さようなら安寧
ちゅ、と宥めるようなキスを目元に落とされて、イギリスはそっと息を吐いた。分かってくれたのか。それまでの緊張から解放されて、自由になれた気がした。頭を撫でるフランスの手も、労わるようなキスを繰り返す唇も愛おしく感じた。だから、ひとつ頷いた。謝る声に、気付いてくれたのならいいと、示した。
フランスはその反応を見るとほっとしたように笑い、よかった、と呟いた。そうして静かに身を引くと、床の上に片膝をついた。位置は丁度、ベッドの前にぽつんと置かれたピンヒールの向こう。だからイギリスは、きっとフランスは今からそれを取り上げて、別の靴を持ってくるのだろうと思った。――けれど。
「ヒールが高いから、ふらつきそうなんでしょう。大丈夫だよ、支えてあげるから」
別の靴などある訳がなかった。フランスは令嬢をエスコートする紳士のように、跪いたまま、恭しく手を指し伸ばしてきただけだった。
シーツをきつく握りしめているイギリスの強張った指を、フランスの大きな手がそっと解いた。そうして震えるイギリスの手を取り、支えて、ゆっくりと体を起こさせる。
ピンヒールはイギリスの足にはやはり小さくて、けれど彼はそれを無理矢理に履いた。そうするしかなかった。フランスの手を振り払い、こんなもの、と怒鳴れるのなら、きっともっと前からイギリスはこんな部屋にはいなかった。そのことを誰よりイギリスが理解していた。だから結局、イギリスは痛む足を叱咤して、フランスの手に縋るように一歩踏み出した。
全体に古い部屋であるから床もまた限界が近くなっていて、二人が歩く度にぎしりと音を立てる。その埃にまみれた床の上にはフランスによって払いのけられた服が散らばっている。イギリスはその合間を縫うように、少しの隙間でも見逃すことなく、かつ、かつ、とピンヒールを動かした。
彼の手を取って、縋りついて、そうして行き着く先は、果たしてどんな場所なのだろう。そんなことを少しだけ思ったが、考えるだけでも空恐ろしいような気がして、結局イギリスは首を振って思考を打ち切った。実際問題、余計なことを考えていると、慣れないピンヒールに体が傾ぎ、すぐにでもひっくり返ってしまいそうだった。
(101212/仏英)