つわものどもが…■03
俺の所為でもないのに何故か居た堪れない気持ちになって前を向き直ると、教授の視線とかち合った。と、教授は口元を緩く持ち上げて笑みをつくり、小さく頷いてみせた。そして、
「おもわぬじゃまがはいりましたね。では、すすめます」
何事もなかったかのように授業を再開した。
朝イチから疲れる講義だったが、その後はこれといったtroubleもなく穏やかな何時もの講義風景でペースを取り戻すことが出来た。が、それだけでは終わらないのが今日という日らしい。
4コマ目が思わずして休講となり、俺はする事もなく取り敢えずといった気持ちで図書室へと向かった。(5コマ目の講義がなければ迷わず帰宅しているところなんだが)
途中、何故か学部が違うはずの元親と会う。この大学は複数の学部から構成されているので、学部が違うと講義に使う校舎が違ったりして、学部違いの生徒同士がそうそう偶然で会えるもんじゃない、と思う。驚異の遭遇率だ。元親もそうだが、元就さんとの遭遇率も半端ない。元就さんは、まぁ院生ではあるが同じ学部だから顔を合わせる事があってもおかしくはないだろうけれども。…だが、しかし、だ。ほぼ毎日どこかしらで(主に昼食時が多いのだが)出くわすのはどうかと思う。
今日もどういった訳か俺を目敏く見付けた元親が声を掛けてきた。てか、いま授業中じゃねーのかよ。
「アンタ、講義はいいのかよ?」
道すがら、途中にあったベンダーで元親が買ってくれたフルーツジュースを飲みながら聞くと、
「あアん?この時間特に何も入れてねぇから気にすんな」
人好きのする笑みを浮かべてそう答えてくる。
「なんだその無駄なclass schedule」
「いや、本来ならピアノのレッスンがあんだけどよ、今週はセンセーの都合で休みなんだよ」
「え、アンタ…ピアノなんか習ってんの?」
人を見た目で判断してはいけない、とは思う。けど、正直驚いた俺は悪くないだろ。
「ンだよ、俺がピアノひいちゃオカシイか?」
「ま、…ぁ、似合うか似合わねぇか聞かれたら、」
「みなまで言うな」
「I’m sorry…」
「謝られると無駄にダメージでけぇな…まぁアレだ、俺ぁ初等教育専攻だからよ、一通りやっとこうかと思ってよ」
なるほど、ちゃんと考えてのlessonか。それにしても、この風体で小さな子供を相手にピアノでお歌…
「オマエいま失礼な事考えちゃいねぇか?」
おっと、口に出てたか?
「その目が語ってんだよ、目が」
言って、元親は俺の頭を押さえるとガシガシとかきまぜた。扱いが荒ぇよ!
そうかと思うと、
「Oh…thank you」
飲みきったジュースのパックを図書室の手前に設置されたgarbage canに捨てて入口に向かうと、待ってくれていた元親は俺が傍に寄るタイミングで何のてらいもなくドアを開けてくれる。誰に対してもそうなんだろうが、それでもこうして俺に向けてくれる優しさに気持ちが温かくなる。
図書室は講義中という事もあってか昼休みほど混雑はしていなかった。
適当に窓際の空いた席に座ると、元親がその正面に陣取る。まだ入学して大して日が経っていないのに、何故かもう慣れた風景になりつつある。
俺は午前中の講義で使ったノートを取り出した。覚えているうちに気になった個所を確認しておきたい。俺がノートと睨めっこを始めると、元親は頬杖をついて黙って俺の様子を見たり、図書室を眺めたりし始める。何時もは賑やかで人懐こい元親だが、邪魔をしてまで話しかけてはこない。本当に、出会って日が浅いとは思えないくらい、その存在がしっくりと馴染む。
「そなたは…」
まず1コマ目のノートから、と上杉教授の講義ノートをなぞっていた時、やわらかで特徴的な声が掛けられた。
「ねっしんですね、だてまさむねどの」
「教授、」
「おや、わたくしのこうぎのノートですね。いかがでしたか、わかりにくかったでしょうか?」
俺の手元にある書き取りを覗きこむように胸元に書籍を抱えた教授がやや上体を折る。花のような甘やかなそれでいてどこか凛とした香りがふわりと漂ってきた。
「いえ、とても分かり易く興味深い内容でした」
ちょっと模範的過ぎたかとも思ったが、本心なので仕方ない。教授は俺の答えに満足したように微笑んで、
「どくがんりゅう、とらのわこには、もうであえましたか?」
そう語りかけてきた。
「どくがん…?とら、の?なんですか?」
何か聞き間違えたのかと反芻すると、
「あっ、あー、あー、あの上杉教授っ」
それまで静観していた元親がいきなり腰を上げ、声高に言った。
「急にでけぇ声出すなよ元親、吃驚すンだろ」
俺が苦情を言い募ると、元親はばつの悪そうな苦笑を浮かべて「悪ぃ」と軽く詫びて寄越した。そして、
「教授、あちらでかすがが待ってますよ」
俺からは背後になる位置をさして言った。何だ?と思って振り返ると、講義の時にいた美女が険しい表情で此方をじっと見詰めていた。いや、だから視線が痛いって。なんであの人はこんな敵意ある視線を俺達に注ぐんだか。
「…なるほど、」
やや間を置いて教授が呟いた。
「これはわたくしのしりょがたりませんでした」
言って柔和な笑みを俺に向ける。途端にあの視線が強さを増した気がした。(が、敢えて確認する気にはならなかったのでスルーしておく)
「さきのことばはわすれてください、まさむねどの」
そう言うと、教授は生徒に対するにしては丁寧過ぎる礼をして、あの美人の元へと歩いていった。それから司書の詰めるカウンターに寄るのを見届けて、俺は緩く小首を傾げた。
「Ah…元親?」
「あン?」
「さっきのあれ、何だったんだろな…りゅうとか、とらとか」
俺は元親がしているのを真似るように頬杖をついて、掌に顔を預けて言った。
「さぁなァ…、でも忘れろって言ってたし、別に気にしなくていいんじゃないか?」
再び腰を落ち着けた元親も片手で頬杖をついたままで、もう片方の手を俺の方に伸ばしてきた。
「I know,but…I worry about it.気になンだろ…」
何をする気かと思っていたら、髪を撫でつけている。それ、さっきアンタが乱してくれたんだよ。(これでも一応手櫛で直したんだ!)
「今のお前に分かんねぇんなら、今は知るべき時じゃねぇんだよ」
「そんなもんかぁ?」
するに任せていると、何時の間にか撫でられている事が心地よく思えてきた。
「それにしても、」
ちらりと貸出カウンターを見遣る。貸出手続きの済んだ書籍を司書が教授に渡しているところだった。
「常人離れした人だよなぁ、上杉教授って」
「はは、違ぇねえ」
図書室から出る間際、ドアを引く所作の続きのように自然な流れで教授が此方を向いた。涼やかな双眸が俺をしっかりと捉え、細められる。俺は思わずそれに返すように小さく会釈した。
「A suspicious-looking man …(得体がしれねぇ)」
そんな俺の呟きなど知る由もない細身のシルエットが、硝子の向うを遠ざかっていった。
因みに、
上品な笑みを残して去った教授の、大事そうに持っていた書籍が法律にも政治にも関係のない、女性ばかりで構成される有名な歌劇団の季刊誌だったのは、見なかった事にしようとひとり心に決めた…
作品名:つわものどもが…■03 作家名:久我直樹