【No.6】汝、安らかならんことを
―――また、か…。
紫苑は薄く目を開いて、小さく息を吐いた。
最初は単に寝相が悪いだけだと思っていた。
大量の本に埋もれかけた半地下の部屋で、ベッドは一つしかないから当然のように二人で寝た。
当初はすぐ息のかかる距離に、他人の体があることに緊張して、眠りも浅かったけれど。慣れない環境の激変で疲れきった体は睡眠を欲していて、ベッドから蹴り出されるまで熟睡することが多かった紫苑である。
自分で思っていたよりずっと図太かった己の体が、新しい環境に慣れ始めた頃、紫苑はそのことに気づいた。
ネズミは、よくうなされている。
眠りは紫苑よりずっと浅いはずだ。
常に身の危険と隣り合わせの、この西ブロックで生き抜いてきた彼だ。就寝中でさえ、外敵への備えで枕の下にナイフを忍ばせている。
正体もない熟睡など、したことがないんじゃないかと思うほど、些細なことにも彼は灰の目を開いた。
少しも眠っていなかったんじゃないかと思うほど、睡魔の残滓もなく起きあがる。
たとえば階段の上のドアを叩く風の音。
部屋の高い位置にある、細長い窓を横切る影。
トイレに立とうとする紫苑の、わずかな動きにすらネズミはパチリと目を開き、確かめて、また目を閉ざす。
本当に彼は眠っているんだろうかと心配してしまうくらいだ。
そんなネズミだが、たまにはやはり熟睡している時もある。そして彼が熟睡するとき、決まってうなされる。
「……っ……」
低いうめき声。何か意味にならない声は、ほとんどが口の中で消えている。噛み絞めた歯の間から外に出すのを恐れてでもいるように。
せっぱ詰まった呼吸音だけが、彼の内側での嵐を伝える。
紫苑はゆっくりと頭を返し、隣に寝ているネズミを伺った。いつもは背を向けている彼の顔が、わずかな夜光の中に見える。灰の目は閉じているが、眉根を潜めて苦しげな横顔。浅い息をもらす唇。額やこめかみに滲んでいる汗。
何かを振り払うにように頭を振るたび、黒い髪の毛先がパサパサと枕を打つ。
毛布をきつく握りしめる手。全身が緊張しているのも見て取れる。
「………」
痛ましげに、紫苑は眉を寄せた。
こんなネズミを見るのはつらかった。
昼間は不敵で不遜な笑みが似合う彼だ。何かと戦うときですら、形のいい口の端を引き上げ、好戦的な表情を隠しもしない。
ネズミが怯えたり怖がったりする姿など見たこともない。外敵に怯えなくてもいい実力を、彼は身につけていた。
常に毅然と顎を上げ、姿勢のいい伸びやかな肢体をまっすぐに立て、帝王のごとく振る舞える人だった。
なのに、こんな時の彼は怯え、恐れおののき、必死に振り払い、何かから逃げまどっているようだ。
悪夢は彼を追いつめ苛み、たやすくは逃さない。
ネズミは身を守るすべもない幼子のように、かすかにかぶりを振っているばかりだ。
どんな夢を見ているのか、紫苑には推し量ることもできない。
四年前の嵐の夜、紫苑と出会ったとき、彼は紫苑の生活からはあり得ない銃創を負っていた。あの夜の前も後も、ネズミが生きてきた時間がどれほど過酷だったか。
当時クロノスで最高級の待遇を受け、すべてから守られていた頃はむろん、あのころ持っていたすべてを失い、この西ブロックで世界の過酷と残酷を体験してさえ、紫苑にはネズミの経てきた苦難を知るすべはない。
彼の生い立ちも、この部屋にたどり着いた経緯も、想像を絶する時間を経てきたと思うしかない。
ネズミは己を語らず、紫苑が問うことも許さない。
聞く資格は、まだ自分にはないのだ。
そんな紫苑が眠っている彼の、うなされている姿を見ているとなれば、ネズミはどう思うだろう。
揺すって起こして、彼を苛んでいる悪夢から解き放つのはたやすい。何度もそうしようと手を伸ばしかけた。
けれど、できなかった。
今も迷っている。
プライドの高いネズミが、こんな醜態を無意識にさらしていることを知れば、彼は傷つくだろう。
考えれば判ること。
だから、痛ましく眉を潜めながらも、起こすことはしない。出来ない。
気づかぬ振りをして背を向けて、夢から逃れようとあがく彼の足にベッドから蹴り出されるまで、じっと身を縮めているしかない。
助けたいと思いながら、その術を知らない。
紫苑は薄く目を開いて、小さく息を吐いた。
最初は単に寝相が悪いだけだと思っていた。
大量の本に埋もれかけた半地下の部屋で、ベッドは一つしかないから当然のように二人で寝た。
当初はすぐ息のかかる距離に、他人の体があることに緊張して、眠りも浅かったけれど。慣れない環境の激変で疲れきった体は睡眠を欲していて、ベッドから蹴り出されるまで熟睡することが多かった紫苑である。
自分で思っていたよりずっと図太かった己の体が、新しい環境に慣れ始めた頃、紫苑はそのことに気づいた。
ネズミは、よくうなされている。
眠りは紫苑よりずっと浅いはずだ。
常に身の危険と隣り合わせの、この西ブロックで生き抜いてきた彼だ。就寝中でさえ、外敵への備えで枕の下にナイフを忍ばせている。
正体もない熟睡など、したことがないんじゃないかと思うほど、些細なことにも彼は灰の目を開いた。
少しも眠っていなかったんじゃないかと思うほど、睡魔の残滓もなく起きあがる。
たとえば階段の上のドアを叩く風の音。
部屋の高い位置にある、細長い窓を横切る影。
トイレに立とうとする紫苑の、わずかな動きにすらネズミはパチリと目を開き、確かめて、また目を閉ざす。
本当に彼は眠っているんだろうかと心配してしまうくらいだ。
そんなネズミだが、たまにはやはり熟睡している時もある。そして彼が熟睡するとき、決まってうなされる。
「……っ……」
低いうめき声。何か意味にならない声は、ほとんどが口の中で消えている。噛み絞めた歯の間から外に出すのを恐れてでもいるように。
せっぱ詰まった呼吸音だけが、彼の内側での嵐を伝える。
紫苑はゆっくりと頭を返し、隣に寝ているネズミを伺った。いつもは背を向けている彼の顔が、わずかな夜光の中に見える。灰の目は閉じているが、眉根を潜めて苦しげな横顔。浅い息をもらす唇。額やこめかみに滲んでいる汗。
何かを振り払うにように頭を振るたび、黒い髪の毛先がパサパサと枕を打つ。
毛布をきつく握りしめる手。全身が緊張しているのも見て取れる。
「………」
痛ましげに、紫苑は眉を寄せた。
こんなネズミを見るのはつらかった。
昼間は不敵で不遜な笑みが似合う彼だ。何かと戦うときですら、形のいい口の端を引き上げ、好戦的な表情を隠しもしない。
ネズミが怯えたり怖がったりする姿など見たこともない。外敵に怯えなくてもいい実力を、彼は身につけていた。
常に毅然と顎を上げ、姿勢のいい伸びやかな肢体をまっすぐに立て、帝王のごとく振る舞える人だった。
なのに、こんな時の彼は怯え、恐れおののき、必死に振り払い、何かから逃げまどっているようだ。
悪夢は彼を追いつめ苛み、たやすくは逃さない。
ネズミは身を守るすべもない幼子のように、かすかにかぶりを振っているばかりだ。
どんな夢を見ているのか、紫苑には推し量ることもできない。
四年前の嵐の夜、紫苑と出会ったとき、彼は紫苑の生活からはあり得ない銃創を負っていた。あの夜の前も後も、ネズミが生きてきた時間がどれほど過酷だったか。
当時クロノスで最高級の待遇を受け、すべてから守られていた頃はむろん、あのころ持っていたすべてを失い、この西ブロックで世界の過酷と残酷を体験してさえ、紫苑にはネズミの経てきた苦難を知るすべはない。
彼の生い立ちも、この部屋にたどり着いた経緯も、想像を絶する時間を経てきたと思うしかない。
ネズミは己を語らず、紫苑が問うことも許さない。
聞く資格は、まだ自分にはないのだ。
そんな紫苑が眠っている彼の、うなされている姿を見ているとなれば、ネズミはどう思うだろう。
揺すって起こして、彼を苛んでいる悪夢から解き放つのはたやすい。何度もそうしようと手を伸ばしかけた。
けれど、できなかった。
今も迷っている。
プライドの高いネズミが、こんな醜態を無意識にさらしていることを知れば、彼は傷つくだろう。
考えれば判ること。
だから、痛ましく眉を潜めながらも、起こすことはしない。出来ない。
気づかぬ振りをして背を向けて、夢から逃れようとあがく彼の足にベッドから蹴り出されるまで、じっと身を縮めているしかない。
助けたいと思いながら、その術を知らない。
作品名:【No.6】汝、安らかならんことを 作家名:しい