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【No.6】生死の境

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 本の柱の向こうにある、穴の空いたソファで、紫苑もふとこちらを顧みる。
「ネズミ。せめて君の顔を見ながら死にたいな」
 ゆっくりと伸ばされた片手は頼りない。その手に向けてネズミも手を伸ばした。残念ながらあと数センチ足りなかった。
 セックスはとてもする気にはなれなかったが、ネズミも青年の温もりを感じながら死にたいのは同感だった。
 寂しいのはイヤだ。冷たいのはイヤだ。せめて紫苑と抱き合って、温もりを感じながら、夢見るように死ねたら幸せかと思う。
 彼のきれいな藤色の瞳を見ながらなら、こんな人生も悪くなかったと思えそうなのが、自分でも不思議だった。
 藤色の―――
 と、ネズミの手がパタリと床に落ちた。
「ネズミ?」
「……思い出した」
 力尽きたのかと思いきや、低い声でネズミが唸った。
「なにを?」
 不思議そうな紫苑の前で、彼は渾身の力をふるってベッドから起きあがる。
「おい紫苑、動けるか? イヌカシんとこ行くぞ」
「え? なんで?」
「奴んとこに行ったら、餓死せずに済むからだ」
 いつもの彼からはほど遠い弱い声ながらも、ネズミは力強く断言する。
「ダメだよ!」
 だが何を思ったか、紫苑が狼狽した声を上げた。
「それはダメだ! いくらネズミでも許されない。やっちゃいけないことだ!」
「は?」
「ブチもクロもシロも優しい良い子なんだぞ。第一、僕らのこの状態で、どうやってすばしっこい彼らを捕まえて、鍋に放り込むんだよ。出来ない出来ない。無理に決まってる。いや、出来たって僕はやりたくない!」
「………誰が犬鍋作るって言ったんだよ」
「え、違うのか?」
 藤色の目がきょとんと瞬いた。
「違う。イヌカシにちょっと前に貸しがあったんだ。それを取り立てれば、俺たちの食い物が買える」
「何で今まで言わないんだ!」
 ガバッと紫苑がソファから飛び上がった。なんだ十分元気じゃないか。
「今あんたの目を見て思い出した」
「なんで僕の目?」
「藤色のセーターだ。劇場で客に貰ったもんだが、イヌカシに見せたらあいつ、気に入ったって分捕りやがったんだ」
「藤色のセーター? そんなの彼、着てたかな?」
「奴じゃない。もうすぐ生まれそうな仔犬の寝床の、毛布代わりにするんだと」
「……あー…」
 紫苑も微妙な顔をした。さすがはイヌカシ。自分の服よりまず犬か。
 いや、仔犬を守る彼の姿勢は正しい。仔犬は正義だ。
 その点は異論ない。けれどセーターの代金は受け取らなければいけない。むろん、母犬からではなくイヌカシからだ。
「よし行こう。すぐ行こう。今行こう。ほらネズミ! ぼーっと突っ立ってないで行くぞ…!」
「な…なんか急に元気になってないか?」
「死力を振り絞ってるんだ。この機を逃したら飢え死に確定だ。死んだつもりで取り立てるぞ。この際イヌカシでも容赦しない。抵抗するなら身ぐるみ剥いでやる。生きるか死ぬかだ、クロノス出身をなめるな」
「いや、クロノス関係ないから」
 がぜんやる気になった紫苑に、言い出しっぺのネズミの方が腰が引ける。
 やばい奴に火をつけ、何か怖いものを引っ張り出してしまったのかもしれない。
 いったん目標が定まったら紫苑は強くたくましかった。
 ネズミは死んでも認めないだろうが、キュンとくるほど漢らしかった。

 とにもかくにも二人は大急ぎで――もとい、よろよろしながらだがイヌカシの住む廃墟のホテルに向かった。



    ■ ■ ■


 今にも崩れそうな廃墟のホテルに、二人が這々の体でたどり着いたとき、出迎えたのは黒い大きな犬一匹だった。
「あれ? イヌカシ留守かな? こんにちはクロ」
 ワン、と黒い犬は紫苑の挨拶に、答えるようにしっぽを振った。
「お前のご主人は出かけてるのかい?」
「おい、犬に聞いたってしょうがないだろ」
 ネズミは止めたが、クロと呼ばれた犬はワオンと頷く。
「そっか…今日は夕方までいないのか」
 ちゃんと会話が成立している。ネズミは首を振った。が、すぐにポンと手を打った。
「ちょっと待て。ということはチャンスじゃないか」
「家捜しに」と口にしなかったのは、人語を解する犬をはばかってだが、ニヤリとタチの良くない笑みを向けるネズミに、紫苑は困った顔を作る。仕方なく犬の前に膝を突いた。
「そうだ。クロ。君、藤色のセーターって知ってる? 見たことないかな?」
 オウ? とつぶらな瞳を丸くして小首を傾げた犬は、ややあって「付いてこい」と言うように紫苑の服を引っ張った。
「どこに?」
 トコトコと付いて奥の部屋まで行くと、外の寒風が入らない壁の隅に毛布が何枚か折り重なっていた。
 仔犬の姿はなかったが、その寝床の中に藤色のセーターも確かにある。
「ああ、これか。そうか、役に立ったんだ。仔犬達は風邪引かなかった?」
 ワン。
「それは良かった」
 紫苑はうれしそうに頷く。ほのぼのしたやりとりに痺れを切らしていたネズミが割って入ったのはその時だ。
「おい紫苑、あんたここに来た理由、覚えてるか? 腹の具合とか」
「覚えてるとも。――なぁクロ。話を聞いてほしいんだ」
 紫苑は黒犬の目線まで屈んで、その目を見つめた。
 人間に対するとのまったく同じくらい真剣な顔だ。
「このセーター。実はネズミの物だったんだ。それをイヌカシが、生まれる仔犬のために貰い受けた。貰ったものだからお金がどうとか、今更言う方が間違っていると思うんだけど、僕ら今、おなかが減っていて死にそうなんだ。ネズミも僕も仕事がなくて、このまま何も食べなきゃ、本当に死んでしまう」
 言わなくても良いことまで得々と説明する紫苑に、ネズミが眉をひそめてしょっぱい顔をしたが、何も言わない。
 紫苑はパンと犬の前で両手をあわせた。
「お願いだよ。このセーターの代金分だけでいいんだ。イヌカシから払ってほしいんだ。君に力を貸してほしい」
 オウン……と犬のつぶらな瞳が困惑した。
 犬の分際でいっちょ前に対処に困ってるなっつーの。ネズミは内心であきれたが、これも口には出さない。
 挨拶程度ならともかく、こんな込み入った話を犬が理解できるとも思わない。いざとなったら犬の数匹、叩きのめしてでもイヌカシがこの廃屋ホテルのどこかに隠してある有り金を、探し出してやるつもりだった。
 紫苑に言ったら、またややこしくなるから黙っていたが、イヌカシが矯正施設の下級役人と組んで、違法な裏家業をやっている話も掴んでいる。
 さぞやガッポリ貯め込んでいるだろうことは明らかだ。それをこの際、ガッポリ頂く。
 犬を懸命に説得している紫苑の後ろで、ぺろりと唇を舌先が嘗めた。灰色の目を細めると、ひどく酷薄な表情になる。不穏な気配が滲み出したのか、黒犬がピクリとネズミを見上げた。まったく勘の鋭いワン公だ。クロの気配につられて紫苑が顧みたとき、ネズミはもう、たった今まで浮かべていた表情をかき消していた。
「ネズミ?」
「話、ついたか?」
「いや、その…」
 困惑気味に紫苑が犬を見ると、黒犬は仕方なさそうに溜め息を吐いた。それから紫苑の体の横に回り込み、軽く押した。
「え? クロ、なに? 教えてくれるのかい?」
 オン。
「マジかよ…話が通じちゃったよ…」
作品名:【No.6】生死の境 作家名:しい