日常風景、その延長線。
じわじわと滲んでくる汗が首筋を伝い落ちて、零れた息が容易く擦れる。
世界は足早に温暖化の道を歩んでいるのか、春も梅雨もあっという間に通り越えて夏になった陽射しは容赦なくコンクリートを熱していた。都内にしては珍しく緑が残っている住宅街は、ビル群の中に比べれば随分と涼しいものの、それだって充分に暑いのには変わりない。冷暖房完備の室内で過ごしている現代人には厳しい季節がやってきている。濡れ落ちてくる前髪をかきあげるように流して見上げた空は雲ひとつ転がっていない晴天だった。
ここ数年、やたらと暑い夏ばかりが続いている。なんて言ってみたところで中高時代の夏休みが暑くなかった覚えなんてない。ただひとつ言えるのはまあ、俺の体力だとかそういうものがあの頃ほどにはないんだろうってことくらいなもんだ。これからが働き盛りだろう、と言われたってこんな炎天下で二週間以上も走り回る余力は残されていないのさ。まあ確かに今でも遠慮なく飛び回りそうなやつに心当たりがないわけでもないんだが。
がさがさ音を立てる買い物袋(残念ながらこれはエコ精神ではなくポイント加算に起因するものだ)を片手に日陰の道を選んでマンションまで歩くのはもう日課のようなものだ。狭いマンションの駐輪場に押し込めたままの自転車をそろそろ活用してもいい季節かもしれない。意外に馬鹿にならない駅前の駐輪場代をケチって、そろそろタイヤの空気が心配になる程度には使わなくなって久しい。まあ、裏道を歩けば図書館だとか喫茶店だとか、やたらと足を止める場所があるのもひとつの理由ではあるんだが。坂道も緩やかな町は、歩くのもそう悪くない。火照った首筋に手を当てて、踏みしめた階段が軋んだ音を立てる。
とけかけたアイスを噛み砕くと、安っぽいソーダ味が舌を転がって消えた。
高校卒業から三度目の夏がきて、あの頃とは随分違った風景にも慣れていた。大学ならではの長すぎる夏休み最終日目前でも悲鳴を挙げることもない程度には俺も成長したと言ってもいいんだろうか。だからと言ってまあ実際にはまだ一か月以上も続く休みにそう課題なんて進むわけがない。どういうわけだか今年度の最初に説明を受けたはずの合宿すら開催されず時間を持て余すように積んでいた本ばかりは消化する羽目になっているんだが。まあだからと言って別段、何かが起きるわけでもなく、あのドタバタが嘘だったかのように毎日は穏やかに過ぎていた。それなりに寄越される課題も忙しないアルバイトも、慣れれば然程のものでもないのだ。
不得意だった料理だってそれなりに手が動くようになるくらいには、三年間なんてものは大きな存在感を伴っていた。まあ、それでも残念ながら卵からようやく抜け出たひよこ程度なもんで、ネットのレシピだのなんだのがないと一週間もしないでレパートリーは尽きるしかないんだが。
「あっつ……」
閉めきった狭い部屋の中で淀んでいる空気に唸って、買ったものを適当に棚へ放り込んでから窓を大きく開けた。
立て付けの悪い窓硝子ががたがたと音を立てて、ベランダに干したままの布団が少し風に揺れた。夏は暑くて冬は寒いなんて自然の法則に乗っ取ったような室温に慣れているのは残念ながら俺たちが高校時代の大半を過ごしたあの部屋もそんなものだったからに過ぎない。あの頃と違って設置されているエアコンも鈍い音を立てて稼動している扇風機も、まあそれなりに年季が入ってはいるんだが、あるだけで充分に贅沢なものだ。建てられてから何十年を経て軋むアパートは、それでもそれなりに居心地の好い空気をしている。
冷たいシャワーを頭からかぶって、髪を乾かしながら下だけを穿いた格好で窓際に腰を降ろす。麦茶を注いだグラスの中で氷が簡単にとけていって、もう夕方に近い時間なのに未だ高い位置にある太陽がちかちかと目蓋を重くした。
見渡せばすべてが一望できる角部屋のワンルームは一人暮らしには充分すぎるくらいで、二人で住むにはほんの少しばかり狭い。学生が住むだけなら小さなキッチンがついていてトイレと風呂がそれぞれ別にある、以上の贅沢は言うもんでもないだろう。この地方にしては珍しい単線路線だからだろうか。駅から徒歩数分圏内にありながら、家賃は相場以下を維持している中々のお買い得物件なのだ。僅かに一駅乗り継げば特急も止まる大きな駅があるし、そこからは都心まで三十分もかからないのだから悪くはないと思うんだが。まあ、その一駅が自転車で行くには遠いだとか、最寄駅までの終電が早いだとか駅周辺に何もないとかケチをつける方向でいったら限りはない。それでも少し歩けば安売りのデパートも商店街も残っている風景は、がやがやとした街中よりは随分と自分に合っている気がするのだ。軽く噛み殺した欠伸交じりに畳に横になると、少し先のほうで風鈴の音がした。
一人暮らしを始めた部屋に入居から半年も経たないうちにもう一人が転がり込んでも咎められることがなかったのは、まあ上京からそれまでの俺自身の行いだとかその男の外面の所為だろうか。同居人なんだか居候なんだかわからないままに気付けば自然とポストには二人分の苗字が並んでいたなんて自分でもどうかと思わなくもない。それでも別段周囲から何を言われることもなかったのは、まあ、そんなものを容認するのがこの辺りの穏やかな風土ならではといえばそうなのかも知れないが。周囲の住人とも真向かいに住んでいる大家のおばあさんとも正式な話をするより前に顔見知りになっていた古泉は、いまでは時折、手料理まで貰ってくるくらいの馴染みようなのだ。
数駅先のマンションに住んでいたはずの古泉がこんなところに収まっているのは、最初ばかりは単純に生活能力の欠落以上の何でもなかった。放っておけば休日の夕方まで何も口にしないような生活に最初に音を上げたのは本人ではなく脇で見ていた俺の方だったわけさ。いい加減にしろ、とせめてもの休日に招くようになってから気付けばこの部屋にいる時間が増えていた。それが居候になって同居人に切り替わったのがいつかなんて、自分たちでもかなり曖昧なのだ。
最初ばかりは窮屈に感じていた部屋も慣れれば何と言うこともなく、二人分の洗濯物が踊っている光景だってもう眼に馴染んでいる。分け合う安い布団の温度も、冷蔵庫のボードに書かれた蚯蚓ののたくったみたいな文字も、いつしか生活の一部でしかない。それでも時折、めまぐるしく過ぎた高校時代のことを思い出すのは、その同居人が高校からの友人であり戦友のような共犯者のようなものであり、世間で言うところのまあ、恋人とかそういうところに値するからでしかない。愛だの恋だの何だのと俺たちが莫迦みたいに互いに翻弄された日々についてはここでは割愛させて頂くが、つまるところ何があってもなくても高校時代の面影なんてものが常時併用されているわけさ。それがいいとか悪いとか、そういうところとは別次元の話としてだ。ま、とりあえずの問題はあんたたちそれ同居じゃなくて同棲じゃないのなんて冗談が冗談で済ませられていないって程度だ。
作品名:日常風景、その延長線。 作家名:繭木