名もないお話二幕目
そうして数日が過ぎたある日。
ひとりのホクレアの少女が、長い三つ編みを揺らし、声をかけてきた。
確か、『大巫女』と呼ばれていた少女だ。名は『昴』といっただろうか。
「やあ! もう身体の方は平気?」
アゼルプラード語で話しかけられて一瞬驚いたが、すぐに表情を整える。
「もう、大丈夫だ。……君たちには、感謝している」
「うん、ぼく達もキミ達がいっぱい働いてくれるようになって助かってるよ」
ベルカ達に協力するのに何人か付いていかせちゃったから、と大巫女──昴は笑う。
「ああ、そういえば、キミ達の仲間が2人見当たらないんだ。知らないかな」
そう尋ねられ、数日前の会話を思い出す。
まさか、本当に決行したのだろうか。
「……ここを、出て行ったのだと思う」
「ええっ!? どういうこと!?」
驚く昴に、彼らと話をしたときのことを説明した。
「そうなのか……。案内もなしに出て行ったら、助かりっこないのに……」
「え?」
「……来るときは十六夜に案内させて避けたみたいだけど、途中、色んな罠があるんだよ」
困ったように昴が眉尻を下げる。
「ここのところの騒ぎで雪虎も気が立ってるし……たぶん……もう石の都には戻れないんじゃないかな……」
そう言って、昴は悲しそうに目を伏せる。
自分たちを脅かしていた者たちでも、その死はやはり悲しいのだろうか。
「君たちが……気にすることじゃない。きっと、覚悟して出て行ったはずだ」
言葉をかけると、昴は顔を上げて「そうだね」とだけ呟いた。
しばし沈黙が流れたが、暗い雰囲気を嫌うように、昴が殊更明るい声を上げた。
「そうだ! キミさ、ぼく達の言葉覚えようとしてるんだって?」
「え……あ、その、まあ……」
何故だか少々照れくさくなってしまい、しどろもどろになりつつ頷く。
「ぼくはそっちの言葉も分かるし、知りたい言葉があったら教えてあげるよ!」
天狼も石の都の言葉分かるけどきっと厳しいよ、と笑いながら昴が言う。
少し迷った後、意を決して口を開く。
「なら……厚意に甘えて、ひとつ、教えて欲しい言葉がある」
知りたくても、どう教えてもらえばいいのか分からなかった言葉。
ふう、と息をついて、今まで磨いていた壁に凭れて座る。
なかなかこき使ってくれる。
もっとも、この程度で食事も風呂も寝る場所も提供してもらえるのだから、自分たちの立場を考えれば随分と良い待遇だろう。
この先どうなるかは分からないが、今は体調を戻しつつここで働くほかない。
足音に振り向くと、いつもの女がまた水を持ってきてくれたのか近付いてくる。
傍にそっと膝を着くと、その水を差し出した。
『水』
教えてもらった言葉は忘れていないと伝えたくて、ひとことホクレア語を口にする。
すると、クスリと笑って女が頷いた。
その笑顔に、自然とこちらの表情も柔らかくなる。
水を受け取り、少し迷った後、顔を上げて女を見つめる。
じっと見つめられ、女が戸惑ったように首を傾げた。
ひとつ、教えてもらった言葉。
今ここで、伝えるために。
『……ありがとう』
途端に、女が驚きに目を瞠る。
そうして、嬉しそうに顔を綻ばせた。
今まで見たこともないくらいの綺麗な微笑みに、心臓の鼓動が跳ねた気がした。
『どういたしまして……』
昴が「ありがとう」と対で教えてくれた言葉が、女の口から発せられる。
頬が僅かに赤みを帯びているように見えたのは、自分の思い込みなのだろうか。
そうでなければいい、と、そう思ってしまう理由すら分からないまま、女の微笑みをただ見つめていた。