緒にいられる時は穏やかに楽しく過ごしたい、そう思っているのに。
私の口から出てくるのは、彼をねちねちと責めるような言葉ばかりだった。
好きなのに。
好きなのに。
好きだから、こそ。
彼と一緒にいられない時間がたまらなく不安で、悪い方にばかり考えて。
それなのに、彼が怒ると途端に萎縮して。それが、彼の怒りを更に煽って。
………悪循環だった。
頭では、私が悪いのだとわかっているのに。どうして?
こんなふうになりたくない、そう思っているのに、気ばかり焦って。
そして…今日。
とうとう、私たちの道が分かたれてしまった。
別れよう、なんて言うつもりなかった。
言ったとしても、怒りながらそれは違うと諭してくれると思ってた。
土浦くんは指揮者、私はヴァイオリニスト。
いつか同じ舞台で二人で活躍できることを夢見て………違う、目標としていた、大学2年の夏だった。
未来は、もうすぐそこまで見えていた。
「夕食は?」
「外で済ます」
「そう」
朝の会話は、これだけ。
もはや、会話とも呼べないだろう。
大学を卒業し、海外留学を経て、私もそこそこ名の売れたヴァイオリニストとなった。
それが、そう…既に10年も前のことだろうか。
海を渡ってから、私は一度も帰国していない。何かを思い出すのを、避けるように。
こちらにきて知り合った、音楽関係の仕事に就く夫とは、もう何年も前から他人同然。
女の影がちらついたところで、もう私も何も思わない。
子供もいないので、お互い気ままなものだ。
寂しいとも思わなくなった。そんな感情には、慣れてしまったし。
“私は仕事が好きだから”
とりあえずこの生活を続けていくことに何の疑問も持っていなかった。
「おはようございます」
そして―――
次期のオーケストラ公演の打ち合わせに来たその日、私は思わぬ人物と再会してしまった。
「今回のコンダクターは、日本人なんですよ」
「へぇ…珍しいわね。最近、日本人で魅力的なコンダクターは噂に聞かなかったけど」
「それがね、彼もまだそこまで知名度はないんですが…。今年ブレイクしそうだと、ひそかに人気が出てきている人なんです」
「そうなの。で、」
「ああ、彼です。ちょうどよかった、Mr.土浦!」
「―――えっ」
カフェテリアの窓際の席に座っていた男性を見て、私は絶句した。
「土浦………くん………?」
「よう、日野。久しぶりだな」
スタッフは、私と彼が知人であることに驚いていたようだった。
私はそんな話、耳に入っちゃいない。
封印していた扉が、無理矢理こじ開けられていくような感覚に、しばし我を失っていた。
「どうかしましたか?」
それから、スタッフの言葉で我に返る。
「い…いいえ。…土浦くん、久しぶり。知ってたの?私がコンミスだってこと」
「ああ、事前に聞いてた。日野は…」
「日野?」
スタッフが訝しげに言った。それから…
「ああ、そうか。すみません、スタッフの間では今の姓で呼ばせていただいているもので、つい違和感を感じてしまって」
「ああ…そうなのか」
やめて。
土浦くんの前でその話をしないで。
なぜだか私は、そう思ってしまった。
土浦くんは事情を悟ったのか、私に言い直した。
「普段は旧姓で仕事してるだろ。さすがに日本まではそういう情報、入ってこなかったんだ。で、今の名字は…」
「ううん、いいの。日野、でいいよ」
「そうか?」
なんとなく気まずい空気。
それから、スタッフは次の打ち合わせがあるからと席を外し、私たち二人だけが残された。
カフェテリアの窓際で、私たちは話した。
「いや、でも…。なんか年とったよな、お互い」
「そういう話題は女性の前で出さない。…もう、相変わらずデリカシーないんだね、土浦くんは」
私は笑った。
「………っ、なんだよ。言うようになったな、お前」
少し驚いて、ふて腐れる。
まだシワや白髪こそないものの、思い出の中の土浦くんは、今目の前で立派な大人の男性に成長していて。
私も同じように彼の目に映っていると思うと、切ないような、恥ずかしいような気持ちになる。
「でもさ、お前すごいよな。お前は俺のことなんて知らなかったと思うが、お前の活躍はずっと知ってたぜ?」
「そうなの?」
「ああ。CDだって全部持ってるし、日本公演があったなら絶対に観に行ってた」
「………ありがとう。でも、土浦くんだって海外にきたら、もっと活躍してたはずでしょ?どうして…」
「…ああ、ちょっと…な」
言いよどむ彼に、あまり聞いてはいけないことだったのだと悟る。
「あっ、ご、ごめんね。なんか…」
「いや、いいんだ。ちょっと遅くなっちまったけど、俺もやっと指揮者として表舞台に立てるようになってきたからさ。これでいて嬉しいんだぜ、お前と共演できるの」
振り上げられた手が、私の頬へと振り下ろされる瞬間、私は目を閉じた。
「………くっ」
苦々しい呟きが聞こえ、なんの衝撃もなかったことに、私は恐る恐る目を開けた。
私を睨みつけているであろう強い目は、そこにはなかった。
悔しさと、悲しさに歪んだ顔。
行き場を失った手を、もう片方の手で諌めるように握っている。
「……………」
「別れよう…?」
「なっ………」
「これ以上一緒にいても…お互い傷つくだけだよ」
「………!」
それだけ言うのが精一杯だった。
必死で震える声をしぼりだして。
溢れそうになる涙を飲み込んで。
「お前っ………」
私は俯いたまま、もう彼の顔を見ようとはしなかった。
続く沈黙。でも彼の顔は見ていないから、何を考えているのか、何をしているのかもわからなかった。
やがて、静かに。
「………そうか。終わり…なんだな」
てっきり、また罵声を浴びせられるのかと思っていた。
いつも、ケンカになると一方的に怒鳴る彼がいやだった。
手こそ出さなかったけど、私を睨みつける彼が怖かった。
だけどその後、彼はいつもそんな自分に後悔して、責めているようだった。
こんな風に言うつもりはなかったのだと。
けれど、違った。
彼は、土浦くんは、疲れ切ったように発した。
「今まで悪かった。………さよなら」
反射的に顔を上げる。
でも、もう、既に――――
彼は、私に背を向け、私から去っていくところだった―――
いつからか、共に過ごす時間を重ねるたび、私たちはケンカばかりするようになった。
きっと、付き合い始めた頃より、一緒にいる時間が少なくなったからだと思う。
でも、ケンカの原因はいつも同じ。
「どうしてもっと一緒にいる時間を作ってくれないの?」
「どうして約束を破ってばっかりなの?」
「やっぱり、あの人と何か関係があるんじゃないの?」
………私だった。
最初は苦笑いでやり過ごしていた土浦くんだったけど、だんだん堪えられなくなったみたいで。
…ストレートに、怒りをあらわにするようになった。
一緒にいる時間が少ないからこそ、一緒にいられる時は穏やかに楽しく過ごしたい、そう思っているのに。
私の口から出てくるのは、彼をねちねちと責めるような言葉ばかりだった。
好きなのに。
好きなのに。
好きだから、こそ。
彼と一緒にいられない時間がたまらなく不安で、悪い方にばかり考えて。
それなのに、彼が怒ると途端に萎縮して。それが、彼の怒りを更に煽って。
………悪循環だった。
頭では、私が悪いのだとわかっているのに。どうして?
こんなふうになりたくない、そう思っているのに、気ばかり焦って。
そして…今日。
とうとう、私たちの道が分かたれてしまった。
別れよう、なんて言うつもりなかった。
言ったとしても、怒りながらそれは違うと諭してくれると思ってた。
土浦くんは指揮者、私はヴァイオリニスト。
いつか同じ舞台で二人で活躍できることを夢見て………違う、目標としていた、大学2年の夏だった。
未来は、もうすぐそこまで見えていた。
「夕食は?」
「外で済ます」
「そう」
朝の会話は、これだけ。
もはや、会話とも呼べないだろう。
大学を卒業し、海外留学を経て、私もそこそこ名の売れたヴァイオリニストとなった。
それが、そう…既に10年も前のことだろうか。
海を渡ってから、私は一度も帰国していない。何かを思い出すのを、避けるように。
こちらにきて知り合った、音楽関係の仕事に就く夫とは、もう何年も前から他人同然。
女の影がちらついたところで、もう私も何も思わない。
子供もいないので、お互い気ままなものだ。
寂しいとも思わなくなった。そんな感情には、慣れてしまったし。
“私は仕事が好きだから”
とりあえずこの生活を続けていくことに何の疑問も持っていなかった。
「おはようございます」
そして―――
次期のオーケストラ公演の打ち合わせに来たその日、私は思わぬ人物と再会してしまった。
「今回のコンダクターは、日本人なんですよ」
「へぇ…珍しいわね。最近、日本人で魅力的なコンダクターは噂に聞かなかったけど」
「それがね、彼もまだそこまで知名度はないんですが…。今年ブレイクしそうだと、ひそかに人気が出てきている人なんです」
「そうなの。で、」
「ああ、彼です。ちょうどよかった、Mr.土浦!」
「―――えっ」
カフェテリアの窓際の席に座っていた男性を見て、私は絶句した。
「土浦………くん………?」
「よう、日野。久しぶりだな」
スタッフは、私と彼が知人であることに驚いていたようだった。
私はそんな話、耳に入っちゃいない。
封印していた扉が、無理矢理こじ開けられていくような感覚に、しばし我を失っていた。
「どうかしましたか?」
それから、スタッフの言葉で我に返る。
「い…いいえ。…土浦くん、久しぶり。知ってたの?私がコンミスだってこと」
「ああ、事前に聞いてた。日野は…」
「日野?」
スタッフが訝しげに言った。それから…
「ああ、そうか。すみません、スタッフの間では今の姓で呼ばせていただいているもので、つい違和感を感じてしまって」
「ああ…そうなのか」
やめて。
土浦くんの前でその話をしないで。
なぜだか私は、そう思ってしまった。
土浦くんは事情を悟ったのか、私に言い直した。
「普段は旧姓で仕事してるだろ。さすがに日本まではそういう情報、入ってこなかったんだ。で、今の名字は…」
「ううん、いいの。日野、でいいよ」
「そうか?」
なんとなく気まずい空気。
それから、スタッフは次の打ち合わせがあるからと席を外し、私たち二人だけが残された。
カフェテリアの窓際で、私たちは話した。
「いや、でも…。なんか年とったよな、お互い」
「そういう話題は女性の前で出さない。…もう、相変わらずデリカシーないんだね、土浦くんは」
私は笑った。
「………っ、なんだよ。言うようになったな、お前」
少し驚いて、ふて腐れる。
まだシワや白髪こそないものの、思い出の中の土浦くんは、今目の前で立派な大人の男性に成長していて。
私も同じように彼の目に映っていると思うと、切ないような、恥ずかしいような気持ちになる。
「でもさ、お前すごいよな。お前は俺のことなんて知らなかったと思うが、お前の活躍はずっと知ってたぜ?」
「そうなの?」
「ああ。CDだって全部持ってるし、日本公演があったなら絶対に観に行ってた」
「………ありがとう。でも、土浦くんだって海外にきたら、もっと活躍してたはずでしょ?どうして…」
「…ああ、ちょっと…な」
言いよどむ彼に、あまり聞いてはいけないことだったのだと悟る。
「あっ、ご、ごめんね。なんか…」
「いや、いいんだ。ちょっと遅くなっちまったけど、俺もやっと指揮者として表舞台に立てるようになってきたからさ。これでいて嬉しいんだぜ、お前と共演できるの」
作品名:The future that is happiness 作家名:ミコト