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 湯を沸かして、お茶を淹れる。
 お茶請けはいただきものの、甘く煮た栗を餡で包んだ和菓子だ。
 沸騰する少し前で薬缶を火から下ろしてあらかじめ茶葉を入れていた急須に湯を注ぐ。持っていく頃にはちょうど蒸らし終わって、ほどよく茶葉も開いているだろう。
 盆に急須と茶菓子、それから湯呑みをふたつ乗せて持ち上げる。
 ひんやりとした廊下が足袋を履いた足元を容赦なく冷やすから足は否応なく速くなる。居間へと続く襖の前で膝をつき、一度盆を下ろして襖を開けた。
「お待たせしました、アーサーさん」
 客人へと声をかける。が、
「きゅわん」
 ぱたぱたと尻尾を振って静かに鳴いて駆け寄ってきて愛犬はやはり空気を読む犬だと思う。客人は足を入れていた炬燵にいつしか身体全部を押し込んでごろんと仰向けに眠っていたのだ。
「おやおや……」
 敷いていた座布団を枕にしてこたつむりになっている姿。私もたまに自堕落に同じ状態になることが多いが、こうして遠く海の向こうからいらした方まで同じ状態になるとは炬燵は本当に恐ろしい。
 だからこそ、熟睡しかけている客人の肩を軽く揺すった。
「アーサーさん」
 無理に起こすつもりはなないけれど、炬燵で眠るのはあまりよくない。しかし客人はよほど疲れているのか本格的に眠りに入ろうとしていた。
 これは、先に布団を敷いたほうが良いだろう。
 そう判断して、こたつからはみ出してしまったむき出しの肩に、自分の座に置いていた綿入れを掛けた。ここのところ寒暖の差が激しかったから常に手に届く位置に置いていたものだ。
 一応、布団を用意している間に起きたときのために一人分のお茶を湯呑みに注いでこたつの上に置いた。茶菓子は明日にでも出せばいいし、起きなければお茶も私がいただけばいいことだ。


 客人――アーサーさんが我が家にやってきたのはつい四半刻前のことだった。毎年この日にいらしてくれる友人のために仕事が終わった後の予定を空けてもてなす準備をしているのだが、今年は例年よりだいぶ違っていた。
『本田、たんじょうびおめでとう』
 かろうじて身なりはととのえた、といった感。目の下には隈が浮かび、普段輝かんばかりの金髪はなにやらくすんでいるように見える。顔色もあまり良くないようだ。
『いらっしゃいませ、アーサーさん。……大丈夫ですか?』
『ああ……飛行機にのるギリギリまで仕事をしてきたんだが、フライト中もあんまり寝られなくてな』
 彼の国からこちらまでは半日以上の道のりだ。ずっと寝ていないのではさぞ辛いだろう。
『それでは、少し休まれた方が……』
『いや、大丈夫だ。それに、訪ねたとたん寝るって何をしに来たのかわからないだろ』
 私の言葉を遮っておもむろに花束を差し出してくるアーサーさんからそれを受け取る。
 仕事の合間を縫って用意してくれたものなのだろうか。本当の時期のものではないはずなのに鮮やかな紅が美しい薔薇。毎年贈ってくださるものだった。


 遠慮のない間柄、すぐに居間へと通してお茶の用意をして戻ってみるとその短い間ですっかり炬燵の魔力にとらわれてしまったようだ。声をかけても起き上がる気配はない。
 湯呑み一つを炬燵に残して、盆を持って襖をあける。片付けたら客間に暖房を入れて布団を敷かなければ。そう手順を頭の中で組み立てていた私の耳に、それは唐突に聞こえてきた。

「き、く」

 聞き慣れた声での、聞き慣れない言葉。
 とたんに心臓が急速に動き出し身体中の血流を促していく。
 慌てて襖を閉めて、逃げるように台所に駆け込む。盆に残っていた湯呑みにぬるくなったお茶を淹れて、一気に飲み干してもまだ、不可思議な現象はおさまりそうにない。



 アーサーさんは、私を名前で呼ぶことが滅多にない。国としての友人づきあいをしていたころから百余年、両手で足りるほどしか聞いたことがない気がする。
 初めに名前を呼ぶきっかけになったのは、『相棒』という声高に吹聴されるのが畏れ多くてそれをやめて欲しいとお願いしたときのことだったと思う。
『日本は、俺の相棒なのが嫌なのか!?』
 と涙目で詰め寄られてしまっては「そう呼ばれるのはちょっと……」などと返せるはずもなく、苦し紛れに、
『では、人に紛れて暮らす中で使う名で呼んでいただけませんか』
 と提案したのだ。
『私が国としての自分を形づくるうえで、唯一自分に与えることが出来たものが『人としての名』です。それで呼んでいただきたいのです』
 当時は、国どうしが人としての名で呼び合うというのはとても珍しいことだったのだろう。私の名は中国さんしか知らなかったし、スペインさんやオランダさん、もちろんアメリカさんにも教えることはなかった。
 国は人によって作られ、人によって消えてしまうもの。国の名前だって人によって変えられてしまう。そんな私たちにとって、自分で名付けた人名というものは存在する限り変わらない、ある意味貴重なものだった。
 私の提案にイギリスさんはしばし考えて、それから顔をぱぁっと輝かせた。
『そうだな! ふたりだけのときに呼び合うようにすれば、ますます友達どうし秘密を共有してるって感じになるんじゃないか!』
 想像以上の盛り上がり振りに、逆に私が返答に困ってしまったのを覚えている。
 本当に露骨な人だなと思った。さきほどまでの涙目はどこへやら、泣いた烏がもう笑う。このひとは烏ではないけれど。
 ――烏なのはむしろ、このひとの言葉に恐れ多さを感じ、応えてさしあげられない己自身だ。

 ところが、いざ名前を教えてみると、
『ほんだ、き……く』
『はい、菊、と呼んで下さい』
 そう告げたとたんになぜか首をぶんぶんと振って、
『やっぱりファミリーネームで呼ばせてくれ! ほんだ!!』
 彼の苗字に舌を噛みそうになった私には是非名前で呼ぶよう告げて、そのまま走り去っていってしまったのだった。


 あれからいろいろなことがあったけれど、アーサーさんが私の名前を呼ぶと、不思議と私のなかで、何か別のものが生まれたような気分になる。
 いつしか、
「日本は俺と友達なんだから、俺だって菊って呼ぶんだぞ!」
「ヴェ〜! 俺も菊って呼びたいなぁ!」
「よ〜し! 仲良くなった国はみんな人名で呼び合うことにする! 反対意見は認めないぞ!」
 なんて会話がなされてプライベートのときは人名で呼び合うことがあちこちで行われるようになった。そのなれ合いを好まない国もあるし、私も「にーにって呼ぶあるよ!」とか「菊の起源はオレなんだぜ!」とか無言で反論したいという矛盾を抱くことも言われているが、それには無視を決め込んでいる。
 そうやって、人名で呼び合うことが秘密でもなんでもなくなり、私とアーサーさんの関係も国としてより個人的なもののほうが強くなった今でも、彼は私を名前で呼ばない。だからこそ、まれに呼ばれる言葉には強い意味が込められているような気がしてならないのだ。
 なぜなら、あのひとに名前を呼ばれるということをとても嬉しいと感じている。
作品名:名 前 作家名:なずな