日常風景、その延長線。
「かえりましょう」
此処にいたんですか、なんて少しだけ安堵めいた息を混ぜて笑う古泉が、片手に見慣れた冷却用の買い物袋を提げたままもう片方の腕を伸ばしてくる。まるで傾斜を転がり落ちるように、足がもつれたのはきっと重力の作用でしかないんだろう。引っ張られるように自然と腕の中に抱えられるような恰好で、視界がちかちかと熱を帯びる。
気付く間もなく背中に回された腕は思いのほか力が籠められていて、一瞬声を失ったのは肩越しに見た風景の所為だ。
「おま、え、なんで」
「合宿帰りにそのまま直行させて頂きました。あなたを探すついでにと買いものを引き受けたんですが、夕飯の用意に間に合いますかね……」
お母さんが教えてくださるそうなんですけど、なんて小さく笑うような声が首筋を擽って、埋めるように肩に寄せられた頭に、髪が頬を撫でる。
「電話して出て頂けなかったらどうしようかと思いまして」
「何でだよ、いいから離せ」
「いやです」
「帰るんだろ、」
「だって、あんな言い回しはやめてください」
誤解します。誤解で良かったです。
ぐすん、と泣きそうな声で呟かれる声に弱くて、宥めるように背中を叩いてから、握られた手はそのままに長い坂道を降りていく。ひとの通らないその坂はまるで高校時代のなにもかもすべてを詰め込んだように鮮やかな景色を眼下に映し出している。きれいだな、なんて今更口を出るはずもないのだけれど、零れ落ちた吐息は泡のようにやわらかい。古泉の頬を滑り落ちた涙がぞくりと俺を煽るのは、莫迦みたいに未だ幼い俺の恋心のせいだ。
「うん、ごめん」
俺は我儘で身勝手で嫉妬深くて、それからひどく独占欲の塊なのだ。そんなことを口にしたところで古泉はまるでわからないみたいに「僕のほうです」なんて言うんだろう。そのくせ本当は多分、俺の言動に含まれる俺自身でもわからない何もかもを拾い上げている。恋愛至上主義とは程遠いはずの思考回路が、緩々ととけていくのは簡単に止まらない。握られた指先からどろどろとしたものが伝わらなければ良いと息を潜めて、背伸びをするような恰好で頬に唇を寄せた。あの小さな部屋のにおいが微かに、鼻先をかすめて消える。
少しだけ伸びた俺の身長の分だけ、古泉の背も縦に伸びていて、ずっと変わらない差がそこには存在する。それでも手を握って、頬を寄せて、抱き合って。対等に立っていることはできるだろう。夏の終わりが来るように、此処を降りていく俺たちも誰もかれもが、変わっていく。たとえば無条件で無防備で帰れる場所はこの下にあって、それが古泉にとってのあの部屋ならば俺にとってそれ以上のことはない。
「なに、料理でも習うのか?」
「だって、僕の味噌汁を毎日飲んで欲しいんです」
「ばぁか」
塩分過多で死ぬわ、濃いし。
なんて呟いた俺のすぐ傍まで屈むように顔を寄せて、
「だから、教えて頂くんですよ」
囁くみたいに自信満々に笑う古泉の表情が可愛くて格好良くて愛しくて、俺は相変わらず白旗を挙げる羽目になるんだが。
まあ涼しくなったら考えてみてもいいなんて口先だけで返しながら、とりあえず母親の秘蔵レシピでもコピーさせてもらうかと頭の中で考えながら指先の力を籠めた。
「別に、俺の作ったの食べてればいいだろ、」
「一緒に作りますか」
あの家に帰りましょうと、噛み締めるような言葉が道端に降ってくる。明日の約束も明後日の約束もなくてそれでも確かに未来のはなしは、きっと日常の延長線上に存在している。
ねえキョンくん、それプロポーズじゃない?
なんて鋭いんだかボケているんだかわからない我が妹君の台詞をきっかけに、四人も並んだキッチンで事件は起こったんだが、まあそれはこれと、ちょっと別のお話だ。
--------end.
作品名:日常風景、その延長線。 作家名:繭木