桜渡り
epilogue.
元親が目覚めて、初めに目に入ったのは、あの朱い社ではなく見慣れた自分の寝床の天井だった。腕の中にあのひとは居らず、かけられた夜着が暑苦しい。大量にかいた汗が乾いて体中がべたべたしていて気持ちが悪い。身動ぎをすると、強張った関節と筋肉が急な動きに耐えられず軋む。まるで寝過ぎた朝のようだった。
まだ元親の意識は混濁していた。こうやって目覚めた以上、あれは夢だったのだろうか。その感触も匂いもまだ生々しく覚えているのに、今この腕の中にはあいつは居ない。そしてどこからどこまでが夢だったのか。幼い頃にあいつに会った記憶など無いのに、今となってはその記憶が曖昧になるほどに夢が鮮やか過ぎて混乱する。
「目覚めたか」
枕元から降ってきた言葉に、元親は目を剥いた。聞き慣れた、夢の中ですら聞いていたその声。軋む首を巡らし見上げると、憮然とした顔で元親の枕元に坐す毛利と目が合った。
「何でアンタがここにいるんでェ?」
混乱し疲弊した頭で考えることが億劫で、思ったままを口にすると毛利は厭そうに眉を顰めた。
「貴様の駒共が来てくれとしつこく頼むから来てやったまでよ。流行病で寝込むなど惰弱極まりないわ。どうせなら目覚めなければ良かったものを。死んでおれば、形ばかりの弔いをするにもまた訪なう無駄がなく済んだというに。三日も生死を彷徨いながら生き汚い男よ。今からでも遅くはないぞ、長曾我部」
立て板に水とばかりに淡々と罵詈雑言をまくし立てる、その常の毛利らしからぬ不自然なまでの多弁さに、元親は驚きながらもつい頬が緩むのを止められなかった。毛利を見上げてにやにやと笑う。
「何だ」
「あー……アンタだ。アンタが、アンタだ」
未だにやにやと笑いながら意味の通じないことを口走る元親を、毛利は不機嫌顔で見下ろした。
「気持ちの悪い奴よ。貴様が目覚めたからには駒共も文句はないであろう。帰る」
「おいおい、まだいいじゃねェか。せっかく来てくれたんだしよ。――ありがとな」
「――仕方なく、だと言っておろう」
「そういうことにしといてやっても良いけどよ。なァ毛利、手ェ出せよ」
元親は、寝たまま指先だけを動かして毛利に手を出させる。元親の意図が分からないまま、毛利は不審げにそっと手を差し出し、元親の手に触れた。元親は、その手を掴んで引き寄せ、その手の平を自分の方へ向けてじっと見つめた。そして親指で毛利の手の平をぐり、と撫でる。
「ああ、やっぱり心配させちまったよな。すまねえ」
「何を言って――」
何か固い物をほぐそうとするように、ゆっくりと毛利の手の平を撫でながらぽつりと言う元親に、毒気を抜かれたような戸惑った表情を見せていた毛利だが、ふと何かに気付いて慌てて掴まれていた手を振り払おうとする。だが一瞬早くその気配を察した元親にさらに強く掴まれ、逃れることはできなかった。羞恥を隠そうとして元親を睨みつける視線は鋭いが、毛利の目元はほんのりと赤く染まっており、元親は身体が本調子ではないのを悔しく思った。この身体が今自由に動けばめちゃくちゃに愛してやるのに。
「貴様など、目覚めねば良かったのだ」
どこか拗ねた口調で毛利が言う。元親は掴んだ毛利の手を自らの口元へ引き寄せ、その手の平に唇を押しあてて匂いを嗅ぐように目を閉じた。少しでも、この男を愛しく想う気持ちが伝わるように。毛利はそんな元親を、何かを堪えるように目を細めて見つめていた。
ふと目を開け、何かを思い出したかのように元親が言った。
「なァ、俺とアンタが初めて会ったのっていつだったか覚えてっか?」
「そのような取るに足らぬことを覚えている筈が無かろう。どうせどこかの戦場よ」
「そうだよなァ?でも何だか、さっきの夢じゃねェけど、昔、アンタに会ったことがあるような気がするんだよなァ」
それに毛利は何も言わなかった。自分が、毛利の知る筈のないあの克明すぎる夢と現実を混同して馬鹿なことを言っている自覚はあったので、元親はそれを特に気に留めもしなかった。
突然くらりと元親の意識が揺れる。体力の落ちた身体は休息を求めていた。
「あー。ちょっと寝るわ。起きるまで待ってろよ?」
「馬鹿を言うな」
「まァそう言うなって。――今度は、痕が付くほど握り締めてなくていいからよ」
元親がそう言った時にはもう意識が遠のきかけており、毛利がどんな表情をしていたのかは分からなかった。ただ、握り締めた毛利の手が微かにぴくりと震えたのを感じながら、元親は意識を手放した。毛利の手を掴んでいた元親の手から力が抜ける。毛利は、眠りに落ちた元親をじっと見下ろしながら、静かに自らの手を引き抜いた。
そうして、感情のこもらぬ声でぽつりと呟く。
「寝汚い男よ。我に待てとは図々しい」
毛利は今まで掴まれていた手を伸ばし、呑気な顔で眠る元親の頬を手の甲でするりと撫でた。高熱の名残かいつもより熱く、べたついた肌が手に貼りつく。生きている。
「根が単純すぎて他愛もない奴め。我にとっては都合がいいが、忌々しくもある。――…貴様は気付かないのだろう?我が、貴様の人生の楔となりたいと望むほどに執着しているなど」
毛利は、元親の額に貼りついた銀髪の束を、ひとつひとつ剥がして髪を梳いた。そして眼帯に覆われた左目を、そっと親指でなぞる。
「我が、自ら仕掛けた夢の中の己にまで妬心を感じるなど馬鹿げている。だが貴様のことになると欲を止めることが出来ぬ。国や家のことならば己を制することは容易いというに。――本当に厭な男よ」
「なんだよくすぐってェよ……」
寝ていた筈の元親が突然そう言って、顔を背けて毛利の指から逃れた。今の独白を聞かれていたのかと毛利は一瞬蒼褪めたが、またそのまま穏やかな寝息を立て始める元親を見て、強張っていた身体の力を抜いた。そうしてほっとしたように、元親には決して見せない、有りか無きかの微笑みを浮かべ、独りごちる。
「貴様は本当に間の抜けた奴よ。今も、昔も、な」
そう言って毛利が人差し指で元親の鼻をぐり、と押すと、元親はふが、と鼻を鳴らした。