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蕾はぷっくりとふくらんでいて、明日には開きそうだ。
桜は七分咲きが一番美しいという。でも私は満開の桜が好きだ。一生懸命に花弁を広げる姿が一番綺麗だと思う。
「もう、桜が開くよ。」
縁側には、六十路そこそこの男が座っていた。中年と言うには相応しくない。やせ形で、赤茶けた髪が綺麗な、無精髭の見慣れた顔。こちらを見ながらにこにこと笑っている。
「曽良。」
「お久しぶりです。」
「曽、良。」

彼は二度、私を呼ぶと立ち上がって、歩いてきた。おいで、と言うと手を引いて、庵の中に入れてくれる。
入って廊下の右側に台所。左側には居間と、その奥に彼の寝室。廊下を真っ直ぐいくと厠と風呂場と、客間。
「こっちの客間が君の部屋ね。」
小綺麗に片付けられた部屋には、布団が一組と小さな机、それに丸い和紙張りの小窓が一つあった。また、私の持ってきた荷物も少なかった。今着ているものの他は浴衣と揉んだ和紙の掛着だけで、墨と和紙は、ここに沢山あるからと置いてきた。
もう春だ。そろそろ雪も完全に溶けて、土筆が顔を除かせている。
「嬉しいな、東北に行って以来、顔も見てなかったから。」
「芭蕉さん。」
勢いよく腕を引く。軽い身体はバランスを崩して、たたんであった布団の上に尻餅をついた。
一瞬驚いた様に私を見たが、それはすぐに優しげな笑みに変わった。
「なんだい、曽良」
とぼけた深い声。私の気をわかっているかの様な余裕のある返事に、毎回少し苛つく。まだ昼食にありつけていない時間だ。
「…焦らさないでください」
「やだな、だってまだお昼にもなってないじゃない。それともなに、旅以来会ってないから盛ってるの?」
「それは―…」
グッと息を飲み込む。顔が、内股がものすごく熱い。
欲情に燃える瞳を芭蕉さんに向けると、彼は優しく笑って私を撫でた。
「駄目だよ、夜、ね。」

昼食は外食しようと、芭蕉さんが切り出した。行き付けの店があるとかで、またしても私の手を引いて緑の生い茂る小道を通り抜ける。彼と私とでは、明らかに熱が違う。彼があんなにも楽しそうにしているのに、私は何を考えているんだろう。
あ、と言って芭蕉さんが足を止めた。彼の視線の先には、小さな猫が二匹、親猫に寄り添っている。
ああ、またそういうものに興味をもつのか。冷めた視線で彼を見つめる。芭蕉さんは猫を撫で、愛でた。猫にさえ嫉妬を感じてしまうなんて最低だな、と自虐していると、彼は私の頬に小さく指を触れた。
「嫉妬?」
にやにやと笑いながら私の髪をすく。
「別に。」
「ふぅうん」
ああもう。馬鹿みたいだ。

着いた先は小さなうどん屋だった。ニシンソバときつねうどんを頼んで席につくと、水を一口飲む。
「寂しかった?」
「いえ、たいして。」
「嘘は良くないなぁ、清風君から聞いてるんだよ。」
一体あのメガネは何を言ったのだろう。
「そうそう、暗いのに買い物に行くのもやめてよね、君は女の子なんだから。娼婦と間違えられたらどうするの。」
「兄弟子はそんなこともおっしゃりましたか。」
おっしゃりましたよ、とため息をついて運ばれてきたうどんをすする。
私自信、女に生まれてから損ばかりだ。綺麗に着飾れと言われるし、学問をするなと言われるし、はては赤や桃色を好きになれとまでいうのだ。人に自分の好みを決められる筋合いは無い。私は空の青が好きだ。特に、夕日がかった紫の空、トキ色に染まった雲の流れる景色が。
「芭蕉さんは、何色がお好きですか。」
ふと気になった。彼はなんの話の流れかもわからずに目を見開いて、ハテナマークを浮かべている。
「私の好きな色?」
「はい」
「日によって違うかな。今日は浅葱色。」
「アサギイロ」
機械みたいに繰り返す。
蕎麦は中々美味しかった。窓の外を見つめていると、暖かい日差しが私を包むようだ。向こうの方には池がある。「あの池、鯉がいるんだよ。」芭蕉さんは立ち上がって、きつねうどんのアゲの切れ端を池に投げた。
ばしゃばしゃばしゃ。
鯉は勢いよくアゲに群がる。ね、と芭蕉さんが頭を傾けた。はあとしか言いようがない。
「何だか良いね、こんな一時。」
「芭蕉さん、一句読んでください。」
「えぇ…あっ…と」
小難しそうに眉間にしわをよせた。五七五ですよ、と忠告を入れる。
「あったかい こんな春こそ 昼寝かな」
まあ確かに季語が入った五七五。だがしかし断罪を決行。
チョップを芭蕉さんの腹に喰らわすと、何か変な擬音で叫んだ。
「あんまりドゥ…ちゃんと五七五なのに」
「いえ、余りにも美観的要素が無かったので。」
ああ、暖かい。もう春なのかと今更確信した。昼寝か…
「芭蕉さん、帰ったら昼寝しますよ。」
彼は驚いたように顔をあげると、意味無く顔を赤らめて、誤魔化すように主人を呼んだ。
「おあいそ、いくら?」
懐から小銭をじゃらじゃらと渡して暖簾をくぐり、それに続くように私も外へ出た。早咲きの桜は満開になっていて、薄碧の空によく映えた。
「私ね、七分咲きの桜よりも、満開の桜が好きなんだ。」
芭蕉さんはにっこりと笑って、舞い落ちる桜の花弁を捕まえた。
「ん?」
「私も満開の桜が好きです。」
少し冷えた風が透きとおって、芭蕉さんはしつこいと感じる程に笑顔を作り、手を引いた。いつもいつも、貴方は私よりも前を歩いている。あまりにも悔しくて、顔が歪んだ気がした。


途中、店屋が立ち並ぶ町に足を運ぶ事にした。かんざしや硝子細工の文鎮。飴なんかも様々売っていて、私はある屋台の前で立ち止まった。
キョロキョロとまわりを見渡して歩いていく彼を無視して店主を呼び掛ける。
私に話しかけているはずの言葉は、独り言の様に虚しくなっていた。
店主が荷物を包む様子を呆けた様に見ていると、彼はやっと気づいて近寄った。
「曽良、駄目だよ一人になっちゃ…」
「これ、あげます」
渡した紙の袋の中には浅葱色の手拭い。
「…明日は違う色が好きかもよ?」
じゃあまた買ってきます。そう言って彼に背を向けた。後ろから芭蕉さんがにやついてるとわかると、顔から火が出そうだ。足は早く動いた。
芭蕉さんは笑いながら私を呼ぶ。

帰り道には他愛のない話をしていた気がする。変な感情に押し流されそうになっていて、まともには聞いていなかった。
「曽良?聞いてるの?」
会話中、何度もそう聞かれて、はぁとかはいとか曖昧な返事を繰り返していたが、また旅に出たいとほざいている。
「曽良、また一緒に来てくれる?」
「おや、おなごらしくしろと言ったのはあなたでしょう」
「それとこれは別物なのっ」
「もう歳も過ぎたんだから、前回が最後の旅と決めたでしょう。ジジイはジジイらしく、縁側で茶でも飲んでなさい」
ぶぅと拗ねた表情で、小石を蹴り飛ばした。ぶつぶつ文句を垂れるのはいつものことだ。昔とった杵柄だとかまだまだ若いとかは長々と聞かされているので、もうこれ以上聞く必要は無かった。
溜め息は重く、口からこぼれる。

「そういえば私、曽良の小さい頃の話を聞いてみたい。」
「え?」
「だって、また今度また今度で全然教えてくれないじゃない。私、君がどこで育ったのかさえ知らないよ?」

ドキリと胸が響いた。予想外の展開だ。
自分でもわかるほどに鼓動は段々と早くなる。
作品名: 作家名:かるろ