ポルターガイスト
後ろから攻め立てられると頼れるものは向かい合う木しかなかった。栄口が息を吐き、それに合わせて自分の腕がしなる様が目に残像として残っている。さっき入ったばかりの風呂、汗ばんだジャージ、分け目がわからなくなった前髪とかをどうするよりも爪が気になって仕方ない。何かの拍子に木屑が爪の間に入り込み、取れなくなってしまったのだ。暗がりで除こうとしたって埒が明かないのに気になって手元ばかりいじっている。するとふいに栄口が覆い被せるように手を重ね、何も言わずに唇を合わせた。
肩越しに栄口が歩いてきた後ろを見る。じっとりと濃い紺が、遠くに瞬きする六等星みたいな明かりを塗りつぶす、こんなけもの道をひとりでぐるぐる歩く度胸なんて自分にはなかった。
ゆっくりと口を離されると、名残惜しげに出したままの舌が夜風に晒される。栄口が立ち上がりながらひとつひとつ作る「そろそろ戻ろうか」という口の形をぼんやり見上げていた。
「みずたに、ベロ出しっぱ」
急に正気に戻され、あわてて舌を引っ込めた俺を小さく笑う、そのすべて好きだ、と思う。どうしようもなく、ただ栄口のものになりたかった。けれどやさしいのは声だけで、それ以外の何もかもが他人と比べてぞんざいな気がする。
「栄口って俺のことちゃんと好きなんですかー?」
「また言ってどうなるわけじゃないことを聞いてくるなぁ水谷は」
知りたいと駄々をこねると、栄口は俺の頭をくしゃくしゃにかき回した後、「今だって首にヒモつけたいくらいだよ」と至極真面目に答えた。
……首に、ヒモ? 栄口は俺をそういうふうに扱いたいわけ?
「……でも俺犬じゃないし」
少し間を置いた後やたら深く、だよなぁ、という声が返ってきた。
「……オレも水谷も男でよかったね」
どうしてそういう結論になるんだ。しゃがんでいる自分へ差し伸べられた手は、まるで真水のように冷え冷えとしていた。
ふと、自分の首を紐でくくられ、その手綱を栄口が持っていることを想像してみる。それは今のこの状況、栄口が俺の手を引き、一緒に歩くこととなんら変わらない気がした。そう感じてしまうことはちょっと異常なのかもしれないけれど、お化けと犬の恋愛にはとてもふさわしいように感じた。