あなたにおやすみを云う日
単純なことだ。
俺は人間のあらゆる生態が見たい。
どんな表情も、仕草も、言葉も、余すことなく観察したいし、その為なら幾らだって時間と労力を費やそう。
―――ただ、興味のある奴に限るのだけど。
「ねぇ、紅茶お代わり」
その点をクリアしている人間が、俺のすぐ側にいる。
彼女は俺の秘書だ。美人で優秀で、大層狂った、ね。
俺は組んだ膝の上に広げたスクラップブックを眺めたまま、マグカップを掲げた。
「ねぇ………、いないの?」
掲げたカップを左右に振る。僅かに張った声は、広い室内によく響いたが、返事はない。
ちょっと、苛ついた。俺が呼んだら、応えろよ。
「いるなら頼むよ。………波江さん」
腕が疲れた頃、カップを取り上げる指があった。視線を動かすと、彼女は熱の籠もらない瞳で俺を一瞥する。
キッチンへ向かう背を見つめつつ、俺は収まらない苛立ちをぶつけることにした。
「君さ…俺のこと、嫌いなの?」
「何度言えば解るの」
そこに微量の冷たさを感じた俺の唇が、思わず笑みを零す。ゼロからマイナスへの、変化。
もう少し、と欲が出る。もう少し、後少し。彼女を、歪ませたい。
「人間の方は貴方のことが大嫌いよ」
「それで?」
「……………」
「それで、君は?」
差し出されたマグカップからは、温かな湯気が立ち上る。渇きを覚えた喉が鳴る。
けれど、俺は受け取らない。ただ、見下ろす彼女をニコリと見上げてやるのみだ。
「君、は、俺が嫌いなのかな」
カップを手に、彼女は立ち尽くす。俺を冷たく見据えたまま、微動だにしない。
こういうところがカワイイ。さっさとカップをデスクに置いて、俺から離れて仕舞えば良いのだから。
「…要らないの」
「え?」
「コレ」
「あー」
「熱いのよ」
「うん、ありがとう」
カップを貰い受けつつ、彼女の手に手を重ねた。たっぷり、十秒程の時間を掛けて。
空の手を汚らわしいとでもいうようにまじまじと見遣った後、彼女は「帰るわ」と捨て置いた。
彼女を雇って、一年の月日が経とうとしていた。
♂♀
ある日の深夜、そろそろ眠りに就こうとしていた頃合いを見計らったように、携帯電話が着信を告げた。
暗がりでパソコンのディスプレイを覗き込んでいた俺は、疲労を訴える目頭を押さえつつ、特に確認せぬまま通話に応じた。
何となく、相手の見当は、ついていた。
「やあ、こんばんは」
『……………』
またか。仕方のない女だ。
こっそり溜息を吐く。きっと電話の向こうでも、同じように嘆息していることだろう。
「何、どうかしたの」
『………どうもしないわ』
「そう。それなら、切るよ」
だが、俺は終話ボタンを押さない。それは、決まり事のようなものだった。
初めてのこの通話で俺から切り上げた翌朝、彼女は俺の珈琲に塩を入れたのだ。
『………眠れないのよ』
「ふぅん。良くないね」
『良くないわ、とても』
お決まりの会話だった。この先には何もない。彼女がポツポツ話す夢だったり、想い出だったりを俺が聴き流す。満足したのか、一方的に彼女が電話を切る。それが全てだった。
勝手に付き合わせられる相手が他にいないのだろうが、それにしても、わざわざ俺を選ばなくても良くないだろうか。こちらの身にもなって欲しい。
ああ、だけど、それを指摘した翌朝は珈琲を淹れてもくれなかったのだった。
『………聴いてるの』
「聴いてるよ。誠二君が、元素周期表のテストで満点を取ったんだろう」
『そうよ。私が教えてあげたからよ』
「…良かったじゃないか」
飽きたな、この解答にも。思案しつつデータの保存を済まそうとキーボードを片手で弄っていると、画面がフリーズした。
…何だというのだ。付き合わされているのは、俺だというのに。
「………チッ」
『何?気分悪いわ』
「それ、こっちの台詞。俺だって、いい加減にして欲しいんだよ。こんな夜中に電話なんてして来て、仕方なく話を聴いてやれば、誠二君、誠二君、誠二君…!」
『…怒ってるの…?』
「っ、違う」
怒る、だと。何故、俺が怒りを持たねばならない。
彼女がこういう女なのは、解り切ったことだ。今更、それをどうこう言うつもりは、ない。
『じゃあ、………』
「………何」
『―――いいえ、止すわ』
スピーカーが、彼女の吐息を拾う。苦笑しているような、諦めたような。
ガシガシと頭を掻く。苛々していた。最近、苛々しっ放しだ。こんなの、俺じゃない。
『ねぇ、臨也………?』
「………何だよ」
『早く、寝なさいよ』
「波江こそ」
『そうね、本当、そうだわ。………』
―――沈黙。彼女が電話を切らないから、俺も止めることが出来ない。
何だか、途方もない焦燥に包まれた。このままでは、俺も彼女も、眠れない。眠りに、逃げることが叶わない。
「波江」
『……………』
「あ、………明日さ」
『………ええ』
「明日、」
明日は、何があっただろう。来客もない、外出もない、イベントもない。
明日も、俺と彼女は、この部屋で二人だ。二人きりで、空虚な時間を共有するのみだ。
この関係に飽きたのは確かだった。けれど、どうすれば良いか、解らなかった。
何を、どうしたいのかさえ、解らない。
「…明日、一時間、早く来て」
『あら、何かあったかしら』
「うん、あるんだ」
『わかったわ。それなら、早く寝なくちゃね』
「………うん。俺も、寝るから」
ブツリ、という音で通話が終了する。いつも彼女は挨拶をしないし、待たない。だから、俺も言わない。
代わりに、定期的な電子音が、右の鼓膜を叩く。俺は、暫くそれに耳を傾けていた。浮かばない言い訳を、ひたすら考えていた。
「おはよう。本当に来たんだね」
「…おはよう。だって、上司の指示ですもの」
タイムカードを切ろうとする彼女を制止するべく、俺はその手を取った。そのまま、目を丸くする彼女を半ば引っ張るようにソファに連れて行くと、肩に手を置き、座らせる。
怪訝な顔に曖昧な笑いを返し、俺はキッチンに引っ込んだ。淹れ立ての熱い珈琲を注いだマグカップを二つ、運び出す。
戸惑う彼女にカップを差し出した。勿論、彼女専用のものだ。
「要らないの」
「………え?」
「コレ」
「あ………」
「熱いんだよね」
「ええ、ありがとう」
中身を冷まそうと息を吹きかける彼女の横に、俺は腰を下ろした。軽く膝が触れる距離だ。
コクリと、彼女が珈琲を飲む。砂糖一つに、ミルクは入れていない。きっと、口に合う筈だ。そのくらいは、知っている。
敢えてブラックにした液体を啜り、俺は尋ねた。
「………君、俺のこと、好き?」
当然、答えはない。俺も、期待していない。だから、俺は揺らがない。
カタン、己のカップをテーブルに置く。彼女のカップも奪って(察したのか、彼女も随分あっさりと攫わせ)、俺のものと並べた。
そして、俯きがちな彼女の身体を、両腕で抱き寄せる。
「………臨也?」
「解らないんだ、俺」
「……………」
「だから、試しに、こうしてみることにした」
流れるような艶やかな黒髪の奥からは、甘い匂いがした。シャンプーや香水だけではない、女の薫り。
作品名:あなたにおやすみを云う日 作家名:璃琉@堕ちている途中