見合い
―――――男親が何故娘に男ができるのを怖れるか知っているか?
それはつまりはアレだ、男親が娘を過剰に心配するのは、その男親が若い頃にどういう心積もりで女を連れ出していたか覚えているからさ。女のくだらぬとりとめのない話に愛想よく相槌打ちながら、腹の底で何を考えて、何をしてやろうかと思っていたか。恋などというものに幻想と理想を抱いている若い女に、残酷な男の欲望を突き付けてやりたいという事を覚えているからさ。
以前、誰かが酒の席でそう話していた事を俺はふと思い出していた。
面白くもない古典的な日本庭園の庭を眺める。目の前の池では艶やかな錦鯉がその鱗をぬるぬると煌かせながら緑色の水の中を泳いでいる。そして隣では父の友人である海軍中将の箱入り娘のお嬢さんが女学校で流行っているという遊びの話を楽しげに話している。
俺よりも5つ、6つ離れた若く乳臭いお嬢さんだ。
帝都のお嬢さん学校として有名な学校に通い、国家が先の大陸との戦の手負いを引きずりながらしかしこれから大国との戦に縺れ込もうとしているこんな時代であっても上品な着物や洋装を着て、後ろに下女を侍らせているようなお嬢さんだった。時代が時代ならばお姫様と呼ばれた家のお嬢さんである。白い指先が持て遊ぶ日傘の柄は英国のものであり、艶やかに濡れたような黒髪は輝き、肩を抱いているわけでもないのに背も随分離れた俺の鼻にまで白檀の甘い香りが届く。細い首が若い娘らしい赤い着物の襟から見えている。
俺とは全く別の生き物だな、と思った。
そして今、何故かその誰かの言葉に共感する自分を自覚する。
――――この無邪気で無垢で、また俺という男に理想の男の幻影を抱いているらしいお嬢さんに俺は紳士的でない事を突き付けてやりたいような苛立ちを覚えていた。
俺は最初、草加を疎んでいた。
確かに俺と草加ではスタートラインが違っていた。海軍将校である父というのは俺のスタートラインに大きな影響を与えたし、現に今とてそのコネクションの影響が十二分にある。それに比べて草加はどうだ。士族の家系とは言っても岩手である。帝都からは程遠く、また海軍というコミュニティにあってそれは全く無意味である。それであっても今、俺と同じ位置にいるという草加は、もしや俺と同じスタートラインに立っていたのならばずっと先にいるのではないか。俺はこいつの背中を眺めて追いかけていく人生になるのではないか。そう考えるとこの草加という男を薄気味悪くも思い、また確かに疎ましく思った。
だがしかし気がつけば、兵学校を卒業してから今まで草加と行動を共にする事が度々あった。
俺と同じような家に生まれた連中は俺の事を「変わり者だ」と言ったが、お蚕ぐるみで育った奴らよりも草加といる事は刺激となった。気がつけば俺は草加を認めていた。そして、草加の質の高さを求めていた。そしていつの間にか腐れ縁の一言で片付けてしまうにはあまりに因縁と言って良い程の付き合いとなった。
この見合いを知らせる通知が届いた時は、そんな風に俺が草加と一緒にいるときだった。
その日もいつものように部屋に草加を招待し、先日やった戦史の海戦を自分が司令官だったら、という仮定でああでもないこうでもない、と青臭い議論を交わしていた時だ。通知を受け取り顔を顰めた俺の背後からひょいっと勝手にそれを見やり、それが見合いを催促する父からの手紙だと気づいた草加は草加独特の毒があるとでもいうのだろうか、無害そうな好青年の顔をしてどこか相手を手の上で転がすような独特の笑みを浮かべて「流石は海軍将校の坊ちゃんだ」と茶化した。
日頃から父の階級の話で友人から言葉をかけられる事が多かった俺はその手紙を散り散りに破り捨て、草加を睨んだ。しかし草加はそんな事は気にも留めず、「滝が見合いか」と含んだような笑みを漏らす。
「受けるのか?その見合い」
草加は俺のベッドに腰掛け、何か言いたそうな目を俺に向けた。
この見合いの話を持って来たのが父であった以上、会いもせぬうちから突っぱねられる程の力は俺にはなかった。軍人の家に、そして滝家に生まれた男として父親の命令は絶対であった。そして海軍への道を志した時から、家の事は家長である父が決めるという取り決めとなっていたのだからいつかはこういう日が来る事も分かっていた。それに今更恋愛などというものをして女房を選びたいだのロマンチシズムの文学者のような事は言わん。だが現状を草加に知られたという事がただ面倒であり腹正しくもあった。
草加の目は「父親には逆らえまい」という事でいっぱいであるような気がし、また事実その通りであったことが更に腹立たしかった。
「相手は海軍中将のお嬢さんだ。俺ひとりの問題ではない」
恐らくこの縁談は通るだろう。
相手のお嬢さんが、どうしても滝栄一郎が嫌だ、あの男と結婚するくらいならば出家する、とでも喚いてくれればこの話はなかった事になるかもしれないが、生憎俺は女から嫌われる顔ではないし、女に対して冷酷になる事もできなかった。それにもはやこれは見合いなどというものではなく、父と、そしてこのお嬢さんの父上である中将との間で取り決められた約束事を突き付けられただけの事であった。それが家というものであった。だが草加にはそういう家と家同士の付き合いが理解できていない。家と家の事はただの近所づきあいではなく、政治なのだ。だが草加は、ただ俺という人間が父に逆らえぬ男だ、と思っているに違いない。
「貴様が嫌だというのなら父上のそう話せば良い。まだ学生の身の上だ。考慮してくれるのではないか?」
草加の目が挑発的に輝いている。――――できるもんならやってみろ、と言っている。
馬鹿馬鹿しい、と取り合わぬ俺に草加はいつになく突っかかった。
「どうした?帝国軍人を志しても、家の心配はあるのか?それとも女の肌を抱きたいか?」
「貴様、何をそう苛立っているんだ」
「苛立ってなどいない。ただ貴様が浮かぬ顔をしているから助言しているだけの事だ」
草加はそう言い切ったが苛立っている事は明らかだった。
気がつけば草加とは長い付き合いになる。初対面の人間であるならばこいつを好青年とでも思うだろうし、こいつも勤めてそう振る舞い、そしてこいつの意識した通りの好青年と錯覚するだろうがそうじゃない。付き合いも長くなれば表情とは裏腹に腹の底でどんな感情を持っているのかなんとはなしに分かる瞬間がある。こいつの完璧なポーカーフェイスを百パーセント理解して掴んでいる訳ではないが、それでも今この瞬間この男が苛立っている事くらいは察しがついた。
結局あの日は草加が苛立ち、俺も草加の苛立ちを処理できぬままお互い見合いについての話題に触れる事なくぎこちなく日が経ち、そして俺はこうして見合いの為に外泊許可を取り付け家へと帰り、お嬢さんのなんの実もない話をただ横耳で聞いているだけだった。
「滝様は、その、一体どのような夫人を望んでおられるのでしょう?」
それはつまりはアレだ、男親が娘を過剰に心配するのは、その男親が若い頃にどういう心積もりで女を連れ出していたか覚えているからさ。女のくだらぬとりとめのない話に愛想よく相槌打ちながら、腹の底で何を考えて、何をしてやろうかと思っていたか。恋などというものに幻想と理想を抱いている若い女に、残酷な男の欲望を突き付けてやりたいという事を覚えているからさ。
以前、誰かが酒の席でそう話していた事を俺はふと思い出していた。
面白くもない古典的な日本庭園の庭を眺める。目の前の池では艶やかな錦鯉がその鱗をぬるぬると煌かせながら緑色の水の中を泳いでいる。そして隣では父の友人である海軍中将の箱入り娘のお嬢さんが女学校で流行っているという遊びの話を楽しげに話している。
俺よりも5つ、6つ離れた若く乳臭いお嬢さんだ。
帝都のお嬢さん学校として有名な学校に通い、国家が先の大陸との戦の手負いを引きずりながらしかしこれから大国との戦に縺れ込もうとしているこんな時代であっても上品な着物や洋装を着て、後ろに下女を侍らせているようなお嬢さんだった。時代が時代ならばお姫様と呼ばれた家のお嬢さんである。白い指先が持て遊ぶ日傘の柄は英国のものであり、艶やかに濡れたような黒髪は輝き、肩を抱いているわけでもないのに背も随分離れた俺の鼻にまで白檀の甘い香りが届く。細い首が若い娘らしい赤い着物の襟から見えている。
俺とは全く別の生き物だな、と思った。
そして今、何故かその誰かの言葉に共感する自分を自覚する。
――――この無邪気で無垢で、また俺という男に理想の男の幻影を抱いているらしいお嬢さんに俺は紳士的でない事を突き付けてやりたいような苛立ちを覚えていた。
俺は最初、草加を疎んでいた。
確かに俺と草加ではスタートラインが違っていた。海軍将校である父というのは俺のスタートラインに大きな影響を与えたし、現に今とてそのコネクションの影響が十二分にある。それに比べて草加はどうだ。士族の家系とは言っても岩手である。帝都からは程遠く、また海軍というコミュニティにあってそれは全く無意味である。それであっても今、俺と同じ位置にいるという草加は、もしや俺と同じスタートラインに立っていたのならばずっと先にいるのではないか。俺はこいつの背中を眺めて追いかけていく人生になるのではないか。そう考えるとこの草加という男を薄気味悪くも思い、また確かに疎ましく思った。
だがしかし気がつけば、兵学校を卒業してから今まで草加と行動を共にする事が度々あった。
俺と同じような家に生まれた連中は俺の事を「変わり者だ」と言ったが、お蚕ぐるみで育った奴らよりも草加といる事は刺激となった。気がつけば俺は草加を認めていた。そして、草加の質の高さを求めていた。そしていつの間にか腐れ縁の一言で片付けてしまうにはあまりに因縁と言って良い程の付き合いとなった。
この見合いを知らせる通知が届いた時は、そんな風に俺が草加と一緒にいるときだった。
その日もいつものように部屋に草加を招待し、先日やった戦史の海戦を自分が司令官だったら、という仮定でああでもないこうでもない、と青臭い議論を交わしていた時だ。通知を受け取り顔を顰めた俺の背後からひょいっと勝手にそれを見やり、それが見合いを催促する父からの手紙だと気づいた草加は草加独特の毒があるとでもいうのだろうか、無害そうな好青年の顔をしてどこか相手を手の上で転がすような独特の笑みを浮かべて「流石は海軍将校の坊ちゃんだ」と茶化した。
日頃から父の階級の話で友人から言葉をかけられる事が多かった俺はその手紙を散り散りに破り捨て、草加を睨んだ。しかし草加はそんな事は気にも留めず、「滝が見合いか」と含んだような笑みを漏らす。
「受けるのか?その見合い」
草加は俺のベッドに腰掛け、何か言いたそうな目を俺に向けた。
この見合いの話を持って来たのが父であった以上、会いもせぬうちから突っぱねられる程の力は俺にはなかった。軍人の家に、そして滝家に生まれた男として父親の命令は絶対であった。そして海軍への道を志した時から、家の事は家長である父が決めるという取り決めとなっていたのだからいつかはこういう日が来る事も分かっていた。それに今更恋愛などというものをして女房を選びたいだのロマンチシズムの文学者のような事は言わん。だが現状を草加に知られたという事がただ面倒であり腹正しくもあった。
草加の目は「父親には逆らえまい」という事でいっぱいであるような気がし、また事実その通りであったことが更に腹立たしかった。
「相手は海軍中将のお嬢さんだ。俺ひとりの問題ではない」
恐らくこの縁談は通るだろう。
相手のお嬢さんが、どうしても滝栄一郎が嫌だ、あの男と結婚するくらいならば出家する、とでも喚いてくれればこの話はなかった事になるかもしれないが、生憎俺は女から嫌われる顔ではないし、女に対して冷酷になる事もできなかった。それにもはやこれは見合いなどというものではなく、父と、そしてこのお嬢さんの父上である中将との間で取り決められた約束事を突き付けられただけの事であった。それが家というものであった。だが草加にはそういう家と家同士の付き合いが理解できていない。家と家の事はただの近所づきあいではなく、政治なのだ。だが草加は、ただ俺という人間が父に逆らえぬ男だ、と思っているに違いない。
「貴様が嫌だというのなら父上のそう話せば良い。まだ学生の身の上だ。考慮してくれるのではないか?」
草加の目が挑発的に輝いている。――――できるもんならやってみろ、と言っている。
馬鹿馬鹿しい、と取り合わぬ俺に草加はいつになく突っかかった。
「どうした?帝国軍人を志しても、家の心配はあるのか?それとも女の肌を抱きたいか?」
「貴様、何をそう苛立っているんだ」
「苛立ってなどいない。ただ貴様が浮かぬ顔をしているから助言しているだけの事だ」
草加はそう言い切ったが苛立っている事は明らかだった。
気がつけば草加とは長い付き合いになる。初対面の人間であるならばこいつを好青年とでも思うだろうし、こいつも勤めてそう振る舞い、そしてこいつの意識した通りの好青年と錯覚するだろうがそうじゃない。付き合いも長くなれば表情とは裏腹に腹の底でどんな感情を持っているのかなんとはなしに分かる瞬間がある。こいつの完璧なポーカーフェイスを百パーセント理解して掴んでいる訳ではないが、それでも今この瞬間この男が苛立っている事くらいは察しがついた。
結局あの日は草加が苛立ち、俺も草加の苛立ちを処理できぬままお互い見合いについての話題に触れる事なくぎこちなく日が経ち、そして俺はこうして見合いの為に外泊許可を取り付け家へと帰り、お嬢さんのなんの実もない話をただ横耳で聞いているだけだった。
「滝様は、その、一体どのような夫人を望んでおられるのでしょう?」