連理
「家康―――ッ!わかるか、この俺が!」
仇と疑う男の拠点を前にして、鬼は溜めこんでいた総てを吐き出すように声を張り上げた。
今や敵対勢力の中に在る長曾我部軍が唐突に襲来したと知り、三方ヶ原に軍を置く徳川軍は騒然となった。だが拠点よりもやや遠方で進軍を止めた長曾我部軍はそれきり進むこともなく、攻撃を仕掛ける様子も見せない。これは一体何のつもりかと訝しんだ、拠点の最前線の兵士たちの前に、やがて一人の男だけが姿を現した。
一匹の鬼が。
砂埃の舞う中を、風に羽織を靡かせて、巨大な碇槍を肩に担いで悠々と歩む。その姿からは揺らめく炎が立ち昇り、張り詰めた怒気がそれを目の当たりにした者総てを圧倒していく。ただ一人を前に硬直した徳川兵へ、鬼は視線を流して言った。
戦をすぐに始める気はねえ、鬼が来たと、家康に伝えろよ。
そして仇を求めて吠えたのだ。
軍勢を残してきたのは元親なりの覚悟の現れだった。突然に一軍が乗り込んでは強制的に戦になりかねないが、この状況ならば相手が応じる可能性が高くなるだろうと判断した結果でもある。元親が一人で訪ねたのを知ってなお出てこないのならば、それはすなわち家康には元親を避ける理由があるということだ。元親はそれを自ら確かめたかった。だからこそ口ぐちに反対する部下を黙らせて単身姿を見せたのだ。
来るか、来ねえか。
家康、俺の前に顔を出せるもんなら、出てきやがれ……!
元親は仄暗い眼を拠点の入り口へ向けて、現れるかもわからぬ男の影を探す。
はたして鬼の来訪を知った仇であるはずの男は、不信と警戒を叫ぶ部下を退けて、たった一人で何の躊躇いもなく元親の前に姿を現わした。
精悍な顔立ち、見違えるほどに伸びた背丈と、それに見合うよう鍛練されたしなやかに力強い体躯。そこにかつての面影はない。
だが男は元親を認めると、眼の前の現実が信じられないと言いたげな驚きを浮かべた後に、空気をまるごと融かすように笑った。
「元親!元親じゃないか……!」
会いたかった、こんな処で会えると思わなかった、――西軍にいると聞いていたのに!
思いがけない相手に会えた歓喜を全身で表すその姿は、目覚ましく成長しているくせに、まるで変わらぬようにも見えた。
変わらない、かつてと同じ「友」のように。
驚愕と喜びを見せた東の将に対し、少しだけ眼を眇めた鬼は口を開いた。
「家康……俺が西を抜けてここに来たのは、お前に聞きてえことがあるからだ」
家康はそうと聞くと自身の浮かべた喜びを抑え、真摯な表情を示した。それだけで周囲の空気が一変し、張り詰めた緊張に染まる。元親はそれを感じ取り、わずかに心の内でだけ相手の成長を認めた。良い面構えだ。
「……家康。サヤカをけしかけたのはお前か?」
予期せず飛びだした名前に少し驚きながらも、家康は慎重に答えを探る。この状況とその問いを突き合わせて考えれば、雑賀が家康の望み通りに独断で動いた結果として、西にいた元親が自分を訪れたのだと知れた。それが己の差し向けたものかと問われると、答えは半々だ。家康は雑賀に元親の手助けを願いはしたが、その手法については把握していない。
「……ワシは、孫市には自由に動いて貰っている」
事実をのみ言えば、元親は疑いの眼を向けた。
「せっかく組んでおきながら、あの雑賀を直に使ってねえってェのか?」
「雑賀衆は恣意のままに“使う”ものではない。お前も知っているはずだぞ」
ぴしりと言う家康に対し、元親も一旦口を噤む。
「だから、……孫市がお前に何かをしたと言うなら、まだワシはその報告を受けてはいない。だが、」
一度言葉を切った家康は、鋭さを帯びた顔をして続けた。
「雑賀が為すことはワシの力になると信じたことであるはずなんだ。そういう契約を、した。―――だからもしお前が孫市に何か」
「俺ァお前の力になるために来たわけじゃねえ」
元親はその言葉を遮って鋭く言うと同時に、肩に乗せていた碇槍を振るう。鬼の爪はわずかな距離をあけながら、家康の喉元で巨大な穂先を止めた。
ひと目見た瞬間から、元親が烈火のような怒りを強いて抑え込んでいることには気付いていた。だがその理由だけがわからない。交わす会話の内にも覚悟をしていた家康は、凶器を向けられても表情を変えずに友を見つめる。
対して鬼は、隻眼に燃え盛る焔を浮かべて、家康を睨みつけた。
「………答えろ。家康」
「ああ」
全身の膚がちりちりと焦げ付くような姿を前に、家康は緊張を秘めた顔で真剣に頷く。元親は歯軋りするほど食い縛った唇の隙間から、ようやくその言葉を絞り出して叩きつけた。
「四国を攻めたのは……お前か……!」
仇と疑う男の拠点を前にして、鬼は溜めこんでいた総てを吐き出すように声を張り上げた。
今や敵対勢力の中に在る長曾我部軍が唐突に襲来したと知り、三方ヶ原に軍を置く徳川軍は騒然となった。だが拠点よりもやや遠方で進軍を止めた長曾我部軍はそれきり進むこともなく、攻撃を仕掛ける様子も見せない。これは一体何のつもりかと訝しんだ、拠点の最前線の兵士たちの前に、やがて一人の男だけが姿を現した。
一匹の鬼が。
砂埃の舞う中を、風に羽織を靡かせて、巨大な碇槍を肩に担いで悠々と歩む。その姿からは揺らめく炎が立ち昇り、張り詰めた怒気がそれを目の当たりにした者総てを圧倒していく。ただ一人を前に硬直した徳川兵へ、鬼は視線を流して言った。
戦をすぐに始める気はねえ、鬼が来たと、家康に伝えろよ。
そして仇を求めて吠えたのだ。
軍勢を残してきたのは元親なりの覚悟の現れだった。突然に一軍が乗り込んでは強制的に戦になりかねないが、この状況ならば相手が応じる可能性が高くなるだろうと判断した結果でもある。元親が一人で訪ねたのを知ってなお出てこないのならば、それはすなわち家康には元親を避ける理由があるということだ。元親はそれを自ら確かめたかった。だからこそ口ぐちに反対する部下を黙らせて単身姿を見せたのだ。
来るか、来ねえか。
家康、俺の前に顔を出せるもんなら、出てきやがれ……!
元親は仄暗い眼を拠点の入り口へ向けて、現れるかもわからぬ男の影を探す。
はたして鬼の来訪を知った仇であるはずの男は、不信と警戒を叫ぶ部下を退けて、たった一人で何の躊躇いもなく元親の前に姿を現わした。
精悍な顔立ち、見違えるほどに伸びた背丈と、それに見合うよう鍛練されたしなやかに力強い体躯。そこにかつての面影はない。
だが男は元親を認めると、眼の前の現実が信じられないと言いたげな驚きを浮かべた後に、空気をまるごと融かすように笑った。
「元親!元親じゃないか……!」
会いたかった、こんな処で会えると思わなかった、――西軍にいると聞いていたのに!
思いがけない相手に会えた歓喜を全身で表すその姿は、目覚ましく成長しているくせに、まるで変わらぬようにも見えた。
変わらない、かつてと同じ「友」のように。
驚愕と喜びを見せた東の将に対し、少しだけ眼を眇めた鬼は口を開いた。
「家康……俺が西を抜けてここに来たのは、お前に聞きてえことがあるからだ」
家康はそうと聞くと自身の浮かべた喜びを抑え、真摯な表情を示した。それだけで周囲の空気が一変し、張り詰めた緊張に染まる。元親はそれを感じ取り、わずかに心の内でだけ相手の成長を認めた。良い面構えだ。
「……家康。サヤカをけしかけたのはお前か?」
予期せず飛びだした名前に少し驚きながらも、家康は慎重に答えを探る。この状況とその問いを突き合わせて考えれば、雑賀が家康の望み通りに独断で動いた結果として、西にいた元親が自分を訪れたのだと知れた。それが己の差し向けたものかと問われると、答えは半々だ。家康は雑賀に元親の手助けを願いはしたが、その手法については把握していない。
「……ワシは、孫市には自由に動いて貰っている」
事実をのみ言えば、元親は疑いの眼を向けた。
「せっかく組んでおきながら、あの雑賀を直に使ってねえってェのか?」
「雑賀衆は恣意のままに“使う”ものではない。お前も知っているはずだぞ」
ぴしりと言う家康に対し、元親も一旦口を噤む。
「だから、……孫市がお前に何かをしたと言うなら、まだワシはその報告を受けてはいない。だが、」
一度言葉を切った家康は、鋭さを帯びた顔をして続けた。
「雑賀が為すことはワシの力になると信じたことであるはずなんだ。そういう契約を、した。―――だからもしお前が孫市に何か」
「俺ァお前の力になるために来たわけじゃねえ」
元親はその言葉を遮って鋭く言うと同時に、肩に乗せていた碇槍を振るう。鬼の爪はわずかな距離をあけながら、家康の喉元で巨大な穂先を止めた。
ひと目見た瞬間から、元親が烈火のような怒りを強いて抑え込んでいることには気付いていた。だがその理由だけがわからない。交わす会話の内にも覚悟をしていた家康は、凶器を向けられても表情を変えずに友を見つめる。
対して鬼は、隻眼に燃え盛る焔を浮かべて、家康を睨みつけた。
「………答えろ。家康」
「ああ」
全身の膚がちりちりと焦げ付くような姿を前に、家康は緊張を秘めた顔で真剣に頷く。元親は歯軋りするほど食い縛った唇の隙間から、ようやくその言葉を絞り出して叩きつけた。
「四国を攻めたのは……お前か……!」