すずらん通り
すずらん通りと名前の付いているその商店街には、小さな花をかたどったライトを二つ生やした街灯が両脇に伸びている。水谷の家はその通りから一本入り、突き当たりを左、国道まで延びる緩やかな坂道の中腹にある。辺りが薄暗くなる頃、まるでおとぎの国にいるように花へ明かりが灯り、その風景にはメルヘンやファンシーといった語句がよく似合う。栄口もまた、水谷から初めてこの街灯について教えてもらったとき同じようなことを思ったのだが、通い慣れてしまった今では何ら特別な感情もわかなくなった。すずらんの花がいくら淡く光っていようとも、水谷の家でやましいことをした帰り道にはとても似つかわしくない。
幻想は打ち砕かれやすく、現実は理解を押し付ける。水谷は栄口を全部壊し、その跡地に変な建物を作って尚も居座り続けている。思い描いていたメルヘンもファンシーも実はやけに直接的で荒々しいものだと知ったとき、建物の中の水谷が窓越しにだらしなく笑った。
(……オレは全部理解したわけじゃない)
すずらん通りは買い物をする人、家へ戻る人、栄口と同じように駅へ向かう人らが、グラウンドを侵食する雑草のようにざわざわと行き交っている。肉屋の前で揚げ物の匂いをかいだら強烈な空腹感に襲われた。今日は部活がないからこそ水谷の家へ行ったのだが、二人裸になって動きの多い組体操をしていたから、いつもと同じように腹が空いていた。
コロッケは三つで百円。これからの帰路と夕飯を考えてコロッケを見送った栄口は、肉屋の横の路地裏で二つの目がきらりと鈍く光ったのを見た。建物と建物の間へ目を遣ると、少し奥で黒い猫がこちらを振り返っていた。どうやら向こうの方が先に栄口の存在を感知していたらしく、猫は不敵に「ニャア」と一声鳴き、鈴の音とともに奥へ消えていった。首輪が付いていたということは飼い猫なのだろうか。見送る栄口の耳の中では未だ鈴が鳴っている。
そびえ立つ建物は黒く、空まで伸びた先で不気味に電線が絡んでいた。その黒を蝕んで煌々と赤が揺らめきながら明度を落とし、猫が消えたあちら側とこちらとの境界を歪ませている。猫はもう去ったはずなのに、誘うような鈴はチリチリと響く。
「……栄口? どうしたの立ち止まって」
「うわっ水谷? ……そっか、そうか」
水谷は自転車の鍵へ失くさないようにと小さな鈴をつけている。その音は思いのほか透き通り、いつも栄口の心の中をころころと揺らす。
つまり猫の鈴と、水谷が自転車で近づいてくる音が調度良いタイミングで重なってしまったため起こった怪奇現象なのだった。
「オレと猫を勘違いしたわけかぁ」
「お前んちもうすぐメシじゃないの?」
隣で自転車を押しながらへらへらする水谷へ栄口は思ったことをぶつけてやった。少し棘のある言葉を意にも解せず、水谷はけろりと言ってのける。
「送ろうと思って」
「別にいい」
「駅まで」
「ならもっと要らない」
「……そういう言い方しなくてもいいじゃん」
小石を弾いた車輪に倣い、鈴が微かに揺れる。きつく言わないと引き下がらないとわかっていても露骨に不貞腐れられると心が痛んだ。
「嫌?」
「そういうわけじゃなくて、ただ必要ないってだけ」
「うわ、きっつー」
挑発するような水谷の言葉の選び方は多分寂しさからきているのだろうと栄口は思う。けれどこちらから折れてやる余裕はない。自分が何か間違ったことを言っているとは思わない。もうすぐ夕飯なのに、これから電車を乗り継いで家まで四十分以上はかかる奴を送るなんてバカげているし、ここから駅までなら距離もそうなく、送ってやるというメリットは無いも同然だ。
そんな大義名分もあったが、本当のところ栄口はただ「きつい」という水谷の言葉に憤っているだけだった。「きつい」なんていうふうに自分を形容するのはおそらく水谷だけだろう。言われ慣れない分、栄口の引っかかる部分へ耳障り悪く絡まった後、大きく跳ねた。
「……もうついて来んなよ」
「ハイハイそうですか」
自分の出した声以上に相手の声色に怒気が混じっていて少し怯んだ。横を見たら負けだからよく確かめていないが、もう自分の隣から水谷はいなくなってしまったようだ。
こういうやりとりを今週になってもう二回もしている。
(オレは悪くない)
多分水谷も同じことを思っているに違いない。瞬間的に言い訳を噛み締め、栄口はさっきより早足で駅までの道を急ぐ。親切心から来た申し出をあんなふうに「きつく」断ったのなら誰だっていい気分はしない。ここまでわかっているのに、どうしてもっといい方法が見つからなかったのか。
どちらかがまともな考えを持ち続けていないと良くない方向へどこまでも流されてしまいそうだった。そんな人の思惑も知らないで水谷はいつも自分のしたいようにふるまう。……いや、知らないわけではなく、水谷もある程度は理解しているからこその行動なのだ。自分たちはまだ高校生で、学校があり部活があり、それよりもなによりも男同士だから。
『一緒にいられるときは一緒にいたい』
『こんなに一緒にいたら誰かに怪しまれるんじゃないだろうか』
栄口と水谷の決定的な違いはここだった。
(素直になれればいいのに)
自分の中に浮かんだ素直という単語がやけにむかついて、栄口は首を振って払った。
(誰が素直だ、オレは昔から素直素直で評判な子供だったよ)
つまり水谷だけには素直になれない。それは至極当たり前で、自分を全部壊したそこでのん気に巣食うバケモノ相手なら無理もないのだった。
栄口はその小憎たらしいバケモノが、いなくなってしまったらどうしようということばかり考えている。
あんまり水谷に無理させて疲れさせて、そのうち自分のことがしんどくなられるのが怖いって言えばいいのに。それはちょっと重すぎて気持ち悪いし、考えすぎと笑われるのも癪だ。好きで好きで大切にしたいだけなのにどうしてこうもうまくいかないのか。
後ろを振り返ってももう水谷はいない。
当たり前の事なのに、じわじわと栄口の立つ地面が波打つ。あんなに突っ返した態度を取ったのだからさすがの水谷も呆れて帰ってしまったのだ。それともなんだろうか、気丈に水谷は自分の後ろで待っているとでも思ったのか? 「ついて来るな」と言い放ったのだから、水谷にだってプライドがあるだろう。
(家に着いたらメールしよう)
(……いや、朝練か部活で会ったら謝ろう)
足を進めるほど意地が膨張していく。栄口は誰かとこんな深い付き合いをしたことはなかったが、些細な争い事がきっかけで今まで築きあげてきたもの全てが壊れてしまうような予感があった。自分と水谷の関係性はそれほどまで脆く、儚い。しかしこちらが素直になったところでうまくいく保証もないのなら、渦巻く憤りに感情を委ねてしまったほうが楽だった。
行く先の交差点は青が点滅していたが、急ぐのも面倒で走ろうともしなかった。栄口が到着する前に信号は変わり、車が一斉に動き出していく。すずらん通りはもうすぐ終わる。
幻想は打ち砕かれやすく、現実は理解を押し付ける。水谷は栄口を全部壊し、その跡地に変な建物を作って尚も居座り続けている。思い描いていたメルヘンもファンシーも実はやけに直接的で荒々しいものだと知ったとき、建物の中の水谷が窓越しにだらしなく笑った。
(……オレは全部理解したわけじゃない)
すずらん通りは買い物をする人、家へ戻る人、栄口と同じように駅へ向かう人らが、グラウンドを侵食する雑草のようにざわざわと行き交っている。肉屋の前で揚げ物の匂いをかいだら強烈な空腹感に襲われた。今日は部活がないからこそ水谷の家へ行ったのだが、二人裸になって動きの多い組体操をしていたから、いつもと同じように腹が空いていた。
コロッケは三つで百円。これからの帰路と夕飯を考えてコロッケを見送った栄口は、肉屋の横の路地裏で二つの目がきらりと鈍く光ったのを見た。建物と建物の間へ目を遣ると、少し奥で黒い猫がこちらを振り返っていた。どうやら向こうの方が先に栄口の存在を感知していたらしく、猫は不敵に「ニャア」と一声鳴き、鈴の音とともに奥へ消えていった。首輪が付いていたということは飼い猫なのだろうか。見送る栄口の耳の中では未だ鈴が鳴っている。
そびえ立つ建物は黒く、空まで伸びた先で不気味に電線が絡んでいた。その黒を蝕んで煌々と赤が揺らめきながら明度を落とし、猫が消えたあちら側とこちらとの境界を歪ませている。猫はもう去ったはずなのに、誘うような鈴はチリチリと響く。
「……栄口? どうしたの立ち止まって」
「うわっ水谷? ……そっか、そうか」
水谷は自転車の鍵へ失くさないようにと小さな鈴をつけている。その音は思いのほか透き通り、いつも栄口の心の中をころころと揺らす。
つまり猫の鈴と、水谷が自転車で近づいてくる音が調度良いタイミングで重なってしまったため起こった怪奇現象なのだった。
「オレと猫を勘違いしたわけかぁ」
「お前んちもうすぐメシじゃないの?」
隣で自転車を押しながらへらへらする水谷へ栄口は思ったことをぶつけてやった。少し棘のある言葉を意にも解せず、水谷はけろりと言ってのける。
「送ろうと思って」
「別にいい」
「駅まで」
「ならもっと要らない」
「……そういう言い方しなくてもいいじゃん」
小石を弾いた車輪に倣い、鈴が微かに揺れる。きつく言わないと引き下がらないとわかっていても露骨に不貞腐れられると心が痛んだ。
「嫌?」
「そういうわけじゃなくて、ただ必要ないってだけ」
「うわ、きっつー」
挑発するような水谷の言葉の選び方は多分寂しさからきているのだろうと栄口は思う。けれどこちらから折れてやる余裕はない。自分が何か間違ったことを言っているとは思わない。もうすぐ夕飯なのに、これから電車を乗り継いで家まで四十分以上はかかる奴を送るなんてバカげているし、ここから駅までなら距離もそうなく、送ってやるというメリットは無いも同然だ。
そんな大義名分もあったが、本当のところ栄口はただ「きつい」という水谷の言葉に憤っているだけだった。「きつい」なんていうふうに自分を形容するのはおそらく水谷だけだろう。言われ慣れない分、栄口の引っかかる部分へ耳障り悪く絡まった後、大きく跳ねた。
「……もうついて来んなよ」
「ハイハイそうですか」
自分の出した声以上に相手の声色に怒気が混じっていて少し怯んだ。横を見たら負けだからよく確かめていないが、もう自分の隣から水谷はいなくなってしまったようだ。
こういうやりとりを今週になってもう二回もしている。
(オレは悪くない)
多分水谷も同じことを思っているに違いない。瞬間的に言い訳を噛み締め、栄口はさっきより早足で駅までの道を急ぐ。親切心から来た申し出をあんなふうに「きつく」断ったのなら誰だっていい気分はしない。ここまでわかっているのに、どうしてもっといい方法が見つからなかったのか。
どちらかがまともな考えを持ち続けていないと良くない方向へどこまでも流されてしまいそうだった。そんな人の思惑も知らないで水谷はいつも自分のしたいようにふるまう。……いや、知らないわけではなく、水谷もある程度は理解しているからこその行動なのだ。自分たちはまだ高校生で、学校があり部活があり、それよりもなによりも男同士だから。
『一緒にいられるときは一緒にいたい』
『こんなに一緒にいたら誰かに怪しまれるんじゃないだろうか』
栄口と水谷の決定的な違いはここだった。
(素直になれればいいのに)
自分の中に浮かんだ素直という単語がやけにむかついて、栄口は首を振って払った。
(誰が素直だ、オレは昔から素直素直で評判な子供だったよ)
つまり水谷だけには素直になれない。それは至極当たり前で、自分を全部壊したそこでのん気に巣食うバケモノ相手なら無理もないのだった。
栄口はその小憎たらしいバケモノが、いなくなってしまったらどうしようということばかり考えている。
あんまり水谷に無理させて疲れさせて、そのうち自分のことがしんどくなられるのが怖いって言えばいいのに。それはちょっと重すぎて気持ち悪いし、考えすぎと笑われるのも癪だ。好きで好きで大切にしたいだけなのにどうしてこうもうまくいかないのか。
後ろを振り返ってももう水谷はいない。
当たり前の事なのに、じわじわと栄口の立つ地面が波打つ。あんなに突っ返した態度を取ったのだからさすがの水谷も呆れて帰ってしまったのだ。それともなんだろうか、気丈に水谷は自分の後ろで待っているとでも思ったのか? 「ついて来るな」と言い放ったのだから、水谷にだってプライドがあるだろう。
(家に着いたらメールしよう)
(……いや、朝練か部活で会ったら謝ろう)
足を進めるほど意地が膨張していく。栄口は誰かとこんな深い付き合いをしたことはなかったが、些細な争い事がきっかけで今まで築きあげてきたもの全てが壊れてしまうような予感があった。自分と水谷の関係性はそれほどまで脆く、儚い。しかしこちらが素直になったところでうまくいく保証もないのなら、渦巻く憤りに感情を委ねてしまったほうが楽だった。
行く先の交差点は青が点滅していたが、急ぐのも面倒で走ろうともしなかった。栄口が到着する前に信号は変わり、車が一斉に動き出していく。すずらん通りはもうすぐ終わる。