さようなら安寧
イギリスが目覚めたとき部屋は酷く冷え切っていて、おまけにかなり乾燥していた。そうだこの部屋は空調も使いものにならなかったのだと思いながらぼんやりと寝返りをうつ。深く頭を預けた枕はやはり埃くさくて、けほ、と少し咳をした。
咳をしたことでようやく意識が働き始めた気がする。イギリスはくるりと体を回し、俯せの体勢をとると、両肘をついて緩やかに上体を起こした。そうしてからもぞもぞと足を折り曲げてベッドの上に座り込む。
起き上がってみれば、自分の下にあったシーツは昨夜のものとは違っていた。酷く汚したものは洗濯したのかそれとも捨てたのか、ちらりと考えたが実際のところはどうでもよかったのですぐに思考を打ち切る。シーツも、布団も、全て取り替えたところで元から古く薄汚れているのは変わらないのだ。そしてその古さに自分が囲まれているのがやたらと不快なのもまた同じだ。
イギリスはつと眉を寄せ、苛立ちに任せて親指の爪を噛んだ。がりと歯を立てれば白いそれが少し欠けた気もする。実際にはそうなっていなくとも、どこか心の隅で望んでいるところがあるからそう思うのだろう。どうせなら何もかも砕け散ればいいと半ば投げやりに考える。
腰の辺りの鈍痛には早々に気付いていたがあえて考えないことにしていた。考えたところでどうにもならないから、というのは明らかな逃避であると知っている。しかしだからといってどうするのが正解なのかは分からない。正面から向かい合ったって、声高に不安や不満をぶちまけたって、実際何にも変わりやしない。ならば少しくらい見ないふりをしたって罰も当たらないだろう。見たって何にも変わらないなら、見なくたって変わらない。
幾度も爪を噛むうちに伏せていた目をそっと開けて、イギリスは改めて目前の光景を眺める。皺くちゃのシーツ、掛け布団、頭のかたちがうっすらと残る枕。そうして更に視線を動かせば、折り曲げた自らの足も目に入る。
そこで初めてイギリスは自分の格好について思い及んだ。身にまとう感触は確実におろしたてのそれで、あれこれと眺めてみたが、決して自分の持ちものではないと分かった。けれど、スラックスも、シャツも、タイも、ベストも、ベルトでさえも、普段自分が使うブランドのものだった。デザインも自分が選ぶようなものばかりで、イギリスは傍目にはきっと「普段のイギリス」であろうと思われた。
それでも、イギリス自身にとってみれば、今の自分は唯の着せ替え人形であった。着せ替え人形という言葉に、イギリスの脳が警鐘を鳴らす。そこはだめ、思い出してはだめ、そちらに行ってはだめ。何かが脳内でわんわんと騒ぐけれど、思考は次から次へと進み、溢れて、イギリスが見ないふりを決め込んだものを物陰から引きずり出してしまう。
「坊ちゃん?」
恐怖で崩れ落ちそうになったイギリスの意識を破ったのは、よく耳慣れた声だった。そうしてその声は今の彼にとって一番聞きたくないものでもあった。イギリスは喉の辺りにせり上がる吐き気を必死にこらえながら声のした方へと体を向ける。向き合った先にはフランスが立っていた。扉を背に、片手をひらひらと振っている。もう一方の手は体の後ろにあって、何だかよく見えなかった。
そのまま、一歩、二歩、フランスがベッドへと近付いてくる。今までそちらを見ていなかったせいで気が付かなかったが、イギリスの座るベッドの上、足元の辺りは様々な服飾でこれでもかと散らかっていた。それを見て、イギリスはまた酷い気持ちになった。恐怖と、怒りと、悲しみと、自嘲にまみれた、ささくれ立った感情。汗やら何やらで汚れ、ぐちゃぐちゃになった、昨晩まではきらきらと美しかったはずの、可愛らしいワンピース。
坊ちゃん、ともう一度呼ばれて顔を上げると、フランスはベッドのすぐ傍に立ってイギリスを手招いていた。何だろうと訝しく思ったが、イギリスは黙って従った。大して広くもないベッドの上で、スプリングを軋ませてフランスへと近付く。フランスも更に体を寄せてきた。よいしょ、と小さく言ってベッドへ片足をついて身を乗り出す。そうしてふと触れた、脱ぎ散らかされた様々な服飾を、ちらとも見ないまま床の上へ払い落した。
それを見て、あっ、と、イギリスが声を上げたのは無意識のことで、けれどフランスはさも当然のように返事をした。「うん、素敵でしょう?」満足気に微笑んだ彼は、イギリスの目の前に一足のピンヒールを差し出す。エナメルブラックのつややかな光沢がイギリスの瞳に移り込んで、ゆらゆらと揺れた。
華奢なそれを目の高さに抱え上げたフランスは、僅かな光にもきらきらと輝く様子をうっとりと見つめて笑う。そうして、きれいな黒でしょうと囁くと、呆然としたままのイギリスに向かって小首を傾げてみせた。
「坊ちゃんの足は細くて、真白な皮膚をしているから、きっとよく似合う」
フランスは至極楽しそうな声でそう言った。その響きは完全に己の思考に自信のある者のそれで、だからなのかフランスはイギリスの反応には少しも注意を払わなかった。彼は唯手中にある靴を、熱の籠った瞳でじっと見つめていた。大切に捧げ持ったピンヒールの外形に、フランスの長い指が這わされる。踵から側面を通り爪先まで至ると、次はその跡をなぞるように舌を滑らせた。それからゆっくりと立ち上がり、床に降りると、小さなピンヒールをベッドの下へきちんと揃えて置いた。そうして、そこにきてようやくイギリスへと視線を戻し、にこりと笑った。
「ねえ、早く、履いてみて」素敵な思いつきに胸を高鳴らせる若い娘のように、フランスは酷く弾んだ声を出した。けれどイギリスは微動だにしなかった。ガラス玉のような瞳を大きく見開いて、じっと床にあるピンヒールを見ていた。薄暗い部屋の中で、それでもぴかぴかと光る靴をどうしたものなのか、全く判断がつかなかった。
自分の誘いに応じないイギリスに、フランスが怒り出す気配はなかった。けれど、彼は少なからずイギリスの反応を残念には思ったようで、「どうしたの?」困ったように眉を下げると、ぎしりとベッドに両手をついて、近いところでイギリスの顔を覗き込んだ。
「どうしたの、――ああ、もしかして、怖い?」
「……え、」
「そうだよね、怖いよね」
「フランス、」
「気付かなくてごめんね、坊ちゃん」
咳をしたことでようやく意識が働き始めた気がする。イギリスはくるりと体を回し、俯せの体勢をとると、両肘をついて緩やかに上体を起こした。そうしてからもぞもぞと足を折り曲げてベッドの上に座り込む。
起き上がってみれば、自分の下にあったシーツは昨夜のものとは違っていた。酷く汚したものは洗濯したのかそれとも捨てたのか、ちらりと考えたが実際のところはどうでもよかったのですぐに思考を打ち切る。シーツも、布団も、全て取り替えたところで元から古く薄汚れているのは変わらないのだ。そしてその古さに自分が囲まれているのがやたらと不快なのもまた同じだ。
イギリスはつと眉を寄せ、苛立ちに任せて親指の爪を噛んだ。がりと歯を立てれば白いそれが少し欠けた気もする。実際にはそうなっていなくとも、どこか心の隅で望んでいるところがあるからそう思うのだろう。どうせなら何もかも砕け散ればいいと半ば投げやりに考える。
腰の辺りの鈍痛には早々に気付いていたがあえて考えないことにしていた。考えたところでどうにもならないから、というのは明らかな逃避であると知っている。しかしだからといってどうするのが正解なのかは分からない。正面から向かい合ったって、声高に不安や不満をぶちまけたって、実際何にも変わりやしない。ならば少しくらい見ないふりをしたって罰も当たらないだろう。見たって何にも変わらないなら、見なくたって変わらない。
幾度も爪を噛むうちに伏せていた目をそっと開けて、イギリスは改めて目前の光景を眺める。皺くちゃのシーツ、掛け布団、頭のかたちがうっすらと残る枕。そうして更に視線を動かせば、折り曲げた自らの足も目に入る。
そこで初めてイギリスは自分の格好について思い及んだ。身にまとう感触は確実におろしたてのそれで、あれこれと眺めてみたが、決して自分の持ちものではないと分かった。けれど、スラックスも、シャツも、タイも、ベストも、ベルトでさえも、普段自分が使うブランドのものだった。デザインも自分が選ぶようなものばかりで、イギリスは傍目にはきっと「普段のイギリス」であろうと思われた。
それでも、イギリス自身にとってみれば、今の自分は唯の着せ替え人形であった。着せ替え人形という言葉に、イギリスの脳が警鐘を鳴らす。そこはだめ、思い出してはだめ、そちらに行ってはだめ。何かが脳内でわんわんと騒ぐけれど、思考は次から次へと進み、溢れて、イギリスが見ないふりを決め込んだものを物陰から引きずり出してしまう。
「坊ちゃん?」
恐怖で崩れ落ちそうになったイギリスの意識を破ったのは、よく耳慣れた声だった。そうしてその声は今の彼にとって一番聞きたくないものでもあった。イギリスは喉の辺りにせり上がる吐き気を必死にこらえながら声のした方へと体を向ける。向き合った先にはフランスが立っていた。扉を背に、片手をひらひらと振っている。もう一方の手は体の後ろにあって、何だかよく見えなかった。
そのまま、一歩、二歩、フランスがベッドへと近付いてくる。今までそちらを見ていなかったせいで気が付かなかったが、イギリスの座るベッドの上、足元の辺りは様々な服飾でこれでもかと散らかっていた。それを見て、イギリスはまた酷い気持ちになった。恐怖と、怒りと、悲しみと、自嘲にまみれた、ささくれ立った感情。汗やら何やらで汚れ、ぐちゃぐちゃになった、昨晩まではきらきらと美しかったはずの、可愛らしいワンピース。
坊ちゃん、ともう一度呼ばれて顔を上げると、フランスはベッドのすぐ傍に立ってイギリスを手招いていた。何だろうと訝しく思ったが、イギリスは黙って従った。大して広くもないベッドの上で、スプリングを軋ませてフランスへと近付く。フランスも更に体を寄せてきた。よいしょ、と小さく言ってベッドへ片足をついて身を乗り出す。そうしてふと触れた、脱ぎ散らかされた様々な服飾を、ちらとも見ないまま床の上へ払い落した。
それを見て、あっ、と、イギリスが声を上げたのは無意識のことで、けれどフランスはさも当然のように返事をした。「うん、素敵でしょう?」満足気に微笑んだ彼は、イギリスの目の前に一足のピンヒールを差し出す。エナメルブラックのつややかな光沢がイギリスの瞳に移り込んで、ゆらゆらと揺れた。
華奢なそれを目の高さに抱え上げたフランスは、僅かな光にもきらきらと輝く様子をうっとりと見つめて笑う。そうして、きれいな黒でしょうと囁くと、呆然としたままのイギリスに向かって小首を傾げてみせた。
「坊ちゃんの足は細くて、真白な皮膚をしているから、きっとよく似合う」
フランスは至極楽しそうな声でそう言った。その響きは完全に己の思考に自信のある者のそれで、だからなのかフランスはイギリスの反応には少しも注意を払わなかった。彼は唯手中にある靴を、熱の籠った瞳でじっと見つめていた。大切に捧げ持ったピンヒールの外形に、フランスの長い指が這わされる。踵から側面を通り爪先まで至ると、次はその跡をなぞるように舌を滑らせた。それからゆっくりと立ち上がり、床に降りると、小さなピンヒールをベッドの下へきちんと揃えて置いた。そうして、そこにきてようやくイギリスへと視線を戻し、にこりと笑った。
「ねえ、早く、履いてみて」素敵な思いつきに胸を高鳴らせる若い娘のように、フランスは酷く弾んだ声を出した。けれどイギリスは微動だにしなかった。ガラス玉のような瞳を大きく見開いて、じっと床にあるピンヒールを見ていた。薄暗い部屋の中で、それでもぴかぴかと光る靴をどうしたものなのか、全く判断がつかなかった。
自分の誘いに応じないイギリスに、フランスが怒り出す気配はなかった。けれど、彼は少なからずイギリスの反応を残念には思ったようで、「どうしたの?」困ったように眉を下げると、ぎしりとベッドに両手をついて、近いところでイギリスの顔を覗き込んだ。
「どうしたの、――ああ、もしかして、怖い?」
「……え、」
「そうだよね、怖いよね」
「フランス、」
「気付かなくてごめんね、坊ちゃん」