call my name
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『七郎を探してこい』
たまたま扇の屋敷にいるところを通りすがりの父親に捕まり、何かと思えばそんな不愉快きわまりない命令を出された。
部下は大勢いるのだから、誰か他の者を遣ればいいものをと思ったが、当主の意向は絶対だ。六郎は町へ降り、七郎の通う学校から屋敷までの道を逆から辿ろうとして――屋敷からそう遠くない曲がり角で七郎の姿を見付けた。
咄嗟に路地裏に隠れてしまったのは、七郎には連れがいたからだった。
「ねぇ七郎、ホントに帰っちゃうの?」
「つれないんだからー。七郎、もっと遊びたいな~」
「ごめんね。携帯の充電が切れちゃってさ、もう戻らないと」
複数の女子に囲まれて、その名を呼ばれて、七郎の声はまんざらでもないように聞こえた。
咄嗟に隠れるしかない、他人が見たら異形でしかない自分の姿が、ひどく忌々しく感じられて仕方がない。
苦々しい気持ちは払拭されないまま、女性達と七郎が別れ、家に戻る姿を見てから、六郎は風を使って空から自宅の庭へと――七郎の前へと降り立つ。
「六郎兄さん」
七郎は驚いたように六郎を見た。
「お前、探されてたぞ」
「もしかして父さん?」
七郎はいつもと変わりのない態度だった。なのに今日はその態度が妙に苛立たしくて、その目を見る気にならない。そっぽを向いたまま六郎は頷いた。
「そうだ」
「あーやっぱり。あのさ、携帯の充電が切れちゃってさ~」
「そんなことはわかってるから、とっとと行け」
笑顔で理由を告げようとする七郎に一言だけ告げて、背を向けて去ろうとすると、ふいに後ろから身体を拘束された。とはいっても、『風』の力ではない。
六郎の腕だった。血の通った、暖かな腕に抱かれていた。
「!?」
「あのさ兄さん……こんな時ぐらい、俺を見てよ」
「見たくなくとも見えているさ、いつでもな!」
七郎は自分にとって目の上のたんこぶに他ならない。六郎の明確な拒否にも、七郎の腕は緩まない。
「見てないよ。憎しみの対象としか」
「それで充分だ!」
振りほどくために力を使って風を起こそうとしたが、七郎に先手を打たれて無効化され、足下で僅かに風が舞っただけだった。
忌々しい。自分を遙かに凌駕する力も、いつも通りの人を小馬鹿にしたような態度も、このわけのわからない早鐘を打つような自らの心臓の音も。
「そんなこと言わないでよ。じゃあさぁ……」
まだ何かあるのか。これ以上自分をグラつかせて、この男はいったい何がしたいのか。
「俺の名前を呼んで?」
何を言い出すかと思えば。そんなどうでもいいことに、これ以上時間を使うのも面倒だ。だから突き放すように告げた。
「うるさい、放せ」
「そんなこと言っても無駄だってのはもうわかってるだろうに。ねえ俺はそんなに難しい事、言ってるかな」
難しいというか、それよりも。
「さっぱりわけがわからない。お前が言うことは――」
「あ、それ。今も、お前って言った。そうじゃないんだ」
七郎は一度言葉を区切ると、ゆっくりと息を吸い、そして告げた。
「七郎って呼んでよ。昔みたいにさ」
「ハア?」
「簡単でしょ?」
「……」
名を呼ぶことで七郎が得られるものがどこにあるのか、六郎にはさっぱり分からず、困惑する。
「わからないな。お前はお前だ。名前がどうとか、どうでもいい」
「だって昔は七郎って呼んでたじゃない。今でもさ、いいじゃん」
そうだったろうか。よくわからない。
「六郎兄さんが呼んでくれないなら、俺は名前なんかいらない」
だがその一言に六郎の頭にカッと血が上る。振りほどこうとする動きを強め、後ろに振り返り七郎を睨み付けながら呻くように叫ぶ。
「それは傲慢だ!扇の名を冠したものを捨てるなど、考えるだけでも万死に値する!」
「そんな意味じゃないよ。わかんないかなあ。お前、とか、おい、とか言われてると、俺、兄さんに犬猫以下としか見られてない感じがして嫌なんだよ」
「その程度のこと。そもそも貴様は…!」
――俺なんかがいなくても、困らないのに。
これだけの力を持つ七郎に、自分は必要じゃないのに。
なのに七郎は六郎に語りかける。
「たった一言、七郎、って言ってくれるだけでいいんだ、簡単だろ?」
その時ふいに、耳の奥に甦った音があった。
『七郎』
まだ若い少女達の、七郎を呼ぶ声。屈託なく、好意を込めて、親しげに。ついさっき、聞いたばかりの声だ。
「お前は……!」
怒りで目の前が真っ赤になりそうだった。
気付いてしまった。
自分の名前を呼んでくれるものは、もう一族の者と家族しかいないのだ。
――七郎と、違って。
「お前の名を呼ぶ者など、いくらでもいるじゃないか!俺と違って」
たとえばさっきの女の子達のように。自分の知らない場所で、知らない相手と、楽しげに、親しげに。
「俺のような、こんな……化け物と、違って……!」
六郎の剣幕に押されるように七郎が目を見張っている。心の底から心外だと思っている、ように見えた。
「六郎兄さんは化け物じゃない」
そんな一言もただ滑稽なだけだった。六郎は堰を切ったように喉の奥でクク、と笑い出す。一度飛び出した自嘲の笑いは長く続いた。
「クク、ククク、ハハハ……」
なにか腫れ物を扱うかのように六郎を掴む手を七郎は緩めた。
このくだらない茶番も終わりかと思った時。
「そんなつもりじゃないんだ、兄さん」
七郎は六郎の体を自分の方へと向けて、六郎の唇を塞いだ。自分の唇で。
「っ……!?」
困惑。そして――怒り。気がつくと、ガチンと音がしそうなほどの勢いで、自分の歯を七郎の唇に立てていた。
「つっ!」
七郎の唇が離れる。六郎の口の中にも血の味が広がる。七郎の唇から流れる血だ。
「あの女どもにも使う手だろう。不愉快だ、止めろ」
不思議なことに頭に登った血は霧散していた。知らなかった。怒りは振り切ると却って冷静になるなんて。
「女……?」
六郎に噛まれた唇を舌で拭いながら、七郎はなんのことかわからない、という顔をした。
「さっきまで、女と一緒だったろう。七郎、なんて呼ばれてずいぶん親しかったみたいだが?」
「ああ、彼女たち?違うよ、ただの遊び友達。こんなキスなんかしない」
「どうだかな」
六郎の嫌味に、七郎はへら、っと笑って見せた。
「嫉妬?」
「そんな訳があるか。いい加減放せ。親父が待ってる」
「あ、そうか」
そしてさっきまでのせがむような抱擁はなんだったのかと思うくらい簡単に七郎は手を離した。
「あー残念。結局俺の名前呼んでくれないなんて、兄さんのいけず」
「言ってろ」
こんなキスはしないなら、どんなキスならするのだろうか、などという不愉快な考えも浮かぶが、何故か怒りが素通りして持続しない。
ようやく七郎からの束縛から解放された六郎は、七郎に背を向けて歩き出す。
「どこ行くの?」
「俺の勝手だ」
七郎が肩をすくめる気配がしたが、六郎は足早にその場を後にした。
ひとり残されて、七郎は深くため息をつく。勿論その場に他に誰もいないことを知っていて、だ。
六郎の痛々しい笑い声が耳に残り、身体を巡って胸を刺す。
「こんなふうにしたいわけじゃ、なかったのに」
『七郎を探してこい』
たまたま扇の屋敷にいるところを通りすがりの父親に捕まり、何かと思えばそんな不愉快きわまりない命令を出された。
部下は大勢いるのだから、誰か他の者を遣ればいいものをと思ったが、当主の意向は絶対だ。六郎は町へ降り、七郎の通う学校から屋敷までの道を逆から辿ろうとして――屋敷からそう遠くない曲がり角で七郎の姿を見付けた。
咄嗟に路地裏に隠れてしまったのは、七郎には連れがいたからだった。
「ねぇ七郎、ホントに帰っちゃうの?」
「つれないんだからー。七郎、もっと遊びたいな~」
「ごめんね。携帯の充電が切れちゃってさ、もう戻らないと」
複数の女子に囲まれて、その名を呼ばれて、七郎の声はまんざらでもないように聞こえた。
咄嗟に隠れるしかない、他人が見たら異形でしかない自分の姿が、ひどく忌々しく感じられて仕方がない。
苦々しい気持ちは払拭されないまま、女性達と七郎が別れ、家に戻る姿を見てから、六郎は風を使って空から自宅の庭へと――七郎の前へと降り立つ。
「六郎兄さん」
七郎は驚いたように六郎を見た。
「お前、探されてたぞ」
「もしかして父さん?」
七郎はいつもと変わりのない態度だった。なのに今日はその態度が妙に苛立たしくて、その目を見る気にならない。そっぽを向いたまま六郎は頷いた。
「そうだ」
「あーやっぱり。あのさ、携帯の充電が切れちゃってさ~」
「そんなことはわかってるから、とっとと行け」
笑顔で理由を告げようとする七郎に一言だけ告げて、背を向けて去ろうとすると、ふいに後ろから身体を拘束された。とはいっても、『風』の力ではない。
六郎の腕だった。血の通った、暖かな腕に抱かれていた。
「!?」
「あのさ兄さん……こんな時ぐらい、俺を見てよ」
「見たくなくとも見えているさ、いつでもな!」
七郎は自分にとって目の上のたんこぶに他ならない。六郎の明確な拒否にも、七郎の腕は緩まない。
「見てないよ。憎しみの対象としか」
「それで充分だ!」
振りほどくために力を使って風を起こそうとしたが、七郎に先手を打たれて無効化され、足下で僅かに風が舞っただけだった。
忌々しい。自分を遙かに凌駕する力も、いつも通りの人を小馬鹿にしたような態度も、このわけのわからない早鐘を打つような自らの心臓の音も。
「そんなこと言わないでよ。じゃあさぁ……」
まだ何かあるのか。これ以上自分をグラつかせて、この男はいったい何がしたいのか。
「俺の名前を呼んで?」
何を言い出すかと思えば。そんなどうでもいいことに、これ以上時間を使うのも面倒だ。だから突き放すように告げた。
「うるさい、放せ」
「そんなこと言っても無駄だってのはもうわかってるだろうに。ねえ俺はそんなに難しい事、言ってるかな」
難しいというか、それよりも。
「さっぱりわけがわからない。お前が言うことは――」
「あ、それ。今も、お前って言った。そうじゃないんだ」
七郎は一度言葉を区切ると、ゆっくりと息を吸い、そして告げた。
「七郎って呼んでよ。昔みたいにさ」
「ハア?」
「簡単でしょ?」
「……」
名を呼ぶことで七郎が得られるものがどこにあるのか、六郎にはさっぱり分からず、困惑する。
「わからないな。お前はお前だ。名前がどうとか、どうでもいい」
「だって昔は七郎って呼んでたじゃない。今でもさ、いいじゃん」
そうだったろうか。よくわからない。
「六郎兄さんが呼んでくれないなら、俺は名前なんかいらない」
だがその一言に六郎の頭にカッと血が上る。振りほどこうとする動きを強め、後ろに振り返り七郎を睨み付けながら呻くように叫ぶ。
「それは傲慢だ!扇の名を冠したものを捨てるなど、考えるだけでも万死に値する!」
「そんな意味じゃないよ。わかんないかなあ。お前、とか、おい、とか言われてると、俺、兄さんに犬猫以下としか見られてない感じがして嫌なんだよ」
「その程度のこと。そもそも貴様は…!」
――俺なんかがいなくても、困らないのに。
これだけの力を持つ七郎に、自分は必要じゃないのに。
なのに七郎は六郎に語りかける。
「たった一言、七郎、って言ってくれるだけでいいんだ、簡単だろ?」
その時ふいに、耳の奥に甦った音があった。
『七郎』
まだ若い少女達の、七郎を呼ぶ声。屈託なく、好意を込めて、親しげに。ついさっき、聞いたばかりの声だ。
「お前は……!」
怒りで目の前が真っ赤になりそうだった。
気付いてしまった。
自分の名前を呼んでくれるものは、もう一族の者と家族しかいないのだ。
――七郎と、違って。
「お前の名を呼ぶ者など、いくらでもいるじゃないか!俺と違って」
たとえばさっきの女の子達のように。自分の知らない場所で、知らない相手と、楽しげに、親しげに。
「俺のような、こんな……化け物と、違って……!」
六郎の剣幕に押されるように七郎が目を見張っている。心の底から心外だと思っている、ように見えた。
「六郎兄さんは化け物じゃない」
そんな一言もただ滑稽なだけだった。六郎は堰を切ったように喉の奥でクク、と笑い出す。一度飛び出した自嘲の笑いは長く続いた。
「クク、ククク、ハハハ……」
なにか腫れ物を扱うかのように六郎を掴む手を七郎は緩めた。
このくだらない茶番も終わりかと思った時。
「そんなつもりじゃないんだ、兄さん」
七郎は六郎の体を自分の方へと向けて、六郎の唇を塞いだ。自分の唇で。
「っ……!?」
困惑。そして――怒り。気がつくと、ガチンと音がしそうなほどの勢いで、自分の歯を七郎の唇に立てていた。
「つっ!」
七郎の唇が離れる。六郎の口の中にも血の味が広がる。七郎の唇から流れる血だ。
「あの女どもにも使う手だろう。不愉快だ、止めろ」
不思議なことに頭に登った血は霧散していた。知らなかった。怒りは振り切ると却って冷静になるなんて。
「女……?」
六郎に噛まれた唇を舌で拭いながら、七郎はなんのことかわからない、という顔をした。
「さっきまで、女と一緒だったろう。七郎、なんて呼ばれてずいぶん親しかったみたいだが?」
「ああ、彼女たち?違うよ、ただの遊び友達。こんなキスなんかしない」
「どうだかな」
六郎の嫌味に、七郎はへら、っと笑って見せた。
「嫉妬?」
「そんな訳があるか。いい加減放せ。親父が待ってる」
「あ、そうか」
そしてさっきまでのせがむような抱擁はなんだったのかと思うくらい簡単に七郎は手を離した。
「あー残念。結局俺の名前呼んでくれないなんて、兄さんのいけず」
「言ってろ」
こんなキスはしないなら、どんなキスならするのだろうか、などという不愉快な考えも浮かぶが、何故か怒りが素通りして持続しない。
ようやく七郎からの束縛から解放された六郎は、七郎に背を向けて歩き出す。
「どこ行くの?」
「俺の勝手だ」
七郎が肩をすくめる気配がしたが、六郎は足早にその場を後にした。
ひとり残されて、七郎は深くため息をつく。勿論その場に他に誰もいないことを知っていて、だ。
六郎の痛々しい笑い声が耳に残り、身体を巡って胸を刺す。
「こんなふうにしたいわけじゃ、なかったのに」
作品名:call my name 作家名:y_kamei