おとうさん
お父さん。
お父さん、という人について僕はあまり想像がつかない。
国語の授業では「お父さん」なんて登場人物がよく現れる。先生は教壇に立ってそれぞれ僕らの顔を見回しながら、文中で「お父さん」は一体何を感じているのか?なんて質問を投げかける。するとクラスメートたちは口々に「きっと悲しいです。だってお父さんなのだから」とか「お父さんなのだから、娘が嫁ぐことはきっと嬉しいです。」とか「お父さんなんだから、蝦夷へ行くのが息子でなくてよかったと言うに違いありません」そんな事を言う。僕は「お父さん」だとどういう風に感じるのか、どういう風に感じるべきなのか、そんな事もわからない。だから僕はみんなが口々に何かを言いながら壇上に立つ先生に向かって挙手をするのを横目に、なんだか居心地が悪くて肩口を合わせるように縮こまる。目立たないように、と体を小さくするのだけれど、するとかえって目立ってしまうようで先生はそんな僕にすぐ目をやって「では立石」などと僕を指名する。力一杯腕を伸ばして挙手をしている級友たちがいるのだから、そっちを指名してくだされば良いのに、と内心で唇を尖らせながら、僕はしどろもどろに「お父さんだから、きっと」とまでは言う。けれど「お父さん」だから一体なんだっていうんだろう?そのまま言葉が見つからずに俯く僕をクラスメートの澤口がわざわざ振り返ってクスクスと女のように笑い、僕はますます言葉が見つからなくなる。
すると先生が「じゃあ立石のお父さんはどんなだ?一人娘が遠く蝦夷地まで嫁に行くとなれば、どんな気持ちになると思う?」とアイディアを投げてくださるけれど、するともうすっかりわからなくなってしまう。教科書の中で「お父さん」の絵は蝦夷なんていう遠くて寒い場所へ嫁ぐ娘を見ながら、なんだか苦虫を食ったような、悲しいような、怒っているような、そんな顔をしている。
僕のお父さんだったら?
僕が娘で、僕が身内も誰もいない、寒くて寒くて遠い蝦夷へ行ってしまうとしたら?
「立石のお父さんは戦時中は立派な軍人さんだったろう?ならばきっと““けいちょうふはく”などせず夫に尽くし、立派な夫人となり家を支えるように”と厳しい訓戒を与えるに違いない。ああ、けいちょうふはく、の意味は君たちには少し難しかったろうか。こういう字を書き、意味は軽はずみで浮ついた様子という意味であり・・・」
先生は黒板にチョークで“軽佻浮薄”と字をつらつらと書き始め、僕のお父さんの話題からすっかり日常生活に少し浮ついた僕たちへの戒めへと話が逸れていった。僕はその難しい漢字を眺めながら、先生の教えなどはすっかり右の耳から左の耳へと抜けていく中で、お父さんの事をまだ考える。お父さんは、蝦夷へ行ってしまう娘にそんな事を言うだろうか?何を言うかは僕には想像もつかないけれど、でも、きっとそんな事は言わないだろうと思った。
先生は戦時中は陸軍の召集兵で、南国の島で地獄のような行軍していたという話をよくしている。終戦を迎えた今でも自分より上の階級の軍人を尊敬しているところがある。とくに「少佐」という階級で、更にお父さんのように「艦長」をしていたのだからいわば雲の上の人だ、とまで言っている。そんな話をことあるごとにクラスメートの前で説教するものだから、僕はすっかり浮いてしまっている。僕が何かにつっかえたりすると、厭な奴らは「少佐様の息子がそれで良いのかよ」とクスクスと笑う。僕は彼らに対して親切であろうと心がけるのに、彼らの方でそんな風に僕を厭な気持ちにするのだから、僕はどうして良いのかわからなくなってしまう。けれど僕はお父さんが「少佐」でなければ、もっといえば「軍人」でなければよかった、とはちっとも思わない。けれど手放しにお父さんが好きかと言えばよくわからないし、牛乳屋の息子の山岡みたいに「親父なんてくそったれだ」なんて思わない。嫌いでもない。でも好きでもないような気がする。よくわからない。
僕には「よくわからない」ものが沢山あるけれど、その象徴みたいなものはまさしく「お父さん」という人だった。
やがて授業が終わる鐘がなって、話はそれでおしまいになった。半ドンだから、今日はこれでおしまいだ。
学級委員の号令で起立して礼をして、先生が教科書やチョークをしまった箱やなんかを持って教室から出ていってしまうと途端に教室中に好き勝手なおしゃべりや音が溢れ出して、まるで止まっていた時計のネジを巻いたようだ、と僕は感じた。
女の子達がお昼ご飯を食べたら一緒に遊ぼうと話しているのを聞くともなしに聞きながら、僕は教科書や鉛筆を背嚢に丁寧に仕舞い込んで、それを背負って一人で教室を出て、一人で家に向かった。
家へ帰って玄関を開けると、そこからもう醤油を煮る甘い食欲をそそる匂いがしていた。
僕は靴を脱いで台所へ顔を出すと、お母さんがやっぱり魚を煮ているところだった。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま帰りました。お昼から魚?どうしたの?今日はなんだか豪華だね」
「お父様が帰っていますからね。さぁ、手を洗って、それからお父様に挨拶もしていらっしゃい。きっといつものお部屋で読書でもされていますから」
それからもうすぐ昼食ですとお伝えしてくださいね、とお母さんは鍋の中の魚を見つめる僕の横顔にそう投げかけて、どこか嬉しそうにふふと弾んだ声が漏れている。僕はちらっと目だけで頭ひとつ分大きい母を見やって、その女の子みたいな顔がやっぱり嬉しそうなのを感じてなんだか妙なものを感じる。嬉しいような、むず痒いような、そんな気持ちだ。
僕が通う床屋のおばさんは、おじさんがいない時は「気楽でいいわよ。あの人がいると横から文句しか言わないんだから」と嬉しそうに笑ってどんどん僕に話しかけてくるけれど、おじさんがいるときはぶすっと黙りこくってただ黙々と僕の頭を丸めていく。それに近所で立ち話をするおばさん達は「家にいるあの人のでっぷりとしたお尻なんか見ちゃうともううんざりする」とか「私ももっと良い男を捕まえればヨカッタ」「家には寝に帰ってくるばっかり」とどれもこれも自分の旦那に対してうんざりした気持ちばかりを吐き出している。どこの家も夫という人間に対してほとほとうんざりしている様子だ。けれどお母さんは違う。お父さんが帰ってくるのを毎日毎日心待ちにしている。
恋愛をしている、と僕はふと思う。
お母さんという人が恋愛をしている、というのはなんだか妙なもののように僕は感じて、けれど相手があのお父さんなのだからそういうものなのかもしれない、とも思った。
お父さんはやっぱりいつもの部屋にいた。
襖の向こうからは人がいる気配が伝わってくる。僕はその少し日にあせた障子に目をやりながら、きっと足音で僕が近づいてきたのを知っているだろうに何も声をかけてくれないお父さんをもどかしく思いながら、それでも襖に掛ける言葉が見つからない。