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千歳に犬耳と尻尾が生えてきた話

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明日は学校が休みだから久々に千歳の家でのんびりする予定だった。なのに突然会えなくなっただなんて、どういうことだろう。いつもより少しだけ高く、うわずったような声が未だに頭の中でこだまする。あの万年暇男に一体どんな用事があるというのだ。自慢でも惚気でもないが、千歳が俺との約束を断るなんてありえない。

“すまん、家にはこんで”

 そう言われると行きたくなるじゃないか。


 気づいたらもう千歳の家のドアの前にいた。もちろん俺はわかった、と断ってからきたのだから千歳は知らない。来るなと言っていた人間が玄関に立っていたら、千歳は怒るだろうか。仕方ないと諦めてくれるだろうか。傾いた日の光が玄関に反射し、古びたチャイムがドア越しに聞こえる。が、ドアが開く様子はない。まさか本当に出かけているのだろうか。もう一度押すと、ほのかに足音が聞こえる。居留守か。ぐっと下唇を噛みながら、もう一度チャイムを押す。さらにもう一度。すると、どたどたと千歳の足音がして鍵の開く音が廊下に響いた。

「…よお」

 千歳は俺の顔を見るなり目を点にして、急いでドアを閉めようとした。

「おいこら閉めんな入れろや」
「こ、こんでって言ったと…!」

 千歳はドアの隙間に手を入れる俺を必死で拒む。しかし、負けずに足をつっこみ、無理矢理開こうとする俺に呆れたのか、ゆっくりと玄関のドアを開けてくれた。千歳は何故か頭にタオルケットを被っていた。妙に落ち着きもないし、心なしか顔も赤らんでいるような気がする。風邪か。会えばうつると思ったのだろう。千歳にしては珍しい気遣いというか、そういったことが出来ると思っていなかったので素直に驚く。風邪なら何か看病らしいことをしなければならない。歩き回っているところを見るとそう酷いようでもないようだが、頭からタオルケットを被らなければならないくらい寒気を感じているなら発熱しているのかもしれない。熱は計ったのか?と聞くと、千歳はぽかんとした間抜け顔をこちらに向けるだけで何も言わない。手を額に伸ばし触ってみても、それほど変わった様子は感じられなかった。とりあえず寝かせた方がいいと思い、被っているタオルケットに手をかけた瞬間、千歳は過剰なほどに驚いて後ずさった。

「熱あるんやったら寝た方がええで」
「熱なんて、なか」
「ちゃんと計らなわからんやろー。とりあえずそのタオルケット取れ」
「…いや」

 タオルケットにぎゅうぎゅうと皺が出来るくらい固く握りしめる。どうして頑なにそこまでそのタオルケットに固執するのか、全くわけがわからなかった。ええ加減にせえよ!と勢いよくそれを剥ぎ取ると、黒くうねる髪の間に茶色い何かが見えた。よく見るとそれは近所の犬の耳によく似ていて、ふわふわと揺れている。千歳は今にも泣きそうな顔で俺の名前を呼び、頭の上の耳はぺったりと悲しそうに垂れるのだった。さっきの千歳以上にだらしなくぽかんとした顔をした俺は、自分でもありえないと思いながらも「ああ熱が出ると犬の耳が生えるのか」と思った。うまく現実が認識出来なくて、夢でも見ているのだと呆然とする。



 千歳が一生懸命事の成り行きを話してくれたが、本人もうまく呑み込めていないこの状況を俺が呑み込めるはずがなかった。朝起きたら犬の耳が生えていた、なんてことが起こり得るのだろうか。ためしに耳を引っ張ってみると、しっかり肌についているようで痛い痛いと漏らす。更に尾骶骨の辺りからは耳と同じ色の尻尾が生えており、こちらもしっかりとくっついている。

「俺、もうどげんしていいかわからんと…」

 沈んだ声とともに、耳と尻尾が垂れる。元々千歳は犬っぽいなと思っていたから、より犬らしくなったと感じる。柔らかな耳を手で包むとくすぐったそうに身体をすくめ、尻尾を触るとするりと手から逃げる。耳と尻尾も見慣れると、不思議とさっきまでの困惑は薄れていく。

「千歳、伏せは」

 好奇心が口から出る。千歳は少し不快そうな顔をしたが、俺の中に何か言いようもない感情がふつふつと湧いてくる。適当にそこら辺に転がっていたベルトをゆるく千歳の首に巻いた。首輪に見えないこともない。千歳を四つん這いにさせると、後ろ尻尾が不満そうに揺れている。たまに千歳が俺の了承もなしに覆いかぶさって、盛りだす気持ちが少しわかった気がした。首輪もどきをきゅっと引っ張ると、短いうめき声を出して二つの瞳をこちらに向ける。濡れたそれらはしっとり熱を帯びていた。千歳は四つん這いになった身体をゆっくりと這いつくばらせると、唇をきつくしめた。いいこ、いいこ。頭を撫でてやると、幾分機嫌はよくなったらしい。萎えていた尻尾がかすかに揺れている。声を発する度に敏感に動く犬のような耳を軽く摘まむと、固く閉めた唇の隙間から漏れ出す音はひどく扇情的だった。

「こ、こげんこと…」
「こーら。わん、やろ」

 摘まんだ耳をくいくい引っ張ると、千歳は顔をしかめた。弱々しい鳴き声が聞こえる。いいこ、いいこ。身体中を撫でて俺は褒めてやる。猫とは違い従順だなと思った。いつも自分勝手に行動する千歳が、大人しく俺のいうことを聞くというのは気持ちがいい。伏せの体勢のままでこちらを見る頼りない頭。そういえば普段はこいつのつむじなんて見ることは滅多にないなと思いながら、クセの強い髪に触れる。俺の手のひらが動く度に尻尾も揺れる。突然犬の耳が生えて尻尾が生えて、俺もどこかおかしくなったのだろうか。何故だか安心するような気分になる。というのは、千歳が俺にあまり嬉しいだとか悲しいだとか、そういった感情表現をあまりしないからなのだ。耳が動けば俺の声は聞こえているのだろうなとわかるし、尻尾がぱたぱたとしているのを見れば怒っているのかとわかるこの状況は、異常なのに俺にとってはとてもありがたい。

「千歳が犬やったらよかったのになあ」
「なしてそげんこつ…」

 あ、落ち込んだ。千歳が初めてかわいいと思った。また機嫌をとろうと、千歳の鼻先に唇を近づける。と、千歳はいきなり俺を突き飛ばした。そのままバランスを崩し、後ろに倒れる。首にかけたベルトを乱暴に叩きつける。

「俺は本当に困っとうとよ、白石」

 千歳は怒った。本気で怒っていた。腕を勢いよく掴むと、俺を無理矢理立ち上がらせて帰って、と一言いうと、その場にしゃがみこんだ。さっきまであんなに無遠慮に動かしていた手は震えて動かない。空気が凍ったように冷たく、時計の秒針が動く音だけが耳に響く。千歳はまたタオルケットを深く被り、ちいさくなる。中からは息を殺すような呼吸音しか聞こえない。掴まれた腕が熱いのに、掌はどんどん冷えていく。やっぱり俺もどうかしていたのか。犬だったらよかった、なんてこんな状況でいうことじゃないだろう。犬だったらじゃなくて、そうやって千歳の思っていることがわかることが嬉しいって言わなければいけないのに。