すずらん通り
昔、すずらんだったかどうかは覚えていないが、遊んでいる時に小さくてかわいい花を見つけたことがあった。珍しく何を思ったかその花を家に持って帰ろうとして、手のひらの中へしっかり握り込み大事に運んだ。しかし家に着くころには花は手の温度で温まり、葉も花もすっかりしおれてしまっていた。水を与えてみてもその花は前のように元気になることはなかった。そのとき自分はどんな後悔をしたのだろう。とても落胆したことは覚えているけれど何度記憶をたどってみても、思い出すことはできなかった。
ここの信号は青が短く赤はやたらと長い。目障りに輝く光へ目を凝らすと、信号機のたもとになぜか息の上がった水谷がいる。
「びっくりした?」
それは多分栄口の驚いた顔を確認したからの発言で、うっすらと赤く照らされて水谷が笑う。おそらくここら周辺の道に詳しい水谷は裏道回り道を駆使して栄口を一泡吹かせようと先回りしたのだ。
「栄口先行ってたらシャレなんないなーって超いそいだ」
「……」
「あれ? 栄口まだ怒ってる?」
「最初っから怒ってねーよ」
相変わらず突っぱねる栄口の表情をじっと読んだような素振りをしたあと、水谷は「じゃあ送ってもいいよな」と、一瞬顔をしかめた相手を無視し、一人納得してしまった。
水谷はどうしてこんなに勝手なんだろう。自分へ好きだと言ってきた時も、なし崩しに抱かれてしまった時も、いつだって思うままにふるまっている。栄口は時々そんな水谷のことがとてもうらやましく、また憎らしく、それら二つが合わさるとまるで化学反応を起こしたように好きという気持ちがあふれ出てきてしまう。こんな複雑な感情は今まで生きてきた自分の中にはないものだった。
正直なところ、同性なのにもかかわらず性的欲求の対象になるくらい水谷が好意を持ってくれている事実を未だ信じられない。取り立てて容貌が美しいわけでもなく、普通の高校生と比べても中肉中背、利用価値があるほど頭の回転も良くない栄口をなぜ水谷は好いてくれるのだろう。
それが偶然でも奇跡でも、そんなふうに自分を思う水谷のことをもっと大事にしたいのなら、栄口自身が水谷を好きだという気持ちにもっと素直になるべきなのかもしれない。手のひらで大切に抱え込んでいるだけでは、いつかだめになってしまうものもあるのだ。
懲りずに自転車の後ろに乗れと言う水谷に今度は逆らわず、遠慮なく全体重を預け座ってやった。正面の背中は心なしか機嫌が良くなったようで、青になった横断歩道を力一杯こぎながら渡る。本当に駅まではすぐなのに。そう心の中で小さくつぶやいた栄口の目の前で、水谷は駅へと続く道からつらりと進路を変えた。栄口が何か言おうとするのを遮るように自転車の速度は速まる。
「おい水谷? 駅過ぎたんだけど……」
「駅まででもいいけど、オレ切符買って栄口んちまでついてくよ」
表情は伺えないが多分水谷は本気だ。水谷も水谷で自分の申し出が決して相手の迷惑になっていないことをわかっているのだろう。その時になって初めて栄口は、自分を壊すことも、その跡地に変な建物を作ることもすべて許したのは自分自身だということに気がついた。反論することを諦めた栄口の頬を横を切る風が撫でる。
「水谷はさー、時々オレが嫌になんない?」
「嫌ならとっくに別れてるでしょ?」
疑問へ疑問を返し水谷は笑う。
「男だけどつきあってるんですよ、それだけ好きだからです」
「なんで敬語」
「恥っずかしいからに決まってんだろ!」
そんなのは言われた栄口も一緒だった。夕日は既に沈み、わずかに残る薄桃色が始まりつつある夜の紺と混じり、辺りの空気は仄かにやわらかい。これから栄口の家まではまだ大分あるのに、前の水谷は悠長に流行の歌を小さく口ずさんでいる。
「ていうか行きはオレがこいでいけばいいんだよ」
「いいの! 今日は送りたい気分なの!」
「……送ってもオレもうあれやらないから」
「えー、なんで? 栄口だって意外と……」
平手で思い切り背中を叩いたら予想より大きな音とともに水谷から「ぐえ」と変な声がした。すぐ先には栄口の家まで三つあるうちの最初の坂が待ち構えている。あれをもう一度するかしないかはあの坂道すべてを水谷が登りきれたら考えることにしよう。気合を入れて立ちこぎを始めた水谷の後姿が栄口の目には何だか逞しく映って見え、相手がこちらを向いていないとわかっていても表情に困った。車輪がゆるい段差を越えると鈴も空気を震わせ、淡い音が心へ響く。