【No.6】生死の境
■ ■ ■
ククク…ギュウゥゥゥ―――…。
本の山の向こうで、奇妙な音がした。
かつては時代を代表する知識人が集い、世界を変えようとする熱意に満ちた人々が足げく通った、崇高なる知識の殿堂に、
グゥゥゥ…キュルルル――。
また音がした。今度は本に埋もれかけたベッドの中からだ。
今や埃とともに林立する、積み上げられた本の柱の陰で、呻く紫苑の声がした。
「お……なか…すいたァ…」
柱のこちら側でも、ベッドの上で芋虫のようにうごめく姿があった。ネズミである。
「……同感…」
人もうらやむ知識の宝庫、かつては図書館だった半地下の部屋で、二つの餓死死体が出来上がりつつあった。
「ねぇ、…ネズミィ…」
「んー…?」
「僕ら何日…食ってないんだっけ…?」
「えーと……」
ベッドに仰向けに横たわりながら、ネズミはぼんやりと天井を見上げる。
「6日目…いや、一週間…だっけ」
「水は、食べ物に入った?」
「…入るかよ」
「だよねー…」
紫苑のため息が、本の向こうのソファからこぼれる。
「なんで…こんな事になっちゃったんだろう」
「えーと…」
ネズミがまた呻く。空腹で頭がうまく回らない。
「――ああ、そうだ。アレだ」
「どれ?」
「アレアレ、劇場の支配人が、いきなり言ってきたんだよ。『ちょっとばかり小金が手に入ったんで、舞台に空いていたでっかい穴の修復をする』って」
「…ああ、そうか…」
「それで、改修工事のために一週間、劇場が封鎖になったんだ」
「そうだった、そうだった」
魂が半分抜けかけた声で、紫苑も頷いた。
「舞台を直す金があるんだったら、僕らに飯くらい奢れって君が怒って、支配人から晩ご飯をご馳走してもらったんだったね」」
「そう。やっすいカレーとケーキだったけどな」
「腹一杯食べたの、何ヶ月ぶりだっけな。……うまかったなぁ」
過ぎ去った過去の至福を懐かしむように呟いた後、部屋に沈黙が落ちる。
「……アレが、最後か」
「うん」
ただでさえ、その日の食事を手に入れるのに苦労する、ぎりぎりタイトロープな生活である。
たまにネズミにおいしい話が舞い込んでくるが、ここ最近はそれもなかった。
紫苑は先週、イヌカシのところの犬たちをめいっぱい綺麗にしてしまったから、今週は全くお呼びがかからない。
従って二人とも無職無給。
おまけに唯一の定職と言えるネズミの舞台仕事が、一週間もポカリと空いてしまい、二人は瞬く間にその日の食事にも困窮した。
元々貯め込む性格ではないネズミと、クロノス暮らしが長く、経済感覚に乏しい紫苑である。
一週間くらい何とかなると笑いつつ、何ともならなかった。
元来、この西ブロックの市場で流通している食品は、壁の向こうのNO.6から流れの品がほとんどだった。
クロノスでは一週間放置しても腐らなかった新鮮な生鮮食料品が、ここでは一日で腐る。
つまりクロノスからロストタウンを経て、さらに残り物が西ブロックに流れ着く頃には、賞味期限などとっくにすぎているのだ。
おまけに冷蔵庫なんて高級品、スクラップでしかお目にかかったことはない。
だからここの住人は、その日得た食べ物はその日のうちに、がモットーである。
現金もしかり。
下手に貯め込んでいると噂が立てば、隣人や家族にすら命を狙われる物騒な場所だ。
江戸っ子ではないが「宵越しの金は持たねぇぜ」と豪語しなければ、生き残ることも難しいのが西ブロックという町だった。
そしてネズミも、しっかりここの住人だ。
西ブロックに名高い俳優であるはずの彼は、まったく金を貯め込んではいなかった。
たかが一週間と甘く見た紫苑は、食べるものがなくなった日に、ネズミに問いただしたが、
「ない袖は振れません。陛下」と優雅に両手を振られてしまった。
とりあえず水だけは清涼な湧き水があるから、渇いて死ぬ心配だけはない。一週間経てばまた仕事があるのは確定しているのだから、水だけ飲んで、あとはおとなしく本でも読んで過ごそうと決まった。
それが四日前の事。
昨日、支配人から連絡があった。
待望の劇場再開かと思いきや、
「修復を頼んで大工がヘマやりやがって、よけいに穴がデカくなった。悪いが再開は一週間延期だ。畜生、こっちだって商売上がったりなんだ」
二人の根性と忍耐は、そこで燃え尽きた。
「人間が…餓死する瞬間って…どんな気分なんだろう?」
紫苑が魂の抜けた声で聞く。
「その前に、気絶してるだろ…」
「ああ。そっか。そうだよね…」
「一週間…と、甘く見たのは失敗だったな」
「いや、本を読んだのが間違いだったんだよ」
紫苑のつぶやきに、ネズミは「なんで?」と天井を見ながら聞く。
「消費カロリーが、違うんだ」
「は?」
「読書ってつまり勉強だろ? 勉強時のカロリー消費量は、体重1kgに対し、0.025calだ。これに僕らの体重やら所要時間をかけて、補正計数1.00で計算すると、約531cal。…でも睡眠で同時間使っていたのなら、306calだったんだ。つまり僕らは一日ごとに225calも無駄に消費していたってわけだ」
本の柱越しにネズミの灰の目が、宇宙人でも透かし見るように向けられる。
「……あんた…よくこの状態で、計算なんかできるな」
「え、何で?」
「いや、……いい」
宇宙人と話すのもかったるくて、ネズミは首を横に振る。クロノスの住人への偏見が強まったのだけは間違いない。
「ちなみに、セックスすると消費カロリーどのくらい?」
冗談とも嫌みともつかずネズミが聞くと、紫苑も天井を見ながら「えーと…」と計算している。本気で計算してやがる。
「一回45分と仮定して、300calの消費だから――」
「まじめに計算してんな!」
「あ、放出する精子の分、引かなきゃ」
「もうやだ、こいつ……」
ネズミは咽び泣いた。水分だけは摂っているから、流れる涙は惜しくない。ややあって、こちらの気配に気づいた青年の声がした。
「ネズミ……ごめんよ」
「何がだ?」
「いま君に迫られても、僕…応えられないよ」
高い天井が涙で歪んだ。
「…安心しろ。俺だって腹が減って、性欲どころじゃないから」
「そっか、そうだよな」
ふう、と軽いため息が漏れる。やがてまた言った。
「でも不思議だなぁ」
「なにがぁ?」
紫苑のつぶやきに、だんだん腹が立ってきたネズミの声に険が混じる。
「どうして僕、勃起しないんだろう?」
「ハァ?!」
「人間、死にそうになると子孫を残そうとする本能で、性欲が増すって言うだろ? 男は勃つとも」
なんでこんな空腹を抱えて、こんな話をしてるんだこいつは。いや、俺らは。
「決まってんだろ。俺とあんたじゃ、逆立ちしたって子孫は残せないからだ」
「あー、そっかー……」
紫苑はさも残念そうにつぶやき、またもや言った。
「ネズミの産む子供、可愛いだろうになぁ…」
灰の目が一度閉じて、首を捻ってソファの方を見た。
「…もしもし紫苑さん? 天国が近くに見えてますか?」
「ううん。まだ」
「そっか。もうちょっとだな」
ククク…ギュウゥゥゥ―――…。
本の山の向こうで、奇妙な音がした。
かつては時代を代表する知識人が集い、世界を変えようとする熱意に満ちた人々が足げく通った、崇高なる知識の殿堂に、
グゥゥゥ…キュルルル――。
また音がした。今度は本に埋もれかけたベッドの中からだ。
今や埃とともに林立する、積み上げられた本の柱の陰で、呻く紫苑の声がした。
「お……なか…すいたァ…」
柱のこちら側でも、ベッドの上で芋虫のようにうごめく姿があった。ネズミである。
「……同感…」
人もうらやむ知識の宝庫、かつては図書館だった半地下の部屋で、二つの餓死死体が出来上がりつつあった。
「ねぇ、…ネズミィ…」
「んー…?」
「僕ら何日…食ってないんだっけ…?」
「えーと……」
ベッドに仰向けに横たわりながら、ネズミはぼんやりと天井を見上げる。
「6日目…いや、一週間…だっけ」
「水は、食べ物に入った?」
「…入るかよ」
「だよねー…」
紫苑のため息が、本の向こうのソファからこぼれる。
「なんで…こんな事になっちゃったんだろう」
「えーと…」
ネズミがまた呻く。空腹で頭がうまく回らない。
「――ああ、そうだ。アレだ」
「どれ?」
「アレアレ、劇場の支配人が、いきなり言ってきたんだよ。『ちょっとばかり小金が手に入ったんで、舞台に空いていたでっかい穴の修復をする』って」
「…ああ、そうか…」
「それで、改修工事のために一週間、劇場が封鎖になったんだ」
「そうだった、そうだった」
魂が半分抜けかけた声で、紫苑も頷いた。
「舞台を直す金があるんだったら、僕らに飯くらい奢れって君が怒って、支配人から晩ご飯をご馳走してもらったんだったね」」
「そう。やっすいカレーとケーキだったけどな」
「腹一杯食べたの、何ヶ月ぶりだっけな。……うまかったなぁ」
過ぎ去った過去の至福を懐かしむように呟いた後、部屋に沈黙が落ちる。
「……アレが、最後か」
「うん」
ただでさえ、その日の食事を手に入れるのに苦労する、ぎりぎりタイトロープな生活である。
たまにネズミにおいしい話が舞い込んでくるが、ここ最近はそれもなかった。
紫苑は先週、イヌカシのところの犬たちをめいっぱい綺麗にしてしまったから、今週は全くお呼びがかからない。
従って二人とも無職無給。
おまけに唯一の定職と言えるネズミの舞台仕事が、一週間もポカリと空いてしまい、二人は瞬く間にその日の食事にも困窮した。
元々貯め込む性格ではないネズミと、クロノス暮らしが長く、経済感覚に乏しい紫苑である。
一週間くらい何とかなると笑いつつ、何ともならなかった。
元来、この西ブロックの市場で流通している食品は、壁の向こうのNO.6から流れの品がほとんどだった。
クロノスでは一週間放置しても腐らなかった新鮮な生鮮食料品が、ここでは一日で腐る。
つまりクロノスからロストタウンを経て、さらに残り物が西ブロックに流れ着く頃には、賞味期限などとっくにすぎているのだ。
おまけに冷蔵庫なんて高級品、スクラップでしかお目にかかったことはない。
だからここの住人は、その日得た食べ物はその日のうちに、がモットーである。
現金もしかり。
下手に貯め込んでいると噂が立てば、隣人や家族にすら命を狙われる物騒な場所だ。
江戸っ子ではないが「宵越しの金は持たねぇぜ」と豪語しなければ、生き残ることも難しいのが西ブロックという町だった。
そしてネズミも、しっかりここの住人だ。
西ブロックに名高い俳優であるはずの彼は、まったく金を貯め込んではいなかった。
たかが一週間と甘く見た紫苑は、食べるものがなくなった日に、ネズミに問いただしたが、
「ない袖は振れません。陛下」と優雅に両手を振られてしまった。
とりあえず水だけは清涼な湧き水があるから、渇いて死ぬ心配だけはない。一週間経てばまた仕事があるのは確定しているのだから、水だけ飲んで、あとはおとなしく本でも読んで過ごそうと決まった。
それが四日前の事。
昨日、支配人から連絡があった。
待望の劇場再開かと思いきや、
「修復を頼んで大工がヘマやりやがって、よけいに穴がデカくなった。悪いが再開は一週間延期だ。畜生、こっちだって商売上がったりなんだ」
二人の根性と忍耐は、そこで燃え尽きた。
「人間が…餓死する瞬間って…どんな気分なんだろう?」
紫苑が魂の抜けた声で聞く。
「その前に、気絶してるだろ…」
「ああ。そっか。そうだよね…」
「一週間…と、甘く見たのは失敗だったな」
「いや、本を読んだのが間違いだったんだよ」
紫苑のつぶやきに、ネズミは「なんで?」と天井を見ながら聞く。
「消費カロリーが、違うんだ」
「は?」
「読書ってつまり勉強だろ? 勉強時のカロリー消費量は、体重1kgに対し、0.025calだ。これに僕らの体重やら所要時間をかけて、補正計数1.00で計算すると、約531cal。…でも睡眠で同時間使っていたのなら、306calだったんだ。つまり僕らは一日ごとに225calも無駄に消費していたってわけだ」
本の柱越しにネズミの灰の目が、宇宙人でも透かし見るように向けられる。
「……あんた…よくこの状態で、計算なんかできるな」
「え、何で?」
「いや、……いい」
宇宙人と話すのもかったるくて、ネズミは首を横に振る。クロノスの住人への偏見が強まったのだけは間違いない。
「ちなみに、セックスすると消費カロリーどのくらい?」
冗談とも嫌みともつかずネズミが聞くと、紫苑も天井を見ながら「えーと…」と計算している。本気で計算してやがる。
「一回45分と仮定して、300calの消費だから――」
「まじめに計算してんな!」
「あ、放出する精子の分、引かなきゃ」
「もうやだ、こいつ……」
ネズミは咽び泣いた。水分だけは摂っているから、流れる涙は惜しくない。ややあって、こちらの気配に気づいた青年の声がした。
「ネズミ……ごめんよ」
「何がだ?」
「いま君に迫られても、僕…応えられないよ」
高い天井が涙で歪んだ。
「…安心しろ。俺だって腹が減って、性欲どころじゃないから」
「そっか、そうだよな」
ふう、と軽いため息が漏れる。やがてまた言った。
「でも不思議だなぁ」
「なにがぁ?」
紫苑のつぶやきに、だんだん腹が立ってきたネズミの声に険が混じる。
「どうして僕、勃起しないんだろう?」
「ハァ?!」
「人間、死にそうになると子孫を残そうとする本能で、性欲が増すって言うだろ? 男は勃つとも」
なんでこんな空腹を抱えて、こんな話をしてるんだこいつは。いや、俺らは。
「決まってんだろ。俺とあんたじゃ、逆立ちしたって子孫は残せないからだ」
「あー、そっかー……」
紫苑はさも残念そうにつぶやき、またもや言った。
「ネズミの産む子供、可愛いだろうになぁ…」
灰の目が一度閉じて、首を捻ってソファの方を見た。
「…もしもし紫苑さん? 天国が近くに見えてますか?」
「ううん。まだ」
「そっか。もうちょっとだな」
作品名:【No.6】生死の境 作家名:しい