夜の東側
水谷が待ち合わせ場所の橋に辿り着くと大体真ん中あたりに栄口と自転車の姿を確認した。待ち合わせをすると栄口は必ず自分より先に来ているのが水谷には不思議だった。なぜかは知らないけど育ちの差ってやつなのかもしれない。水谷が遅れようとも困るのは自分だけだが、栄口が遅れると上の姉も下の弟も困るからなのだろうか。
いつもの挨拶のあとに出た言葉は「さみーな」だった。これも朝練のときとあまり変わらない気がする。せっかくの貴重な睡眠時間一時間を犠牲にしたのだからもっとドラマのような演出がかかってもいいと思うのに、橋はいつもの橋で、歩道側のアスファルトが徐々に削れてきているし、下を流れる川も普段通り微妙に濁っていて鮮やかな花びら一片も運んでこない。現実的過ぎて泣けてくる。
「来るわけないと思ってたからちょっと見直した」
白い息をもこもこ出して栄口は笑った。褒められているのか貶されているのかわからなくて水谷は素直に喜べなかったけど、やっぱり実物の栄口はいいなぁと思ってしまうのだった。
「一時間早いだけで車も人も全然いないんだな」
「うん、あとすごい寒い……」
「そう言うと思ってコンビニで暖かいお茶買ってきた」
手袋を取り外し、栄口からペットボトルを受け取った。凍りついた指先へじわじわと熱が通う。頬にも当てて暖を取る自分を栄口は笑い、無理して約束を守らなくていい、とほとんど独り言のように呟いた。『絶対来い』って言われたから必死にここまで来たのに一体栄口は自分にどうして欲しいんだろう。わからないことがますますわからなくなる。
まだ解凍されきっていない頬へ光がぎらりと反射した。あまりの眩しさに何事かと目を向けると、奥の家並みの向こうから朝日が顔を出していた。途端に周りの景色は色彩を持ち始める。据えた色をしていた欄干の白から紺が徐々に消えていく。
「朝日だ」
そんなわかりきっていることを自分に伝えてくる栄口が好きだった。日が差したら栄口の表情をちゃんと見て取れる。わずかに橙色に染められ、少し細められた目は川の上流へ向いていた。頬も耳も真っ赤で、自分と同じように栄口もこの夜の中で自転車を漕いでここまでやって来たと知ると無性に嬉しくなった。
「栄口ってオレのこと好きだよな」
「そこそこな」
「それどれくらい?」
「真ん中くらい?」
微妙すぎる……と口をあんぐり開けて落胆したら栄口はからから笑った。そのあとなぜだか、ふ、と流れていた空気が止まり、栄口の目線が下に逸れる。
そしたら水谷はようやく気づいた。栄口は多分怖いのだ。全力で感情を傾けたら引き起こされるであろう惨状を、自分みたいに楽観的にもなれないからずっと一人で抱えていたのかもしれない。自分が『好き』をうわ言のように繰り返しているのがまたいけないのだろう、何度も喋ったら言葉の持つ意味が薄くなってしまった。
額へ額をつけても栄口は嫌がる素振りは見せず、けれど目は決して水谷を見なかった。水谷は色々諦め、目を閉じて唇を寄せた。ただ触れているだけなのにすごく暖かくて、つけた口を動かせず棒立ちしていた。眩しい朝日が瞼の裏を赤くする。こっそり薄目を開けて確かめたら栄口もまた瞳を閉じていた。
やっぱり自分がしっかりしなきゃいけないんだなぁと水谷は反省した。多分オレが揺るぎなくどーんと構えていれば栄口の不安も減るだろうに、文句を言うのも駄々をこねるのも全部自分からでちょっと情けなくなった。
突然車の通り過ぎる音がして慌ててお互い身体を離した。既に車は真っ赤な顔をした栄口の奥へ走り去ったのだが、いくら人がいないとはいえ公道でこんなことをするのは迂闊だった。
「……朝練行くかー!」
「……おー!」
二人の世界に入っていたのが妙に気恥ずかしく、場の空気を変えたくて大声で誤魔化し合うのってどうなんだろう。栄口にもらったペットボトルのお茶が自転車のカゴの中でゴトゴト跳ねる。今はまだよくわからないけど、いつかは安心して背中を預けてもらえるような彼氏になりたい。
「彼氏!」
「何? なんか言った?」
「べ、別になんも」
前を行く栄口の背中を見ながら、水谷はまずこの居たたまれなくなって大声を出す癖をなんとかするぞと決めた。