おとうさん
中庭に面した角部屋で、たった4畳しかない部屋にお父さんは文机ひとつ置いて、古い冊子や本を仕舞いもせずに隅に積み上げている。いつもそこで文机に向き合ったり、縁側でお酒を飲んだり、本を読んでいるのは知っていた。けれども何を書いているのか、何を考えているのか、何を読んでいるのか、そういったことはまるで知らない。そういえば、僕とお父さんの間にはいつもお母さんがいる。紙と紙とをくっつけるのりみたいに。だからお母さんがいなければ、僕とお父さんはきっと全く別々の人間で、町ですれ違っても挨拶ひとつしない他人なんじゃないだろうか、とも思う。
「お父さん、ただいま帰りました」
しばらく掌を握ったり開いたりを繰り返して、ぬるぬると汗をかきだした手をまたひとつ握りこぶしにして、ようやくそれだけを襖の向こうへ掛けた。中からは「そうか。手を洗ってこい」という声がひとつ返ってきたけれど、襖が開く様子はない。
「お父さん、お母さんがもうすぐ昼食だと言っていました」
「なら昼食になったら呼んでくれ」
はい、と答えたろうか、わかりました、と答えたろうか、とにかくそんな返事を返して僕はそっと襖から遠ざかった。
お父さんをこの人はやっぱり僕のお父さんなんだろう、とふと思ったのは、小学校に上がる前のことだったと思う。
たった11年しか生きていない僕にとって、5年前というのは本当に遠い昔のことだけれど、確かに5年前のことだった。婦人会のだれそれさんの旦那さんが亡くなったというので、お母さんは喪服に着替えて婦人会の手伝いに出て行ってしまった日の夕方のことだ。子供を連れていくわけにもいかないし、近所の奥さん連中は皆葬儀の手伝いに借り出されているし、親戚というものの話を一切聞くことがない家だから、お母さんは僕に「ちゃんと家にいるんですよ。外に出てはいけませんよ。夕食になれば一度戻ってきますから、おうちで大人しくしているんですよ」と言い含めて行ってしまった。僕は日の暮れていく家の中で、家鳴りの音にびくびくとしながら、それでも普段とはまったく違った顔をした家の中を歩いて回り、部屋という部屋全ての襖を片っ端から開けて中へ入って、普段は開けない戸棚を開けてみたり、台所の塩をちょっと舐めてみたり、そんなことをしながら時間を潰していた。
それで最後に向かったのはお父さんの部屋だった。
お父さんの書斎というのはまた別の部屋にあって、そこは絶対立ち入ってはいけないと教えられていたから小心者の僕が開けるはずもない。けれどあのたった4畳の部屋は、そうじゃなかった。入っても良いけれど、なんとなく入りにくい、縁がないという部屋だった。でも今僕はたった一人で、今この時は僕がこの家の主なんだから、と僕は襖を開けて部屋に入った。部屋はなんとなくお父さんの匂いがするような気がして、僕はお父さんの本を手にとってぺらぺらと捲ってみる。何かおもしろい絵でもあればよかっただろうけれど、読めない字ばかりが並んでちっとも僕の興味を引くものではなかったから、僕はそれをそのままにして、ごろんと部屋に寝転んだ。
ガラスの向こうでは空が桃色のような、群青色のような、紫色のような色に移り変わっていき、頭のずっと高いところをに浮かぶ雲の色が重たく変わっていくのを眺めているうちにうとうとと眠っていた。
次に目を覚ましたとき、僕のそばにお父さんがいた。
あっ、と驚いて飛び起きた僕をお父さんはちらっと見て、ほっぺたの片方だけでにやりと笑うような顔をして、自分の口元を指差して「涎が垂れているぞ」と笑った。僕は袖でぐしぐしとそれを拭った。部屋はすっかり夜だった。僕にはお父さんの上着が掛けられていた。
「一人で留守番だったんだろ?」
「うん」
「なにか悪さはしなかったのか?」
「してません。僕は悪さなんてしていません」
本当は台所の塩をちょっと舐めたけれど、そんなことはすっかり忘れて僕は切実な気持ちで首を振ったのだけど、お父さんは呆れたような満足したような顔をして薄く笑って頷いた。
「なんだ、留守番の最中に悪さひとつできないのか?」
「悪さをするとお母さんに叱られます」
「そうか。ふみの教育の賜物か」
お父さんは今度はどことなく苦笑するように笑って、僕の頭を撫でた。
「ふみはまだ手伝いがあるから、外に飯を食いに行くぞ」
お父さんはそう言って立ち上がり、僕に掛けていた上着を羽織って、まだ呆けている僕を立ち上がらせて外に出た。夏が近づいてくるのがわかる、少し生ぬるいような中に冷えた清潔な空気が混じる夜だった。お父さんは珍しく僕の手を引いて歩き、僕は草履を引っ掛けた足でお父さんの歩調に合わせようと懸命に歩いた。夜、家の外に出るというだけでわくわくする事だったのに、更にお父さんが僕の手を引いて歩くなんていう珍事とも呼べる事態に僕はそわそわと落ち着かなくて、お父さんの顔を見上げたり、通り過ぎていく人の顔を眺めたり、きょろきょろと辺りを見回した。
やがてお父さんは僕を赤線地帯に連れていった。
あ、ここは来ちゃいけないところだ、と分かって慌ててお父さんの顔を見上げたけれど、お父さんはいつもの何を考えているのか分からない、口元に笑みを浮かべたようなむっつりと黙っているような顔をしてずんずんと慣れたように人を掻き分けて奥へ奥へと入っていく。夜だというのにあちこちにぶら下げられた裸電球がランランと眩しい光を放ったり、真っ赤な提灯の明かりがまるで縁日のようにぶら下って、この空間だけがまるで僕の日常からは遠くて全く知らない社会であり、汚い服を着た見るからに労働者階級といった男たちとすれ違うとむっとしたすえたような汗臭い臭いが鼻をついたり、かと思えばべったりとした化粧品の臭いがしたり、肉の臭いがしたり、調味料の臭いがしたり、強いアルコールの臭いがしたり、どこからか「はれんち」で「ていぞく」だと近所のおばさん達が顔を顰めるような音楽が聞こえてきたり、それに混じって怒鳴り声や笑い声、女の人のあまったるい声が聞こえてきて、まるで感情の渦の中に放り込まれたように心細くて、僕はお父さんの手をぎゅっと握り締めて、この大きくて乾いた指の長い手だけが命綱のような気持ちでいつの間にか両手でお父さんの手にしがみ付くようにして歩いていた。
やがてお父さんは「秋桜」と書かれた大きくて赤い提灯のぶら下った店に入った。
その頃になればさっきの五月蝿い人ごみからはすっかり遠くなって、空のビール瓶が積まれているような汚くて目立たない裏通りに入っていて、遠くからあの喧騒が聞こえていた。