桜渡り
1.
春の宵は冷える。昼間の暖かさとは異なり、思い出したかのように強く冷たい風が吹き抜けてゆく。その風が満開の桜を吹き散らし、数多の薄紅の欠片が渦を巻く。その幾つかが風に弄ばれ、銀にも見える癖のある白髪に徒に絡め取られる。だが、桜の大木の根元にうずくまり、脳裏に響く声にただただ耐える弥三郎には、それを払う余裕などなかった。
『あのような姫若子が継嗣とはお家の行く末が思いやられる』
『背ばかり伸びてなんと貧相なことよ。いっそのこと病みついて儚くなればいいものを』
耳にしてしまった、弥三郎の居ない場所で吐かれていた容赦のない陰口が何度も繰り返し脳裏に響く。少年は両手で耳を潰れる程に強く塞ぎ、ぎゅっと目を瞑った。己の裡から響いてくる声がそんなことで防げる筈もなかったが、そうでもしないと耐えられるものではなかった。
自分でもわかっている。
ひょろひょろと伸びるだけ伸びて肉がつかず、風が吹けば飛びそうな細い身体。生まれつき色素の薄い、誰にも似つかぬ銀の髪と蒼い瞳。本とカラクリにばかり興味を持つ、大人しく内向的な性格。気の荒い海の男達を束ねる長曾我部家の頭領として、己がふさわしいとは弥三郎自身も思ってはいなかった。
――だがそれでも、弥三郎には強い思いがあった。
「泣いているのか」
突然響いた声に、驚いて身体がビクリと跳ねる。しっかりと耳を塞いでいた筈なのに、まるで耳元で聞こえているかのような凛とした声。弥三郎は驚いて耳から手を離し、弾かれたように声の主を見上げた。
きれいなひとだった。
歩いて近づいてきた様子もない、ただそこに忽然と現れたかのように立つその男は、舞い散る桜の花弁を背にしてじっと弥三郎を見つめていた。その鋭い眼差しに射竦められながら、弥三郎はそのひとから目が離せなかった。陽に焼けて色が抜けたような薄い茶色の髪。若草色の狩衣めいた着物と、黄檗色の薄い口布。いつも自分の周りにいる大人とは全く違う大人だった。高貴というのはこういうひとのことを言うのだろうか。その姿に見とれながらも、無遠慮に見据えてくる瞳のその尊大さに、弥三郎は怯えてただ身体を強張らせるばかりだった。
「泣いておらぬのか。つまらぬ」
大して興味も無さそうな、淡々とした口調で男は言った。このきれいなひとに失望された、そう思った瞬間に咄嗟に声が出てしまった。
「泣いたり致しませぬ。私は男ですから」
気圧されて力の入らぬ目で、それでも精一杯相手を睨んだ。しかし男は嘲るように鼻で笑うと、一層冷やかな声音で言い捨てた。
「男は泣いてはいかぬのか。そのようなこと誰が決めた」
「父がそう申しておりました」
「父の言うことは全て正しいか。従順なことよ」
男は弥三郎の言葉に答えを用意していたように、間髪入れずに嘲笑う。その怜悧な美貌で口の端を歪め、睨み下ろすように見つめられ、弥三郎はその威圧感に堪え切れず目を伏せた。それでも自分の矜持は示しておきたくて、口の中で呟くように言った。
「子が父に従うのは当然のこと。何より私は長曾我部家の継嗣なのですから」
「姫若子よ、と蔑まれてもか?」
追い打ちをかけるように男が言う。膿んでいる傷を的確に抉られ、弥三郎は眼を見開き身を強張らせた。家臣たちの口さがない陰口がまた脳裏を駆け巡り、心の臓が掴まれたようにぎりりと痛む。思わず胸の前で拳を握りしめた。
わかっている。わかってはいるがどうしたらいいかわからない。継嗣として尊重されながらも、継嗣に相応しからずと言われて慇懃に見下され、それでも自分はそれに反駁するだけの才が無い。見知らぬひとに揺さぶられた感情の昂りが、溜めこんでいた鬱屈と共に臨界点に達し、滴となってぽろりと弥三郎の瞳からこぼれ落ちた。
「皆が言うのです。私などいなければいいと。あんなひ弱な後継ぎなど要らぬと。このような気味の悪い、白い髪と蒼い瞳の片目の見えぬ鬼子など死ねばいいと」
声が震えた。今まで吐きだす先がなかった鬱屈が溢れ出す。一度溢れ出した涙は堰を切ったように止め処なく落ち、自嘲に歪んだ頬をしとどに濡らす。このうつくしいひとに醜い姿を晒しているのは分かっていたが、今まで堪えていた分だけその感情の奔流は凄まじく、止めることなど出来なかった。
「望んでこのような姿に生まれついた訳でもないのに……!!」
「そうであろうな」
弥三郎がその感情のままに叩きつけるように叫ぶと、その全てを受け流すような、さらりとした肯定が返ってきた。惰弱な奴よ、と痛烈な言葉が返ってくると想像していただけに、弥三郎は驚きに目を丸くして男を見上げた。
見ると男は、先ほどまで浮かべていた嘲笑を消し去り、感情の読み取れない、凪いだ海のように澄んだ瞳で真っ直ぐに弥三郎を見ていた。
「確かにその見た目はそなたのせいではない。だが今ここで、膝を抱えてわが身を恨み憐れんでいるのはそなた自身の弱さよ。そんなことをしている暇があるのなら、己の全てを尽くして成すべきことを為すがよい」
「しかし、皆が――」
「周りがどう思うかなど、そなたが為すことに何の障りがあるのだ。――そなたには、望みがあるのだろう」
その言葉に、胸を突かれる。
このひとは、最初から全てを知っていたのだろうか。誰にも話したことのない、話せる相手も無い、それでも自分がずっと抱えている強い、願いを。それは、抜き取られるかのように、するりと口から零れ出た。
「私は、守りたい。父も、母も、弟たちも、兵も、民も、国も、海も、皆、好きなのです。守りたいのです」
「ならばそうすればよい。その望みを叶える為に己が何をすべきかを考えて為せ。何事も、為さねば成りはせぬ」
自らの願いをはっきりと口に出した弥三郎に満足したかのように、男はうっすらと、有りか無きかの笑みを浮かべた。思いもかけぬ柔らかな表情に、弥三郎の鼓動が跳ね、頬に血が集まる。不可思議でうつくしいこのひとを、見ていたいのに見ていると苦しい、初めての感覚に弥三郎は戸惑った。そして衝動のままに問うた。
「あなたは、誰なのです」
「……それは初めに訊くべきことであろうに。そなたは本当に間の抜けた奴よ。――今も、昔も、な」
「え?」
その謎めいた言葉の意味を問おうとした時、殊更に強い風が吹き薄紅の花弁を吹き散らした。思わず目を閉じて花嵐に耐えると、目を開けた時にはもうその男の姿はそこには無かった。
現れた時と同じく、唐突に。
『いずれまた会うこともあろう。それまでに強くなれ。我と相対して劣らぬ程度にはな――』
風が運んできたその言葉と、弥三郎の中に強烈な存在感を残して。
春の宵は冷える。昼間の暖かさとは異なり、思い出したかのように強く冷たい風が吹き抜けてゆく。その風が満開の桜を吹き散らし、数多の薄紅の欠片が渦を巻く。その幾つかが風に弄ばれ、銀にも見える癖のある白髪に徒に絡め取られる。だが、桜の大木の根元にうずくまり、脳裏に響く声にただただ耐える弥三郎には、それを払う余裕などなかった。
『あのような姫若子が継嗣とはお家の行く末が思いやられる』
『背ばかり伸びてなんと貧相なことよ。いっそのこと病みついて儚くなればいいものを』
耳にしてしまった、弥三郎の居ない場所で吐かれていた容赦のない陰口が何度も繰り返し脳裏に響く。少年は両手で耳を潰れる程に強く塞ぎ、ぎゅっと目を瞑った。己の裡から響いてくる声がそんなことで防げる筈もなかったが、そうでもしないと耐えられるものではなかった。
自分でもわかっている。
ひょろひょろと伸びるだけ伸びて肉がつかず、風が吹けば飛びそうな細い身体。生まれつき色素の薄い、誰にも似つかぬ銀の髪と蒼い瞳。本とカラクリにばかり興味を持つ、大人しく内向的な性格。気の荒い海の男達を束ねる長曾我部家の頭領として、己がふさわしいとは弥三郎自身も思ってはいなかった。
――だがそれでも、弥三郎には強い思いがあった。
「泣いているのか」
突然響いた声に、驚いて身体がビクリと跳ねる。しっかりと耳を塞いでいた筈なのに、まるで耳元で聞こえているかのような凛とした声。弥三郎は驚いて耳から手を離し、弾かれたように声の主を見上げた。
きれいなひとだった。
歩いて近づいてきた様子もない、ただそこに忽然と現れたかのように立つその男は、舞い散る桜の花弁を背にしてじっと弥三郎を見つめていた。その鋭い眼差しに射竦められながら、弥三郎はそのひとから目が離せなかった。陽に焼けて色が抜けたような薄い茶色の髪。若草色の狩衣めいた着物と、黄檗色の薄い口布。いつも自分の周りにいる大人とは全く違う大人だった。高貴というのはこういうひとのことを言うのだろうか。その姿に見とれながらも、無遠慮に見据えてくる瞳のその尊大さに、弥三郎は怯えてただ身体を強張らせるばかりだった。
「泣いておらぬのか。つまらぬ」
大して興味も無さそうな、淡々とした口調で男は言った。このきれいなひとに失望された、そう思った瞬間に咄嗟に声が出てしまった。
「泣いたり致しませぬ。私は男ですから」
気圧されて力の入らぬ目で、それでも精一杯相手を睨んだ。しかし男は嘲るように鼻で笑うと、一層冷やかな声音で言い捨てた。
「男は泣いてはいかぬのか。そのようなこと誰が決めた」
「父がそう申しておりました」
「父の言うことは全て正しいか。従順なことよ」
男は弥三郎の言葉に答えを用意していたように、間髪入れずに嘲笑う。その怜悧な美貌で口の端を歪め、睨み下ろすように見つめられ、弥三郎はその威圧感に堪え切れず目を伏せた。それでも自分の矜持は示しておきたくて、口の中で呟くように言った。
「子が父に従うのは当然のこと。何より私は長曾我部家の継嗣なのですから」
「姫若子よ、と蔑まれてもか?」
追い打ちをかけるように男が言う。膿んでいる傷を的確に抉られ、弥三郎は眼を見開き身を強張らせた。家臣たちの口さがない陰口がまた脳裏を駆け巡り、心の臓が掴まれたようにぎりりと痛む。思わず胸の前で拳を握りしめた。
わかっている。わかってはいるがどうしたらいいかわからない。継嗣として尊重されながらも、継嗣に相応しからずと言われて慇懃に見下され、それでも自分はそれに反駁するだけの才が無い。見知らぬひとに揺さぶられた感情の昂りが、溜めこんでいた鬱屈と共に臨界点に達し、滴となってぽろりと弥三郎の瞳からこぼれ落ちた。
「皆が言うのです。私などいなければいいと。あんなひ弱な後継ぎなど要らぬと。このような気味の悪い、白い髪と蒼い瞳の片目の見えぬ鬼子など死ねばいいと」
声が震えた。今まで吐きだす先がなかった鬱屈が溢れ出す。一度溢れ出した涙は堰を切ったように止め処なく落ち、自嘲に歪んだ頬をしとどに濡らす。このうつくしいひとに醜い姿を晒しているのは分かっていたが、今まで堪えていた分だけその感情の奔流は凄まじく、止めることなど出来なかった。
「望んでこのような姿に生まれついた訳でもないのに……!!」
「そうであろうな」
弥三郎がその感情のままに叩きつけるように叫ぶと、その全てを受け流すような、さらりとした肯定が返ってきた。惰弱な奴よ、と痛烈な言葉が返ってくると想像していただけに、弥三郎は驚きに目を丸くして男を見上げた。
見ると男は、先ほどまで浮かべていた嘲笑を消し去り、感情の読み取れない、凪いだ海のように澄んだ瞳で真っ直ぐに弥三郎を見ていた。
「確かにその見た目はそなたのせいではない。だが今ここで、膝を抱えてわが身を恨み憐れんでいるのはそなた自身の弱さよ。そんなことをしている暇があるのなら、己の全てを尽くして成すべきことを為すがよい」
「しかし、皆が――」
「周りがどう思うかなど、そなたが為すことに何の障りがあるのだ。――そなたには、望みがあるのだろう」
その言葉に、胸を突かれる。
このひとは、最初から全てを知っていたのだろうか。誰にも話したことのない、話せる相手も無い、それでも自分がずっと抱えている強い、願いを。それは、抜き取られるかのように、するりと口から零れ出た。
「私は、守りたい。父も、母も、弟たちも、兵も、民も、国も、海も、皆、好きなのです。守りたいのです」
「ならばそうすればよい。その望みを叶える為に己が何をすべきかを考えて為せ。何事も、為さねば成りはせぬ」
自らの願いをはっきりと口に出した弥三郎に満足したかのように、男はうっすらと、有りか無きかの笑みを浮かべた。思いもかけぬ柔らかな表情に、弥三郎の鼓動が跳ね、頬に血が集まる。不可思議でうつくしいこのひとを、見ていたいのに見ていると苦しい、初めての感覚に弥三郎は戸惑った。そして衝動のままに問うた。
「あなたは、誰なのです」
「……それは初めに訊くべきことであろうに。そなたは本当に間の抜けた奴よ。――今も、昔も、な」
「え?」
その謎めいた言葉の意味を問おうとした時、殊更に強い風が吹き薄紅の花弁を吹き散らした。思わず目を閉じて花嵐に耐えると、目を開けた時にはもうその男の姿はそこには無かった。
現れた時と同じく、唐突に。
『いずれまた会うこともあろう。それまでに強くなれ。我と相対して劣らぬ程度にはな――』
風が運んできたその言葉と、弥三郎の中に強烈な存在感を残して。