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「桜を見に行かない?」
やって来て、そう俺を誘ったのは、彼女だった。
その服装は普段好んで着ているものと、明らかに異なっている。
「…良いよ。でも、少し待ってて貰えないか」
「どうして?」
「君の隣を歩くのに、この格好じゃあね」
「…早くね」
応接スペースのソファに腰掛けた彼女の、ふんわりとしたその格好は、少しだけ幼い印象を俺に与えた。
だから、だろうか。俺もまた、数年前に着るのを止めた衣服を取り出した。
弱い雨の上がったばかりの午後だった。
澄んだ空気に、僅かばかりの肌寒さを覚える。未だ空は灰色だった。
「どうしたの」
濡れたコンクリートの整備が手薄になった頃、俺は、隣を歩く彼女に声だけで尋ねた。彼女は華奢なヒールを履いており、自然、足取りは遅くなる。
「桜が好きなのよ」
「…へぇ、知らなかったな」
「教えてないもの」
「ハハ…そうだった」
他愛もない会話だった。お互い、視線を合わせることはない。
「ここはね、私のお気に入りの場所なの」
「…そう」
今日の彼女に合わせて歩くと、世界が、″見慣れた″景色がどこか違って見えるのが、不思議だった。
「でも、どうしてだい?君のことだから、誠二君との思い出の場所だったりするのかな」
「…貴方は、変わらないわね」
「え?」
「…ここには、一度だってあの子を連れて来たことはないわ」
―風が吹いた。散らばった花びら達が、一斉に舞い上がり、
「貴方が初めてよ」
彼女は、長い髪を押さえつつ、俺を見た。
「そして、貴方以外の人間とここに来ることも、ない」
頭上から舞い落ちた花びらの飾りを彼女は、一枚一枚、丁寧に、自由にしていく。その仕草は、まるで、俺に、この瞳に焼きつけろと訴えるように、優美で、艶やかだった。
「ねぇ、臨也」
「…待って」
別に、制止するつもりはなかった。ただ、
「一枚、絡んでるよ」
黒に映える薄桃色を、俺は手に取りたかっただけだった。
「っ…ん」
「ごめん、痛くした?」
「…平気よ」
何だか複雑に絡んでしまっているようで、夢中になるあまり、二人の距離が近くなる。
「…波江?」
徐々に差して来た、桜を割り込む陽の光に、俺も彼女も、目を細めた。
「何…?」
ずっと以前、あったはずの情景を思い出す。けれど、その時は、こんな気持ちにはならなかった。
「花びら、取れない―――」
ただ、もう終わりだという諦めしか、そこにはなかった。
「取れないの………?」
「うん」
―嘘だった。俺のジャケットのポケットには、確かに花びらが一枚、仕舞われている。
「全然、取れなくて…」
「…ええ」
彼女の細い身体を抱き締めた腕の力が、強くなった。
「これじゃ、俺、諦めつかないな」
「……………」
応えない彼女の視線が揺れる。見つめて追いかければ、それは雲が晴れ、覗いた青空に咲いた桜に行き着いた。
あちらこちらから差す光は暖かく、彼女も俺も、同じだけ息を吐く。
「取れないんじゃ、仕方ないわね」
一緒に降ろした視線を重ねると、彼女は小さく声を出して笑った。
「貴方以外に、頼める相手がいないの」
そうして微笑んだ彼女を抱き締め直し、俺はその唇にそっと、口づけた。
ジャケットに仕舞ったはずの桜は、家路に着く頃には姿を消していて、俺はその晩、彼女と来年もあの桜を見に行く約束を交わした。
『恋と知った日』
作品名:恋愛 作家名:璃琉@堕ちている途中