veil of darkness
虫の知らせを感じて十代はふと空を見上げた。体の中に宿るもう一つの魂が、なにか嫌なことが起こるだろうと告げている。赤いナップザックを背負いなおし、十代は帰路をたどる足を速めた。嫌なことというのは十中八九、覇王のことではないかと思われた。覇王には常に深い闇がまとわりついていたが、それが何かの拍子に零れるようなことがあれば、それは災いというかたちで具現化する。
(おれが帰るまで無事でいろよ)
十代は舌打ちをひとつした。覇王は何も悪いことをしていない。しかし一番傷つくのはいつも彼女であった。彼女は誰よりも優しかったから、その優しさが十代にはつらかったのだ。
十代と覇王はその半身を分けた双子であったが、彼女は生まれつき月を溶かしたような金色の瞳をしていた。活発な十代と違って覇王は闇に魅入られたように大人しく、実際彼女は闇を一身に受けて育った。生まれおちた瞬間から発育不良で病室に繋ぎとめられた彼女を、両親は見ようともせず、寧ろ十代を覇王から引き離そうとしていた。結局彼女は学校にも溶け込めず、家庭にも居場所がなく、ののしられ、庇護するものもいなかった。
十代は覇王を守らなければと思っていた。彼女の背負う大きな闇は、いつか彼女を飲みこむであろう。それを食い止めなければと思っていた。別に正義のヒーローを気取っていた訳ではない。だけど、それが兄として当然のことだと思っていたのは確かだ。
急いで帰宅しても、閑静な住宅地にある自宅は一見どこも可笑しいところはないように見えていたが、十代のその鋭敏な嗅覚は生臭いにおいを感じ取っていた。人を超越した感覚を研ぎ澄ませ、恐る恐る鍵を開けようとするが、そこに施錠はされていなかった。
ドアを引けばそれは簡単に開き、そして彼は足元に倒れている人影を見つける。よく見知った人物であった。
(母さん)
玄関にうつ伏せに倒れていたのは母親であった。いつものようにエプロン姿で、スリッパは片方脱げている。背にはたくさんの切り傷があり、服は真っ赤に染まっていた。刃物で切り付けられたのだろう。
十代はこの事をなんとなく予想していた。素早く家の中に入り、鍵をかける。土足のまま廊下にあがりこみ、まっすぐ突きあたりにある居間に向かった。そこにはテレビから漏れる笑い声が響いていたが、それ以外はまったくの無音だ。ソファには同じく父親がぐったりと座っていて、改めれば喉元から大量の血が零れていた。
「覇王」
十代は妹の名を呼んだ。
「覇王、返事をしてくれ」
十代にとって両親は自分を産み落とした存在にすぎなかった。ましてや人外になった時、その絆は本当に薄く細くなっていたし、それよりも彼には覇王が大切であった。彼女に暴力を振るう両親を憎んでもいた。二人を殺害したのは覇王だろう。遅かれ早かれこんなことが起きるとは思っていたが、それを防げなかったことに苛立った。
「覇王」
ダイニングキッチンを覗いてみれば、食器棚の陰に膝を抱えて蹲っているパジャマ姿の少女を見つける。同い年であったが、発育の差に加えて、性別の差が覇王をより儚げに見せていた。細腕はまだ震え、床に血糊のべったりついた包丁が落ちていた。十代の声に顔を上げた覇王は、どこかぼんやりと、放心した顔をしている。
「怪我はしていないか?」
できるだけ穏やかに話しかけ、しゃがんで目線を合わせるとそっと前髪を撫ぜた。柔らかな栗色の毛は自分と同じように見えてもずいぶんとしなやかだ。包丁を脇に押しやって、ほっそりとした体を引き寄せ、抱きしめる。頬に殴られた痣があった。また父親にやられたのか。彼女にはなにも罪はない。ただ、彼女は闇を引き寄せてしまうだけなのだ。この事故も(事件ではない)覇王の闇に過ぎない。
「痛いところは?」
優しく問うと、覇王はゆるく首を振った。まだ体は震えている。可哀想に、こんなに彼女は弱いから、強い力に突き動かされてしまうのに抗うことができない。彼女は血で汚れた細い指で十代のジャケットを掴んだ。その手を握り返し、手を引いて立つように促す。
「歩けるか?」
素直に頷いた覇王は言葉を失ってしまっている。もう一年ほど、彼女は父親の重圧から声を塞いでしまっていたのだ。そんな痛々しい姿を悲しんでやる余裕は、しかし今は持つことはできず、十代は彼女を連れて台所を出た。
「着替えてこい。ここを出よう」
蜂蜜色をした不安で瞳が揺らぐ。
「大丈夫だ」
十代はそう言って笑ってやることしかできなかった。それで彼女が安心するのならばいくらでも笑うことができたし、こんなことになるだろうとは薄々感づいてはいたから、そこまで動揺もしていない。それに自分には力があった。彼女を守るための力。何も失わない為の力を、もう一つの魂というかたちで十代は持っている。
覇王が身支度を整えている間に、十代も荷物をまとめていた。身を隠すことなら容易いが、それで覇王が怯えて新たな面倒事が起こってしまうのが一番危惧することである。気位が知れた人間の元に行こう、そう思ってヨハンに電話もした。彼は唯一十代の変調を知っているし、暗示をかけずとも協力してくれるだろう。それに彼も不思議な力を持っていることに変わりはなかった。
「そうやっておれを巻き込むの、やめろよな」
「おれだって巻き込みたくて巻き込んでるんじゃないの」
数回のコールのうち、電話に出た彼は溜息混じりに言った。十代は現金をかき集め、母親の部屋から通帳を持ちだして荷物に詰める。そうしながら肩口に挟んだ携帯に向かって同じように嘆息したのだ。
「今から一時間くらいでそっちに行くな」
「ええっ・・ぜんぜん片付けてないぜ・・」
「なんとかしろよ」
ヨハンのうろたえる声が聞こえた。二階からふんわりしたコートをまとった覇王が下りてきて、十代は電話を切る。彼女の手を引き、玄関に倒れている母親の遺体を乗り越えて外に出た。覇王の手の震えは止まっていたが、指先は氷のように冷たい。不安げに見上げてくる目は、しかし恐怖しているようではなった。彼女に親を殺したという認識はないのだ。覇王は何もしていない。覇王を突き動かしている闇に、彼女は逆らえない。
「とりあえずヨハンのところに行くからな」
覇王は頷く。暗く狭い庭を抜けて、青白い街灯の下に立った彼女は毒々しいほどに美しく、妖艶で、それでいて風に吹かれたら消えてしまいそうでもあった。前者は闇が作り出している。後者が彼女の本質だ。
「怖いか?」
覇王はやはり頷く。暗い道を二人で歩きながら、十代は少し顔をしかめた。彼女の不安や焦りはそのまま何らかの事象となってしまうから、安心させてやらないと突然前から車が突っ込んでくることもあり得るのだ。
ヨハンは留学して日本にやってきたが、それから高校を卒業してもこっちで暮らしていた。十代と違って彼は大学に通っていたし、独り暮らしではあったが住んでいるマンションは豪華な造りをしている。彼が何を学んでいるのか十代にはさっぱりであったが、それはさほど気にすることではなかった。それにヨハンも多少人とは違うところがある。
(おれが帰るまで無事でいろよ)
十代は舌打ちをひとつした。覇王は何も悪いことをしていない。しかし一番傷つくのはいつも彼女であった。彼女は誰よりも優しかったから、その優しさが十代にはつらかったのだ。
十代と覇王はその半身を分けた双子であったが、彼女は生まれつき月を溶かしたような金色の瞳をしていた。活発な十代と違って覇王は闇に魅入られたように大人しく、実際彼女は闇を一身に受けて育った。生まれおちた瞬間から発育不良で病室に繋ぎとめられた彼女を、両親は見ようともせず、寧ろ十代を覇王から引き離そうとしていた。結局彼女は学校にも溶け込めず、家庭にも居場所がなく、ののしられ、庇護するものもいなかった。
十代は覇王を守らなければと思っていた。彼女の背負う大きな闇は、いつか彼女を飲みこむであろう。それを食い止めなければと思っていた。別に正義のヒーローを気取っていた訳ではない。だけど、それが兄として当然のことだと思っていたのは確かだ。
急いで帰宅しても、閑静な住宅地にある自宅は一見どこも可笑しいところはないように見えていたが、十代のその鋭敏な嗅覚は生臭いにおいを感じ取っていた。人を超越した感覚を研ぎ澄ませ、恐る恐る鍵を開けようとするが、そこに施錠はされていなかった。
ドアを引けばそれは簡単に開き、そして彼は足元に倒れている人影を見つける。よく見知った人物であった。
(母さん)
玄関にうつ伏せに倒れていたのは母親であった。いつものようにエプロン姿で、スリッパは片方脱げている。背にはたくさんの切り傷があり、服は真っ赤に染まっていた。刃物で切り付けられたのだろう。
十代はこの事をなんとなく予想していた。素早く家の中に入り、鍵をかける。土足のまま廊下にあがりこみ、まっすぐ突きあたりにある居間に向かった。そこにはテレビから漏れる笑い声が響いていたが、それ以外はまったくの無音だ。ソファには同じく父親がぐったりと座っていて、改めれば喉元から大量の血が零れていた。
「覇王」
十代は妹の名を呼んだ。
「覇王、返事をしてくれ」
十代にとって両親は自分を産み落とした存在にすぎなかった。ましてや人外になった時、その絆は本当に薄く細くなっていたし、それよりも彼には覇王が大切であった。彼女に暴力を振るう両親を憎んでもいた。二人を殺害したのは覇王だろう。遅かれ早かれこんなことが起きるとは思っていたが、それを防げなかったことに苛立った。
「覇王」
ダイニングキッチンを覗いてみれば、食器棚の陰に膝を抱えて蹲っているパジャマ姿の少女を見つける。同い年であったが、発育の差に加えて、性別の差が覇王をより儚げに見せていた。細腕はまだ震え、床に血糊のべったりついた包丁が落ちていた。十代の声に顔を上げた覇王は、どこかぼんやりと、放心した顔をしている。
「怪我はしていないか?」
できるだけ穏やかに話しかけ、しゃがんで目線を合わせるとそっと前髪を撫ぜた。柔らかな栗色の毛は自分と同じように見えてもずいぶんとしなやかだ。包丁を脇に押しやって、ほっそりとした体を引き寄せ、抱きしめる。頬に殴られた痣があった。また父親にやられたのか。彼女にはなにも罪はない。ただ、彼女は闇を引き寄せてしまうだけなのだ。この事故も(事件ではない)覇王の闇に過ぎない。
「痛いところは?」
優しく問うと、覇王はゆるく首を振った。まだ体は震えている。可哀想に、こんなに彼女は弱いから、強い力に突き動かされてしまうのに抗うことができない。彼女は血で汚れた細い指で十代のジャケットを掴んだ。その手を握り返し、手を引いて立つように促す。
「歩けるか?」
素直に頷いた覇王は言葉を失ってしまっている。もう一年ほど、彼女は父親の重圧から声を塞いでしまっていたのだ。そんな痛々しい姿を悲しんでやる余裕は、しかし今は持つことはできず、十代は彼女を連れて台所を出た。
「着替えてこい。ここを出よう」
蜂蜜色をした不安で瞳が揺らぐ。
「大丈夫だ」
十代はそう言って笑ってやることしかできなかった。それで彼女が安心するのならばいくらでも笑うことができたし、こんなことになるだろうとは薄々感づいてはいたから、そこまで動揺もしていない。それに自分には力があった。彼女を守るための力。何も失わない為の力を、もう一つの魂というかたちで十代は持っている。
覇王が身支度を整えている間に、十代も荷物をまとめていた。身を隠すことなら容易いが、それで覇王が怯えて新たな面倒事が起こってしまうのが一番危惧することである。気位が知れた人間の元に行こう、そう思ってヨハンに電話もした。彼は唯一十代の変調を知っているし、暗示をかけずとも協力してくれるだろう。それに彼も不思議な力を持っていることに変わりはなかった。
「そうやっておれを巻き込むの、やめろよな」
「おれだって巻き込みたくて巻き込んでるんじゃないの」
数回のコールのうち、電話に出た彼は溜息混じりに言った。十代は現金をかき集め、母親の部屋から通帳を持ちだして荷物に詰める。そうしながら肩口に挟んだ携帯に向かって同じように嘆息したのだ。
「今から一時間くらいでそっちに行くな」
「ええっ・・ぜんぜん片付けてないぜ・・」
「なんとかしろよ」
ヨハンのうろたえる声が聞こえた。二階からふんわりしたコートをまとった覇王が下りてきて、十代は電話を切る。彼女の手を引き、玄関に倒れている母親の遺体を乗り越えて外に出た。覇王の手の震えは止まっていたが、指先は氷のように冷たい。不安げに見上げてくる目は、しかし恐怖しているようではなった。彼女に親を殺したという認識はないのだ。覇王は何もしていない。覇王を突き動かしている闇に、彼女は逆らえない。
「とりあえずヨハンのところに行くからな」
覇王は頷く。暗く狭い庭を抜けて、青白い街灯の下に立った彼女は毒々しいほどに美しく、妖艶で、それでいて風に吹かれたら消えてしまいそうでもあった。前者は闇が作り出している。後者が彼女の本質だ。
「怖いか?」
覇王はやはり頷く。暗い道を二人で歩きながら、十代は少し顔をしかめた。彼女の不安や焦りはそのまま何らかの事象となってしまうから、安心させてやらないと突然前から車が突っ込んでくることもあり得るのだ。
ヨハンは留学して日本にやってきたが、それから高校を卒業してもこっちで暮らしていた。十代と違って彼は大学に通っていたし、独り暮らしではあったが住んでいるマンションは豪華な造りをしている。彼が何を学んでいるのか十代にはさっぱりであったが、それはさほど気にすることではなかった。それにヨハンも多少人とは違うところがある。
作品名:veil of darkness 作家名:つづら