雨垂れ
降り続いていた雪は霙(みぞれ)になっていた。
ぼたりぼたりとだらし無く落ちてくる中途半端な氷の固まりは防水性のないコートにへばり付くとじわりと内側まで染み込んでくる。
(うざったいな)
臨也が舌打ちをした。
外に出た時は粉雪だったので、振り払うだけで済むだろうと傘は持って来なかった。元々手を何かで塞がれるのが好きではない臨也は普段からあまり物を持ち歩かない。必要最低限のものを運ぶのはコートで事足りる。その中には最低限というには物騒なナイフも含まれているが、それは常のことなので気にすることではない。
足早に歩を進める臨也の左手は中に霙が降り込まないよう口を縛ったビニール製の買物袋を抱えていた。
(大体俺に買い物に行かせること自体が気に食わない)
胸中で毒づく羽目になった張本人の顔を思い出し、臨也が苦い顔をする。水気を含んで頬に張り付く黒髪も相俟って、整った顔が台無しになっているが、それも構うことなく前へ前へと足を運ぶ。
交差点に差し掛かったところで、運悪く横断歩道の信号が歩みにストップをかけた。車通りの多い道でそれを無視するほど、臨也は命知らずではない。ただ、怨みがましく赤い灯火を睨めつける。優先度の低い側の信号はまだ点滅する様子はない。
(…俺、こんなところで何してるんだ)
俄かに不服で埋め尽くされていた頭に冷静な思考が滑り込んだ。それは熱く火照った身体に突然冷や水を掛けられたような、深い夢から現実に引き戻されるような感覚だった。傘もささずに雨に程近い雪の中で佇んでいる他人を想像して、それが今の自分であると理解する。途端に自分自身の姿が如何にみすぼらしいかを悟り、同時に滑稽に感じられた。
(俺がこんなことしてるなんてな)
左腕で胸の前に抱え直した袋の中には流行感冒───所謂(いわゆる)風邪に罹った者への差し入れが詰め込まれている。症状によって使い分ける必要があるだろうと数種類の風邪薬に、マスクやホッカイロ。レンジで調理できるインスタント食品も入っている。病人相手に使うつもりはないが、切らしていたので護謨も紛れ込んでいる。
(自分がこんなに過保護だとは思わなかったよ)
ようやく青になった信号に早々に病人がいるアパートを目指す。一度冷静になったはずの頭はまた逸る気持ちで乱れていく。先に積もっていた雪が足元を奪おうとするため、普段より目的地までの道のりが遠く思えてもどかしい。霙はまだ降り止まず、髪を頬を濡らし冷やす。ポケットに突っ込んでいる右手はともかく、素で晒されている左手は感覚が麻痺してきている。荒くなった息が仄白く視界を霞めた。
(俺は千仞の谷に背後から叩き落とすタイプだと思ってたんだけどな)
片手間の自己分析に何処か割り切れない思いを感じつつ、やっと目的のアパートの扉を目の前にした臨也はそぼ濡れていた。髪からは雫が滴り、コートは水気を吸って重くなっている。こんな状態の人間に見舞われる側は何を考えるだろう、と臨也は想像を巡らせる。相手は人一倍自分を気遣い敬い、けれど譲れないことには歳の差も立場も恐れず意見するまだ少年の面影を残す年の離れた後輩。
(何か…俺の方が風邪引くって怒られそうだな)
改めて臨也は自分の全身を確かめて苦笑する。そうして結局、申し訳程度に水滴を振り払うと渡されている合鍵で扉を開ける。
「ただいま」
部屋に足を踏み入れると、篭った空気が全身にまとわり付いた。冷え切った身体には暑苦しいくらいだったが、温度は下げずに加湿器の水量をチェックする。まだ余裕があることを確認すると音を立てないよう水気を掃ったコートをハンガーに引っ掛け、室内干し用のハンガーラックに吊り下げる。病人の枕元にある唯一の窓を細く開けると目を覚ましていたのかベッドの中から、お帰りなさい、と帝人が小さく告げた。
「ごめん。ちょっと換気するよ。それとタオル借りるね」
濡れた身体を拭くため勝手知ったるとばかりに臨也が引き出しからタオルを引っ張り出そうとすると、僕がやりますから、と帝人は辛そうにベッドから身体を起こそうとする。やれやれ、と臨也が溜め息混じりにそれを制する。
「病人は寝てるのが仕事だよ」
毛布を肩にかけ直してやりながら、でも、と躊躇う帝人をやんわりと横になるよう促す。
「冷たい」
「ひどいなぁ。雪の中、お買い物に行ってきたんだから労ってくれたっていいのに」
「いえ、そうじゃなくて…手が」
ああ、これのことか、とまだ冷たさに悴む左手を臨也は熱を帯びて赤い頬に伸ばす。触れた瞬間に、ひゃっ、と帝人の肩が跳ねた。その反応を予想通りと臨也がくつくつと悪戯っぽく笑った反動で、ぱたり、水滴が零れ落ちた。何だろうと臨也の全身を改めて認めた帝人の表情が固くなる。
「…もしかして傘持って行かなかったんですか?」
「あ、もうバレた」
臨也はあっさり降参と両手を挙げたのを見て、帝人が口を尖らせた。
「風邪引いても看病しませんよ」
「冗談でしょ」
「いいえ。自業自得ですから」
「帝人君の方がよっぽど冷たいな」
「そんなことないです」
「まあ俺は引かないから大丈夫だよ」
「何処からその自信は来るんですか」
「経験からかな。伊達に君より長生きしてない」
軽く答えを返しながら、バスタオルで濡れた髪や頬から手際よく水滴を拭っていく。ついで冷えた身体の体温を取り戻すように暖房器具の前に指先を擦り合わせている。
「何か、狡いです」
「何が?」
「どう頑張っても埋められないから」
「年齢のこと?」
「それも…ですけど。他にも」
「まあ俺だってそれなりに経験積んできたんだから、それを簡単に縮められるのは気に入らないなあ」
「それでも、です」
頑なな言葉に臨也は立ち上がり、ゆっくりベッドに近付くと、覆いかぶさるようにしてその深紅の瞳に一杯に帝人の顔を映した。まだ渇ききっていない髪はしっとりした光沢を帯びている。
「帝人君はまだこれから学んでいけばいい」
「それじゃあ、いつまでも追いつけません」
「俺に追いつきたいんだ。帝人君は」
「いけませんか」
「いいや、好きにすればいい」
「言われなくてもそうします」
妖婉さを孕む瞳から目を逸らさないよう帝人も視界を臨也だけにして答えると、品のある唇が綺麗な笑みを象る。不意にまだ温まり切っていない指先が風邪の熱以外にもに染まる帝人の頬をなぞり、柔らかく包んだ。冷たさだけでない心地好さに意識せず、帝人の瞼が落ちそうになる。
「帝人君、口開けて」
誘うような臨也の声に控えめに、けれど素直に帝人は結んでいた唇を開く。
狭くなっていく視界の中。
更に間近になる紅。
そして舌先に触れたのは、
「───ッ!? な、何ですかっ!?」
いきなり放り込まれた錠剤だった。思わず噎(む)せそうになったところに、タイミングよく差し出されたペットボトルの水で強引に流し込む。
いつの間にか、臨也は『水なしで飲める』と銘打たれた風邪薬のパッケージを手にしている。詐欺だ、と帝人は臨也とパッケージの両方を交互に睨む。
「まずは無駄口も妙な期待もしないで、精一杯風邪を治すことに専念することだね。体調管理は基本だよ」