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懐柔しようとしてみてよ

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 室内に自分以外の気配が訪れたのを感じて、嫌な奴が来たな、と思った。

 いつも僕の側に付いていてくれる女性が所用で席を外したのを見はからって来たのだろう、その男。こんな薄汚れた場所でもしみひとつない白いスーツ姿。嫌な奴が来たな、としか思えない。彼が僕と一対一で向かい合いたい目的は何なのだろう。
「僕に何か用?鏡君」
「ふふ、君みたいな年の子が、日がな一日ずっと部屋の中にいるのって不健康じゃないかなと思ってね…。俺と遊ばない?」
 こちらを苛つかせようとしているのか、単に本当に暇を持て余しているとでもいうのか。どちらにせよ、この男は完全に分かって言っているのだろうな、と思うと腹がたちもしない。挑発というほどでもない、目的のない嫌味。そんなものもいなせないような自分なら、今この地位にいなかっただろう。
「お誘いありがとう。でも遠慮しておくよ」
「そんな気分じゃない?」
「うん、そうだね」
 なんのひねりもないストレートな断りに、彼はつまらなそうな顔をしてみせた。そんな表情のひとつまで、やけに芝居がかって見えるのはこちらが彼を信用していないからか。それともこの男個人の持つ雰囲気のせいだろうか。話しながらも完全にはパソコンの画面から目を離さない僕を、鏡君は笑ったようだった。少しだけ空気が動き、彼の耳飾りがしゃらりと音をたてて揺れた。
「つまらないなぁ、俺は君と遊んでみたいんだけど」
「今度ね」
「今度、ねえ。ね、ちゃんと意味わかって言ってる?」
「っ、」

 予想以上に近くでかけられた声に顔を上げる。視線をあわせてこそいなかったが、警戒を怠っていたつもりはない。けれど一瞬で随分つめられた距離、彼はもう僕のすぐ隣にいた。白いスーツが僕のパソコンからの光を受けて青く色づいている。至近距離で顔を覗き込むようにされてぞっとする。見つめてくる顔は笑みを刷いているが、油断はできない。この男は上の住人だ。何を考えているのかわからない。
 さらりと横髪を掬われて、生理的な嫌悪感が走った。親しくない人間の指、知らない香水の香り。そうしたものを厭う僕に気づいたのか、彼は喉の奥で笑った。
「案外潔癖なんだね、MAKUBEX、いや、らしいのかな?」
 俺は君の事はほとんど知らないからわからないな、などとわざとらしいことを言いながら、まだ僕の髪を弄ぶ彼に、今度こそ苛立ちが生まれた。こちらが嫌がっているのを分かってやり続けているのだから、不愉快だと思ってしまうのは仕方ないと思う。露骨に眉を顰めてやると、返って面白いと言わんばかりに笑みを深められた。嫌な奴だ本当に。そうして彼が続けた言葉に、また一段階不快になる。

「この程度の接触がそんなに嫌なんじゃ、とても俺がしたい遊びのお相手は願えないね」
「は、」

 そうまで言われて意味が分からない程、僕も初心ではない。耳年増でしかないことは否定しないけれど。治安の悪さも手伝ってか、このあたりの人間は欲をはらせれば相手の性別は問わない者も割といる。むしろ後腐れがないからと、積極的に少年を狙う輩もいる。けれど、彼がそういう嗜好の持ち主だとは思っていなかった。 
 この男はこの自分をそういう対象として見ていたのか、と理解すると本格的に胸が悪くなった。嘗められていると感じた。僕が守らなくてはならない、己の身さえ守れず強者に蹂躙される下層の街の子供達。そういうかよわい存在と同一視されたのだろうと思った。ようは簡単に組み敷けて弄べる程度の力量しかない、と見なされたということだろうと。
 僕が不快や警戒以上の感情を持ったと察したのだろう、肩をすくめて彼は触れる手を離した。けれど近すぎる距離は保たれたままだ。可能なら払いのけてしまいたい凶暴な気分を押さえるのに、少し力が要った。
「そんなに怒らなくてもいいのに」
「君は…」
「でも君の嫌がってる顔って可愛いよ。そういう子って貴重だと思うな」
 いいこと知った、来たかいがあったと言ってのける男に冷たい視線を放つ。もう怒りでは無い。むしろ呆れてしまったのだ。もとから喰えない男だという認識はあったけれど、もはや完全にこの存在は僕の理解の範疇外にあると悟った。そんな相手の発言に振り回されるなんて、馬鹿馬鹿しい。
「でもMAKUBEX、そんな風だと辛いんじゃない。色んな意味でさ」
「……別にそんなことないよ」
 そもそも言われるほど潔癖という性質ではない、という意味でも、辛いだろうという言葉への返事としてもだ。別にそんなことはないのだ。そう思わせておけば気を遣って近づかないでくれるというなら、いっそ病的なほどに潔癖な少年を演じてみせてもよかったが、逆に喜んで遊ばれそうなので真実を教えてやる。別にどうしても他人との接触を厭うというわけではないし、言外に含みを持って辛かろうと揶揄される程苦しい立場にいるとも思っていない。むしろ清らかな自分などとちゃんちゃらおかしいと思うくらいには、己を知っている。
「ふうん、そうなんだ。じゃあ俺が嫌い?」
(時間の無駄だな)
 嫌いかと尋ねるわりには、僕がどんな返事をしても彼が表情を変えるとは思えなかった。彼は言いたい事を言っているだけで、この会話に意味はないのだと理解する。きっと本当にただの暇つぶしのつもりなのだろう。別に嫌いじゃないよ、と答えながらパソコンに視線を戻す。嫌いでないのは本当だ。別に好きでもないけれど。大体、自分たちは好きとか嫌いとかいう感情が行き来する関係ではないだろう。
「つれないね、俺は君のこと好きだよ」
(ふざけてるのか?)
「、とかね」
「……やっぱり」
 彼が冗談とも本気ともつかないように見せるのが上手いことくらい、分かっている。真剣に受け取るなんて莫迦らしい。
 くすくす笑いながら、なおも隣に居続ける鏡君に、早く出て行ってくれないかなと僕は思った。気が散る。僕といたって面白い事などないだろうに。そう考えていると、見透かしたような言葉を寄越された。君は観察しがいがあるよ、と言われてげんなりする。

「好きになるかも。本当に」
「やめて、本当に」

 思わず反射的に拒否してしまう。でもだって、こんなことを言われたらしかたがないじゃないか!レスポンスの早さにか、不快を教えるために作った顔ではなく素で嫌だという表情を出してしまった僕にか、彼はちょっと目を丸くした。あ、珍しいと思っていると、声を上げて笑われる。
「そんなに本気で嫌がられると傷つくなぁ」
「ごめん、でも本当に嫌」
「ひどい。俺に好かれるのって、君にとってもそんなに悪い話じゃないと思うんだけど」
 鏡君が好きとか嫌いとかいう感情で本気で動く人間ならね、と僕は心の中だけで呟く。情で真実なびくようならそういう手を遣う甲斐もあるが、そうでない相手と恋愛要素を含む駆け引きをしたって意味がない。
 お互いにそんなことは分かっている。所詮相容れない立場だ。それなのに。

「懐柔しようとしてみてよ。やってみる価値、あるんじゃない?」

 傲慢な台詞とは裏腹に、まるで恋人にするような優しさで手をとられる。御伽噺の王子めいたうやうやしい仕草で、そっと指先に唇を寄せられて。

 今度こそ遠慮なく払いのける。
作品名:懐柔しようとしてみてよ 作家名:蜜虫