The future that is happiness
その何気ない言葉に、微笑みに、胸の奥がきりきりと痛んだ。
この感情は、何?
「だってさ、ほら、俺たち…。大学の頃、指揮者とヴァイオリニストとして同じ舞台に立つのが夢とか言ってただろ?」
あの、突然の別れ方。
今でも色褪せることなく、私の心の奥底にあった思い出。
それを、こんな風に笑って話せるようなところまで、私たちはきてしまった。
これほどに、時間の流れを感じた時は…ない。
「…どうかしたのか?」
「あっ!う、ううん!」
「ははっ、さぞかし高名で鼻持ちならないヴァイオリニスト様になられたと思ってたのに、お前全然変わってないんだな。そうやって、いきなり一人で考え込むクセとか」
「えっ………それ、クセなの?!」
「クセだろ。…まぁ、あの頃はそうやって一人で考え込まれることに、何考えてんだってイライラすることもあったが…。今思うと、お前のそういうところも好きだったのかもな」
私をからかって笑う土浦くんだって、全然変わってなくて。
「…ぷっ。ちょっと、私まで面白くなってきちゃったじゃない!」
トラウマと言っていい程の恋愛をした相手と、こんなにもすんなり打ち解けて話すことができるなんて。
自分でも意外だった。
こんなに心から楽しいと思えた時間はいつぶりだろう?というくらいに私たちは盛り上がり、打ち合わせもそこそこのまま、連絡先だけ交換しあって別れた。
「〜〜〜♪」
帰宅後。
料理をしながら鼻歌を歌っていると、今日は開くはずかないと思っていた玄関のドアが開く音がした。
「お帰りなさい。あれ、今日は外食じゃなかったの?」
「…………」
普段は「おかえりなさい」「ただいま」の言葉も交わさない私たちだったけど、今日は自然とそんな言葉が出た。
振り向くと、夫は驚いたような顔をして、それからすぐに笑った。
「…急なキャンセルでね。今日はえらく上機嫌じゃないか」
「わかる〜?」
私はすぐにキッチンに向き直って、答えた。
「男でもできたか?」
嘲るようなその声に、私は動きを止めた。
「………なに、それ」
とても夫の発言とは思えないその言葉に、耳を疑う。
「今更どうこう言うことでもないけどな」
「…あなたと一緒にしないでくれる?」
「一緒じゃないのか?」
「一緒じゃないわよ!」
がしゃん!
抑え切れなくなった怒りが、爆発する。
床にぶちまけられた料理にぴくりともせず、まるで興味なさそうに眺めている夫。
「………ねぇ」
「なんだ?」
「なんで私たち、一緒にいるの?」
全身の力が抜けていくようだった。
「さあ?」
「……………」
私の怒りを煽るかのように肩を竦める。
「―――別れるか?」
今更だけどな、というように抑揚のない声。
私はぐちゃぐちゃになった料理を見つめながら答えた。
「あなたの稼ぎで、積もり積もった借金を返せるなら、ね。私の作った借金じゃないし、お情けをかけてなければとっくに別れてるわよ、あんたなんかとは」
「……………」
冷めた瞳で、互いを見つめる。
「本当に………」
「本当に、なに?」
「お前は可愛くない女だ」
「……………!」
言い負かされているのも、立場がないのも夫の方なはずなのに。
私は、たまらなく辱められたような感覚に陥った。
「そういう、可愛いげのないところが欝陶しいんだ」
「…そう。それなら可愛いげのある女のところへでも行ったら…?」
「はっ、言われなくてもそうするよ」
届けは出しておくから判だけ押しておけ。
そう言って、夫は再び玄関を出ていった。
喪失感は、重たい鎖のように心に絡み付いた。
悔しい。悲しい。たまらなく寂しい。
でも、泣けない。
私はいつから泣けなくなった?いつから自分の心をさらけ出せなくなった?
私の手は、無意識に携帯電話に伸びていた。
しばらくはこっちに滞在するから、ヒマな時にでも飲もうぜ。
そう言ったものの、彼もこんなに早く呼び出されるとは思っていなかったようだ。
最初は驚いていたものの、土浦くんは快く会うことを承諾してくれた。
「なんだ、今夜ヒマだったのならさっき言ってくれればよかった―――――?!」
ラウンジで彼と会った瞬間、私は隻を切ったように泣き出していた。
「う…………ひっく………」
「っ、どうしたんだ…?」
俯いて鳴咽を漏らす私を、心配そうに覗き込む土浦くん。
10分ほど、泣き続けただろうか。
私が落ち着きを取り戻すまで、土浦くんは下手な慰めや制止の言葉も言わず、黙って背中を撫でていてくれた。
「話せるか?」
「………」
ゆっくり頷く。
「…話したくないことならいい。今日は一人になるのが平気になるまでついててやるからさ」
「……………」
本当は、話したくない。
あんな話、土浦くんにしたくない。
それでも、私は話さずにはいられなかった。
「………そうか」
「私ね。可愛いげがないんだって。だから、あの人も」
「お前は強くなったんだよ」
「………え?」
意外な言葉に、ずっと俯いていた私は土浦くんの顔を見上げた。
「可愛いげがないんじゃなくて、強くなったんだよ。…少なくとも、俺はそう思う。俺は昔のお前しか知らないから、こう思うのかもしれないが…」
飲めよ、と私にグラスを渡して、彼は続けた。
「お前、昔はわりとめそめそしてた方だったろ。だけど、今じゃちょっとやそっとじゃ泣けないくらい強くなった。そうじゃないのか?」
「……………」
なんて人だろう。
もやもやとした霧が、一瞬で晴れたような感覚。
土浦くんの言葉が事実にしろ、事実じゃないにしろ、今私がとても救われたことは事実だ。
「ありがとう………」
また涙が出そうになった。
「いや。なんていうか………悪い」
「………え?」
土浦くんはバツが悪そうな顔をして、頭をかいた。
「何が?」
「いや…その。なんていうかさ、お前が泣いてるところ見たら、いろいろ思い出しちまって」
「………?」
「お前と付き合ってた頃、俺…お前のこと、相当泣かせただろ。お前が泣いてるところ見てたら、たまらなく悔しくなって、ムカついて…。お前の旦那、許せねぇって思った。けど、あの頃の俺は、同じことしてたんだな、って…」
「土浦くん…」
「今更だけどさ。ひでえ彼氏だった。………ごめんな」
そう言って、私の頭をぽんぽんと叩いた。
「ぷっ。あははっ………あはははは!」
「なっ…なんだよ。笑うトコか?」
「だって、土浦くん変わってないんだもん!」
「そ…そうか?」
「うん」
私はありありと思い出せる。そう、ちょうど今みたいに。
「土浦くん…ケンカになると、かーっと頭に血が昇って怒鳴り散らすくせに、少し落ち着くと今度はすごい落ち込むの。それでいつも、わりぃって頭をぽんぽん叩いてきて」
「っ………」
図星だったのか、土浦くんは赤くなって私から顔をそらした。
ほら、そんなところも変わってない。
作品名:The future that is happiness 作家名:ミコト