コールドタイフーン
苦しむ凪達と未決済の書類の山を想像して顔を青ざめさせた骸に、にっこり笑って綱吉は返した。
「あ、それは大丈夫。どうやら俺がにいさまの近くにいたら、他の人にはこの風邪、感染らないみたいなんだ」
「……はい?」
どういうことですかそれ?と首を傾げた骸に、それがね、と綱吉は言う。
「俺とにいさまも、今朝気が付いたんだけど…昨日の午前中に俺達と一緒にいた隼人は今日も元気はつらつなのに、午後からにいさまと一緒にお仕事してた草壁さんや他の財団の人には風邪が感染ってて、今日は何人か寝込んじゃってるんだ」
「隼人は元気なのに、財団の人間だけが?…ちょっと妙ですね」
風邪を引いた恭弥と接していた人物の内、生まれてすぐの頃に体が弱く、強く育つようにと願いを込め男名を付けられた少女には一日経っても症状が現れず、屈強なあのリーゼントの青年達が半日でダウン。
逆ならわりとすんなり納得できたが、現実は真逆。さて、なにゆえに。
「それで、どうしてかなって思ったんだけど…隼人と草壁さん達の違いって、性別を除けば『俺がにいさまの近くにいたかどうか』っていうことくらいしかないんだもん」
因みにもう一つ、天羽族か人間か、という区別の付け方もできるが、免疫力に関してはあくまで個人差の問題で、二つの種族に大差がない事は調べが付いている。
これは黒曜と並盛に住んでいる天羽族の生き残りにも協力して貰って出した結果なので、信頼しても良いだろう。
「……なるほど」
一見すると突拍子もない仮説だが、他人に比べて抵抗力が低い隼人が元気である点を考えると、簡単に切り捨てられない内容だ。
「だからさっき、骸が来た時に何も言わなかったんだよ。もし隼人の事に気づいてなかったら、受付の人にお願いして『にいさまは酷い風邪を引いてます』って言伝して、エントランスで帰って貰ってたもん」
「確かに…恭弥君に酷い風邪とくれば、僕達の間では自然とあの『ルール』が出てきますからね。恭弥君には悪いですが、即刻僕は黒曜に帰ってましたよ」
綱吉の話が真実だとすれば、骸は現在彼女のおかげで恭弥の『酷い風邪』の影響を受けずに済んでいる、ということになる。
恐れるべきはリーゼント集団を半日でダウンさせた恭弥の『酷い風邪』の力なのか、はたまた傍にいる事だけでその菌の感染力を抑え込んでしまう綱吉の謎の力なのか。
もしかして巫女姫のご加護って、こんな処でも現れるんでしょうか、と骸はぼんやり思う。
「…………」
「ね、小さい頃は気づかなかったから、俺もびっくりしました。不思議ですよね、にいさま」
「不思議なのはそこもですよ、姫君」
「ふえ?」
「何故、一切喋っていない恭弥君とスムーズに意志の疎通ができるんです?姫君は巫女姫としての修行の過程で、読心術も会得していたんですか?」
「…どきゅ、どくしんじゅつ、って何?」
舌をちょっと縺れさせながら問い返し、きょとん、として骸を見遣る綱吉の肩にとん、と顎を載せ、紅茶を飲み干した恭弥がすり、と猫のように頬を擦りつける。
「にいさま、どくしんじゅつ、って何か知ってますか?……え、そんな凄い力なんですか!?」
「…………」
「わー、すごいなあ!俺も使ってみたいです!」
「いやいや姫君、あなたはすでに…」
使っているではありませんか、という続きを骸は口にしなかった。
こちらを見た恭弥が小さく笑って、違うよ、と唇の動きだけで伝えてきたからだ。
「では、どうして君の意志が姫君には伝わるんですか?」
骸の問いかけに、恭弥に代わって答えたのは綱吉だ。
「んー、何て言えばいいのかな…俺はこういう状態のにいさまに触ってたら、表情とか気配で、言いたい事って大体分かるんだよね…だからにいさまのとうさまとかあさまにお願いされて、ずっと湯たんぽやってた、っていうのもあるし」
「……」
これでいて実は末端冷え性なところのある恭弥にとって、子供体温で意志疎通の代行もできる上に自分の症状が感染らない綱吉は、まさにうってつけの『湯たんぽ』だったのだろう。
おまけに綱吉は初めて顔を合わせた時から恭弥にとても懐いていたし、恭弥も彼女の面倒を良く見ていたから、長時間一緒にいても飽きたりすることがなかったのだ。
…というか、自分のあるじである巫女姫を湯たんぽやメッセンジャー代わりに使ったことのある守護者など、おそらく天羽族の歴史をどこまで遡っていっても恭弥一人しかいないだろう。
大体、巫女姫とその守護者がつがいになることでさえ、稀だというのに。
「勘、っていうのもなんだか違うし…あ、そういえば」
眉を顰めつつミルクティーを飲んでいた綱吉が、ふと何かを思いだしたらしい。
「どうしました?」
「とうさまが風邪を引いて声が出なかったとき、かあさまが俺とおんなじようなことしてた。俺とにいさまみたいにくっついてはいなかったけど…確かその時、じいさまとばあさまも同じだったって言ってたような」
「…つまり姫君のそれは、血筋のなせる業、ということでしょうか?」
「そうなのかなあ?…にいさまはどう思いますか?」
「…………」
カップをソーサーに戻して恭弥を見上げると、彼は微笑してこつん、とこめかみを綱吉のそれに軽くぶつけてみせた。
「!…なるほど、そういうことかぁ」
「恭弥君は何と?」
「『つがいだから通じ合うところがあるんじゃないの?』って。…ねえ骸、凪が風邪引いたりして声が出ない時ってどうしてる?」
「筆談かジェスチャーで済ませてますが」
おそらく別の人間に同じ問いをしたら八割くらいの確率で返ってくるであろう回答を骸がすると、にこ、と綱吉が笑った。
「じゃあ、もし次にそういうことになっちゃったら、一度筆談とかするのを無くしてみると良いよ。そしたら多分、俺とにいさまのこと、解ってくると思う」
「…そういうレベルの問題なんでしょうか…」
いえきっと違うはずです二人が特別なだけで、と心の中で付け加えると。
「でも、俺達天羽族だよ?意外とできちゃうんじゃないかなあ」
至極あっさりと綱吉に返されて、骸はティーカップを手にしたまましばし固まる。
「…そうきましたか」
つがいのためなら、何だってしてあげたいと思えるほどに一途。
それが天羽族の生まれ持った、生涯変える事のできない特徴。
(想う相手のために、意志をくみ取る努力をする事など朝飯前、ということですか)
「俺とにいさまの場合は、小さい頃からずっと普通にやってたことだし、年季が入ってるのかも知れないけど。骸達にもきっと、難しい事じゃないと思うよ」
幼馴染み達の中で、唯一ずっと離れることなく時間を過ごせていた二人だから、余計に。
「そうですね。では機会が廻ってきたときに、試してみましょうか」
『つがいの力』のなせる業(わざ)、というものを。