果てに落つ
いつの頃からか。
その苛烈な瞳の奥に潜む色を、誰よりも巧みに読み解くことが出来ると、そう意識したのは。
一度昂れば何処までも駆けていくその背へ向けて、掠れた声音で名を呼べば振り返ることを知ったのは。
己が凶王を御することのできる唯一の人間であると、浅ましくも認めていたのは、
いつの頃からであったか。
徳川は三成を殺し、三成を生かす。
その奇妙な事実を、西海の鬼が姿を消して以来、大谷は改めて思い知らされた。思えば太閤が奪われたあの時からそうであった。雨の中で慟哭と共にそのまま潰えてしまうかと思えた男を、復讐者として蘇らせたのは間違いもなく徳川の存在だ。もとよりあの男が裏切らねば三成が一度死ぬこともなかったとはいえ。
そして同じ仇を追っていたはずの鬼が去った後にも、三成はなお己の意識を繋ぎとめ、あの男の首を求めて歩みを続けている。三成の見つめる先を共に見据えれば、映るのはあの男の立ち姿ばかりだ。大谷は未だに残る三成の正気の糸を掴んでいるのは己であると認めているが、糸の端が分かたれ、それがあの男へと繋がっていることもまた認めないわけにはいかなかった。
ぬしがおらねば三成もまた、ない。
それは随分前から知っていたことであるようにも思えたが、こうして言葉にしてはっきりと認めてしまえば、大谷の中をぐろりと正体のわからぬ黒い渦が巡る。
気付けば大谷は口を開いていた。
「はて、三成よ。……我は困った」
呟くように言えば、大谷の言葉に閉じていた目蓋を薄らと開いた凶王は、無言で先を促した。
夜半であった。
生けるもの総てが息を潜める深夜である。
静寂に満ちた夜の帳の中、大谷の居室で無造作に床に身を横たえた三成は、まるで眼に見えぬ繭に籠っているようにぴくりとも動かない。だがこの男に眠りという安寧が訪れるわけもなかった。未だに書を指先で捲って眠らぬ大谷の傍ら、こうして死んだように伏していながら、三成は眼だけで意識のあることを告げる。
大谷が徳川率いる東の軍勢と戦を始める算段を告げて以来、三成は夜毎大谷の元を訪れるようになった。それまでにも幾度かあったことではあるが、こうも連続するのは珍しいことだ。やれ、気が昂るか。初めの頃に大谷がそう尋ねれば、是、と眼が応えた。我を斬ってくれるでないぞ。揶揄するように言えば、不快げにねめつけられた。大谷はくつりと哂った。
そうよな、夜は長い、長い。待ちわびた時を前にして、わずかにでも口を開けば怨嗟が迸り闇を切り裂こう。わずかにでも腕を振るえば周囲の総てを斬り伏せよう。わずかにでも脚を動かせば、すぐにも怨敵の元へ駆け出すであろう。それを知って自ら繭に籠る姿は、大谷に三成の正気を知らせた。そして大谷の傍らを選ぶ姿がまた、大谷に己の意義を知らしめた。
大谷はもはや手慰み程度に書を捲りながら、傍らの男へと言葉を落とす。
「……徳川の首を太閤に捧げた後には、ぬしが天下を統べような」
言いながら視線をやれば、三成は聞いている証に大谷へ眼を向けている。そしてその眼は何の興味もないと語っていた。復讐のその「後」など、この男が考えるはずはなかった。大谷はそれを初めて自分の眼で確かめて、やはりなァと小さく呟く。
同じ危惧を西海の鬼が向けたことなど知る由もないが、ちりと燃えた焦燥は同じものであった。
「困った、困った……」
さて、何が困ったのか。大谷は緩く思考する。どうやら我には、――三成の生きる姿が思い描けぬ。
内心で言い切った途端、妙な具合に心臓が跳ねた。
「三成よ」
その鼓動に急き立てられるように、名を呼ぶ。はたりと瞬く眼が大谷を見上げた。
「天下が要らぬというのなら、それはどうしてくれようなぁ」
大谷の口調は軽かったが、答えを持たない投げかけを大谷が三成へ向けること自体、常にはないことであった。凶王は己の片腕が珍しくも答えを求めて彷徨う様子を眺めて、故意に閉じていた唇を開いた。
「……どうにでもしろ。貴様に任せる」
大谷は己の掲げる王に視線を落としたまま、嘆息する。
「たまにはぬしも考えよ」
ぬしの行く先を、考えよ――おそらくは意図せずして零れたその詰る声に、三成はふいと顔を背けた。
「知るか。貴様が好きに動け。……そうすれば問題はない、何も変わりはしない」
私は家康、の首があればそれでいい。
言いしな、ぎちりと不快な音が響く。三成が深く歯を食いしばり漏れた音であった。家康、家康……!呪詛の声が歯軋りと共に漏れる。大谷はつと腕を伸ばし、宥めるようにその髪を梳いた。
「これ三成。……歯を痛めよう、少し力を抜け」
言われれば、三成は素直に唇を緩めた。大谷はさらと零れる銀糸の髪を弄り、頬を伝い、その唇の表面を緩く撫ぜる。口を開けばこうなるとわかっていながら、強いて答えを求めたことに、そして得た変わらぬ答えにわずかに苦く笑う。何も変わらぬと、三成は言った。
――我があればぬしは生きるか?
大谷は密やかに笑う。
夢語りのようだと思い、けれどその夢を消さぬまま、笑う。
その苛烈な瞳の奥に潜む色を、誰よりも巧みに読み解くことが出来ると、そう意識したのは。
一度昂れば何処までも駆けていくその背へ向けて、掠れた声音で名を呼べば振り返ることを知ったのは。
己が凶王を御することのできる唯一の人間であると、浅ましくも認めていたのは、
いつの頃からであったか。
徳川は三成を殺し、三成を生かす。
その奇妙な事実を、西海の鬼が姿を消して以来、大谷は改めて思い知らされた。思えば太閤が奪われたあの時からそうであった。雨の中で慟哭と共にそのまま潰えてしまうかと思えた男を、復讐者として蘇らせたのは間違いもなく徳川の存在だ。もとよりあの男が裏切らねば三成が一度死ぬこともなかったとはいえ。
そして同じ仇を追っていたはずの鬼が去った後にも、三成はなお己の意識を繋ぎとめ、あの男の首を求めて歩みを続けている。三成の見つめる先を共に見据えれば、映るのはあの男の立ち姿ばかりだ。大谷は未だに残る三成の正気の糸を掴んでいるのは己であると認めているが、糸の端が分かたれ、それがあの男へと繋がっていることもまた認めないわけにはいかなかった。
ぬしがおらねば三成もまた、ない。
それは随分前から知っていたことであるようにも思えたが、こうして言葉にしてはっきりと認めてしまえば、大谷の中をぐろりと正体のわからぬ黒い渦が巡る。
気付けば大谷は口を開いていた。
「はて、三成よ。……我は困った」
呟くように言えば、大谷の言葉に閉じていた目蓋を薄らと開いた凶王は、無言で先を促した。
夜半であった。
生けるもの総てが息を潜める深夜である。
静寂に満ちた夜の帳の中、大谷の居室で無造作に床に身を横たえた三成は、まるで眼に見えぬ繭に籠っているようにぴくりとも動かない。だがこの男に眠りという安寧が訪れるわけもなかった。未だに書を指先で捲って眠らぬ大谷の傍ら、こうして死んだように伏していながら、三成は眼だけで意識のあることを告げる。
大谷が徳川率いる東の軍勢と戦を始める算段を告げて以来、三成は夜毎大谷の元を訪れるようになった。それまでにも幾度かあったことではあるが、こうも連続するのは珍しいことだ。やれ、気が昂るか。初めの頃に大谷がそう尋ねれば、是、と眼が応えた。我を斬ってくれるでないぞ。揶揄するように言えば、不快げにねめつけられた。大谷はくつりと哂った。
そうよな、夜は長い、長い。待ちわびた時を前にして、わずかにでも口を開けば怨嗟が迸り闇を切り裂こう。わずかにでも腕を振るえば周囲の総てを斬り伏せよう。わずかにでも脚を動かせば、すぐにも怨敵の元へ駆け出すであろう。それを知って自ら繭に籠る姿は、大谷に三成の正気を知らせた。そして大谷の傍らを選ぶ姿がまた、大谷に己の意義を知らしめた。
大谷はもはや手慰み程度に書を捲りながら、傍らの男へと言葉を落とす。
「……徳川の首を太閤に捧げた後には、ぬしが天下を統べような」
言いながら視線をやれば、三成は聞いている証に大谷へ眼を向けている。そしてその眼は何の興味もないと語っていた。復讐のその「後」など、この男が考えるはずはなかった。大谷はそれを初めて自分の眼で確かめて、やはりなァと小さく呟く。
同じ危惧を西海の鬼が向けたことなど知る由もないが、ちりと燃えた焦燥は同じものであった。
「困った、困った……」
さて、何が困ったのか。大谷は緩く思考する。どうやら我には、――三成の生きる姿が思い描けぬ。
内心で言い切った途端、妙な具合に心臓が跳ねた。
「三成よ」
その鼓動に急き立てられるように、名を呼ぶ。はたりと瞬く眼が大谷を見上げた。
「天下が要らぬというのなら、それはどうしてくれようなぁ」
大谷の口調は軽かったが、答えを持たない投げかけを大谷が三成へ向けること自体、常にはないことであった。凶王は己の片腕が珍しくも答えを求めて彷徨う様子を眺めて、故意に閉じていた唇を開いた。
「……どうにでもしろ。貴様に任せる」
大谷は己の掲げる王に視線を落としたまま、嘆息する。
「たまにはぬしも考えよ」
ぬしの行く先を、考えよ――おそらくは意図せずして零れたその詰る声に、三成はふいと顔を背けた。
「知るか。貴様が好きに動け。……そうすれば問題はない、何も変わりはしない」
私は家康、の首があればそれでいい。
言いしな、ぎちりと不快な音が響く。三成が深く歯を食いしばり漏れた音であった。家康、家康……!呪詛の声が歯軋りと共に漏れる。大谷はつと腕を伸ばし、宥めるようにその髪を梳いた。
「これ三成。……歯を痛めよう、少し力を抜け」
言われれば、三成は素直に唇を緩めた。大谷はさらと零れる銀糸の髪を弄り、頬を伝い、その唇の表面を緩く撫ぜる。口を開けばこうなるとわかっていながら、強いて答えを求めたことに、そして得た変わらぬ答えにわずかに苦く笑う。何も変わらぬと、三成は言った。
――我があればぬしは生きるか?
大谷は密やかに笑う。
夢語りのようだと思い、けれどその夢を消さぬまま、笑う。